第八話:星を読む指、油で汚れた手
技術部門の工房は、王宮の北棟にある。
他の部門が石造りの廊下や絨毯の敷かれた居室を持つ中、ここだけは異質だった。壁には配管が走り、天井からは魔導照明のための結晶管が無数にぶら下がっている。油の匂いと、金属を削る微かな振動が、廊下の手前から漂ってくる。
ミレーユが工房の扉を叩くと、返事はなかった。
代わりに聞こえたのは、ガチャガチャという工具の音と、何かが弾ける小さな火花の音だった。
「あの……リィナ班長? 本日の体験配属で参りました、ミレーユです」
返事がない。
もう1度、少し大きな声で呼びかける。
「リィナ班長!!!」
「——ああ、聞こえてる。入って」
ようやく返ってきた声は、低く、抑揚に乏しかった。興味がないのではない。他に意識が向いていて、声を出すことに脳の処理能力を割けないのだ。
扉を開けると、工房の中央に1人の女性が蹲っていた。
淡い藤色のストレートロング。作業時用に高い位置で一つ結びにしているが、毛先が油で汚れている。耳の先端には小さな魔導イヤリングが光り、常に王宮の魔導機器の状態をモニタリングしている。
リィナ・スターゲイザー。技術部門班長。エルフ族。
王宮の生活基盤を支える魔導機器——照明、暖房、水道、通信装置。それらは全て、古代魔法の理論に基づく魔力回路で動いている。鉄を叩くだけなら鍛冶師でも直せるが、回路の奥にある魔術の構造を理解し、設計し、改良できるのは、古代魔法に精通したエルフの技術者だけだ。
エルフの里の技術工房で魔導機器の設計を担当していたリィナは、その分野の第一人者だった。エルフ族出身の盟約側妃のイリスが「王宮の技術基盤を維持できる唯一の人材」と評した女性である。
彼女は床に広げた魔導照明の基盤に顔を近づけ、極細の工具で結晶管の配線を調整していた。銀色の瞳に、星座のような模様がうっすらと浮かんでいる。エルフの技術者が極限の集中状態に入った時に現れる、特有の現象だった。
「そこの椅子に座って。3分で終わる」
きっちり3分後、リィナは工具を置いて立ち上がった。油まみれの指先を布で拭きながら、初めてミレーユの方を見る。
「今日は、手伝ってほしいことがある。厨房の魔導オーブンが不調だ。ドーラ班長から修理依頼が来てる」
厨房棟の奥にある大型魔導オーブン。
ドーラが腕を組んで、不機嫌そうに立っていた。
「遅いよ、リィナ。朝から温度が安定しないんだ。このままじゃ昼食のパンが焼けない」
「見せて」
リィナはオーブンの前にしゃがみ込み、背面のパネルを外した。中には、複雑に絡み合った魔力回路と結晶管が詰まっている。
ドーラは鍛冶師でもある。鉄を打ち、炉の温度を手の感覚で読み取ることにかけては誰にも負けない。だが、魔力回路の修理だけは、自分の領域ではないと潔く認めていた。「鉄は殴れば直るが、魔力は殴っても直らない」というのが彼女の持論だ。
「……ここだ。第3系統の結晶管にヒビが入ってる。魔力が漏洩して、温度制御が不安定になっている」
「直せるかい?」
「当然。交換すれば済む」
リィナは腰の工具袋から新しい結晶管を取り出し、手際よく交換を始めた。
「ドーラ班長。ついでに聞くけど、オーブンの温度上限、もう少し上げたいという話は?」
「ああ、テラ様のパン用にね。あの方の好みは外がカリカリで中がもっちりだから、今の上限温度だと焼きが甘くなる。この前、理想の温度で焼けた時には『ドーラ、これは芸術です! わらわ感動しました!』って目を潤ませてくれたんだけど、あの温度が安定して出せないんだよ」
「テラ様が感動するパン、か」
リィナの口元が、微かに緩んだ。彼女にしては珍しい反応だった。
「制御回路の上限値を書き換えれば対応できる。熱暴走しないよう安全装置も調整する。来週までに改良版を入れるよ」
「助かるね。テラ様を泣かせたパンを、毎朝安定して焼けるようになるなら、あんたに足を向けて寝られないよ」
「大げさ。機械の精度を上げるだけだ」
リィナの声は淡々としていた。だが、「テラ様が感動した」というエピソードを聞いた時、工具を握る指先がほんの一瞬だけ滑らかになったのを、ミレーユは見逃さなかった。
自分の技術が、ドーラの料理を通じて、テラの笑顔に繋がる。その連鎖を、リィナは知っている。
