第十話 「密貿易の黒い影」
離れで絵の制作が佳境を迎える一方、黒髪藩の城下町は破滅の縁へと追い詰められていた。
昼下がり、絵具の買い出しから戻った源次が、塗料の壺を抱えたまま苦々しい顔で信斎に歩み寄ってきた。小太郎が離れの奥で真剣に松の葉を描き込んでいるのを確認し、源次は声を潜めた。
「……師匠。城下は、いよいよ爆発寸前です」
「何があった」
「海国屋の手下が、米問屋と組んで米の買い叩きを強行しました。領民たちが『これ以上、米を奪われたら餓死する』と大買い占めに抗議したところ、海国屋の雇った用心棒どもが容赦なく刀の柄で打ち据え、追い散らしたそうです」
源次の拳が、硬く握りしめられた。
「さらにひどいのは、奪い取った米の行き先です。領民の食い扶持を奪っておきながら、その米の多くは藩内の腹を充たすためではなく、海国屋の隠し港から異国の船へ売り払う『抜け荷(密貿易)』に回されている。城下の子供らは満足な粥すらすすれず、痩せこけております」
信斎は無言で筆を洗う水鉢を見つめた。水面に映る自らの顔は、どこまでも冷ややかであった。
本来、十万石の風格を誇るべき譜代・黒髪藩。しかし今や、藩主・黒髪公は海国屋への莫大な借金の担保として城の中に閉じ込められ、実質的な「お借り状の囚人」と化していた。藩の役人も、海国屋から配られる巨額の賄賂に目がくらみ、自国の領民が飢えに苦しむのを横目で見ない振りを決め込んでいる。
「公儀の理を外れた道だ」
信斎の口から、淡々とした呟きが漏れた。
「藩主を傀儡とし、領民を血の小便が出るまで搾り上げ、自らは異国の金で腹を満たす。……海国屋徳兵衛という男、もはや人の皮を被った餓鬼に過ぎん」
その時、離れの庭側の障子がかすかに揺れ、仕入れを終えた行商人の姿に扮したお蓮が姿を見せた。
「信斎様。港の様子を探ってまいりました」
お蓮は懐から、小さく折りたたまれた和紙を取り出した。そこには、今夜半に隠し港へ入港予定の異国船の船名と、海国屋が積み込む予定の「銀」と「米」の数量が詳細に記されていた。
「今夜、海国屋は過去最大規模の抜け荷を強行する構えです。得た巨額の金で、黒髪藩の主要な家老たちを完全に買収し、自らの息子を藩の家老職に押し込もうとしています。これが成れば、黒髪藩は名実ともに海国屋に乗っ取られます」
「……間に合わせねばならん」
信斎はお蓮の差し出した文に目を落とし、静かに言った。
「徳兵衛が藩を完全に手中へ収めるのが先か、我らの塗った毒が奴の生命を食い尽くすのが先か。……勝負は数日のうちにつく」
「信斎様、鬼頭の動きは?」
「奴は己の勘と、藩へのわずかな未練の間で揺れている。今夜の抜け荷の警備にも駆り出されているはずだ。……だが、それも長くは持たん。奴が戻れば、我らへの疑念は再び殺意へと変わる」
信斎は立ち上がり、小太郎が格闘している障壁画の前へと進んだ。
黄金の光を放つ地の上に、力強く伸びる松と、鋭い眼光を放つ蒼鷹。その圧倒的な美しさは、まもなく城下を覆う「不条理な闇」を切り裂くための、無音の刃であった。
「小太郎」
「はい! 師匠!」
「筆を休めるな。今夜中に、鷹の爪と嘴の仕上げを終える。……この絵が完成した時が、すべての決着の刻だ」
「はいっ! 頑張ります!」
何も知らぬ小太郎の純粋な返事が、重苦しい離れの室内に響いた。
領民を苦しめ、公儀を足蹴にする大悪徳豪商・海国屋徳兵衛。その命数を削り取る最後の仕掛けに向けて、毒画の刻限は着実に迫っていた。
明日 20:10 に投稿します。