修理を終えて工房に戻る道すがら、ミレーユは尋ねた。
「リィナ班長は、ドーラ班長と仲がいいんですね」
「仲がいい、とは違う。あの人は魔力回路の話をすると3秒で寝るし、私は料理のことが分からない。でも、『直ったか直ってないか』だけは、あの人が一番正確に判断してくれる」
リィナは工房の扉を開けながら、ぽつりと付け加えた。
「結晶管の振動周波数がどうとか説明しても、あの人は聞いてない。でも、オーブンに火を入れて、パンを1つ焼いて、『よし、直った』と言う。——それが一番信頼できる検査結果なんだ」
凸凹だが、噛み合っている。魔導の論理と、料理人の直感。2人の関係は、まさにそんな歯車だった。
午後。
工房で、リィナは別の作業に取りかかっていた。
王宮全域の魔導照明のメンテナンス記録だ。照明は200基以上ある。それぞれの設置年数、結晶管の劣化度、魔力供給ラインの負荷率。膨大な数値が、壁一面に貼られた図面に書き込まれている。
「これ、全部リィナ班長が管理しているんですか?」
「部下は5名いるけど、最終チェックは自分でやる。数字が1つ狂えば、どこかの廊下が暗くなる。暗くなれば、夜間の巡回に支障が出る。巡回に支障が出れば——」
「安全が損なわれる」
ミレーユが先回りして答えると、リィナが初めてまじまじとミレーユを見た。
「……そう。照明1つで王が死ぬことはない。でも、照明が消えた廊下に暗殺者が忍び込む可能性はゼロじゃない。私の仕事は、そのゼロじゃない可能性を潰すことだ」
以前、リリアがファルーシェに語った言葉が蘇る。「記録に残らないものほど、あなたの仕事の価値は大きい」。ファルーシェの結界監視と、リィナの照明管理。見えない安全を、見えない技術で支えている。根は同じだ。
「リィナ班長。もう1つ聞いてもいいですか?」
「どうぞ」
「班長は、エルフの里で魔導機器の設計をされていたと聞きました。イリス様にも信頼される技術者が、なぜ王宮に?」
リィナの手が止まった。
しばらく黙った後、ぽつりと答えた。
「里の技術は、美しかった。完璧で、無駄がなくて、何百年も変わらない。——でも、使う人の顔が見えなかった」
リィナは、油で汚れた自分の指先を見つめた。
「ここでは違う。オーブンを直せばドーラが笑う。その先で、テラ様が感動してくれる。照明を整備すれば、夜間巡回のメイドが安心して歩ける。水道の圧を調整すれば、洗濯当番の腕が楽になる」
銀色の瞳の中で、星座の模様がかすかに揺れた。
「里にいた時は、星を読む指だけが自慢だった。今は、油で汚れた手の方が誇らしい」
夕刻。
工房を出ると、廊下の向こうからドーラの声が聞こえた。
「リィナ! オーブン、絶好調だよ! テラ様のパン、今までで一番いい焼き上がりだ! 『ドーラ、これはもはや神の領域です!』って言ってくれたよ!」
「テラ様の感動の語彙、だんだんインフレしてるね」
「いいんだよ! 嬉しいんだから!」
リィナは素っ気なく答えたが、その足取りは少しだけ軽かった。
ミレーユは2人の背中を見送りながら思った。
リィナの技術がオーブンを直し、ドーラの腕がパンを焼き、テラの笑顔が食卓を温める。誰か1人が欠けても、その連鎖は成り立たない。
本編の物語には、きっと1行も描かれない裏方の仕事。だが、王宮の灯りが毎晩ちゃんと点くこと。オーブンの温度が正確であること。水道の水が清潔であること。その「当たり前」の裏には、油まみれの指先と、星を読む瞳がある。
日記帳を開く。
『リィナ班長の指は、油で黒く汚れている。でも、あの指が王宮の灯りを守っている。そしてその灯りが、テラ様の笑顔に繋がっている。』
『星を読む指と、油で汚れた手。どちらが美しいかと聞かれたら——私は、汚れた手の方だと答える。』
ペンを置いて、自分の手を見た。
皿洗いの水仕事でふやけ、帳簿のインクが爪の間に残り、今日はオーブンの煤まで付いている。
決して綺麗な手ではない。
だが、この手が何かを支えている——そう思えるようになったことが、着任から1ヶ月の、一番の変化かもしれなかった。
【第九話:月夜の巡回、メイド長の影 につづく】
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