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第九話:月夜の巡回、メイド長の影

 深夜。


 王宮が寝静まる時間帯に、リリアは1人で廊下を歩いていた。


 足音は、ない。


 メイド服の裾が石の床を掠める微かな衣擦れだけが、月明かりに満ちた廊下に落ちている。窓から差し込む月光が、磨き上げられた床に白い四角を描いていた。その四角を踏まないように、リリアは影の中を選んで歩く。癖のようなものだ。光の中に立てば、自分の影が廊下の奥まで伸びて、当直者の気を散らす。


 これが、リリア・シャイニングの夜の仕事だった。


 夜間巡回。


 全員が寝静まった後、王宮の隅々を自分の足で歩き、異常がないことを確かめる。当直者への声かけ。結界制御室の確認。そして、ヒカル王の執務室の灯りが消えているかどうかの確認。


 毎晩、同じルートを、同じ速度で歩く。


 王宮の夜は、昼とは別の顔をしている。


 壁に等間隔で据えられた魔導照明が、低い出力で柔らかな光を放っていた。リィナが先週メンテナンスしたばかりの結晶管は、ちらつきもなく安定している。その光が、石壁の凹凸に小さな陰影を作り、廊下全体を琥珀色の薄明かりで満たしていた。


 昼間は気づかない音が、夜には聞こえる。


 建物が冷えていく時の、石が軋むかすかな音。遠くの中庭で虫が鳴く声。自分の心臓が打つ、規則的な拍動。


 静寂というのは、音がないことではない。昼間の喧騒に隠れていた音たちが、ようやく息をつける時間なのだ。


 最初に向かうのは、東棟の上層階。内衛班の当直者の持ち場だ。


 月は東の窓から差し込んでいる。巡回の序盤は、月光に追われるようにして歩くことになる。


 今夜の当直は、ルナリスとウィンドラ。闇と風の2人組だ。


 廊下の角を曲がると、壁に溶け込むようにルナリスが立っていた。闇属性の竜族である彼女は、暗がりの中では本当に姿が見えない。気配だけが、影の濃さとして感じられる。


「ルナリス。異常は?」

「ありません、長官。22時以降、魔力反応の変動なし。ウィンドラが北側回廊の風の流れを監視中です」

「ご苦労様。身体は冷えていませんか?」

「大丈夫です。……お気遣い、ありがとうございます」


 影の中で、ルナリスの声がわずかに緩んだ。

 リリアは小さく頷き、先へ進む。


 夜間の声かけは、報告の確認だけが目的ではない。深夜に1人で持ち場を守る隊員が、「長官がちゃんと見ている」と感じられること。それが、孤独な夜勤を支える小さな灯火になる。


 次に、厨房棟を通り抜ける。


 渡り廊下に出ると、夜気が肌を刺した。昼間の熱気が嘘のように冷え込んでいる。吐く息が白くはならないが、指先にはうっすらと冷たさが滲む。


 この時間、厨房は無人だ。ドーラは自室で眠っている。だが、かまどの火種だけは落とされていない。明朝の仕込みに備え、種火が低く、静かに燃えている。


 リリアは厨房の入口から、かまどの火種を確かめた。橙色の小さな光が、暗い厨房の奥でぽつりと灯っている。まるで、ドーラの魂の欠片が夜通し番をしているようだった。


 それから、厨房の奥——オーリアの検査室の扉を見る。

 閉じている。施錠されている。中に人の気配はない。


 だが、リリアは毎晩、この扉を確認する。オーリアが1人で抱え込む重圧を、せめて「扉の向こうを気にかけている人間がいる」という形で支えたかった。


 たとえ、オーリア本人がそのことに気づいていなくても。



 地下への階段を降りる。


 1段ごとに、空気が変わっていく。地上の乾いた夜気が、湿り気を帯びた冷気に置き換わる。壁面の魔導石が青白い光を放ち、リリアの影を階段の奥へと長く引き伸ばした。


 自分の足音だけが、石段に反響する。昼間は気にならないこの反響が、深夜には妙に大きく聞こえる。


 地下3層。結界制御室。


 鉄の扉に手をかける。金属の冷たさが掌に染みた。


 静かに開ける。


 中では、ファルーシェが解析台の前に座っていた。銀緑色の超ロングヘアが、椅子の背もたれから床にまで垂れ下がっている。


 翠緑色の瞳は、解析台のデータに向けられたまま、瞬きもしない。


 解析台から放たれる青白い光だけが、地下室の闇を細く切り取っている。その光に照らされたファルーシェの横顔は、まるで時間が止まった彫像のようだった。


「ファルーシェ。調子はどう?」

「……長官。定時巡回ですね。現在、結界は安定しています」


 いつもと同じ報告。いつもと同じ声。


 リリアは、解析台の横に静かに立った。

 しばらく、2人とも何も言わなかった。


 解析台の数値が微かに脈動する音。地下水脈が遠くで流れる低い響き。それだけが、地下の静寂を満たしている。


「……長官は、毎晩ここに来られますね」


 ファルーシェが、解析台から目を離さないまま呟いた。


「ええ……」

「結界が安定していれば、報告すべきことは何もありません。それでも来られるのは、なぜですか?」


 リリアは少し考えてから答えた。


「あなたが、ここにいてくれるからです」


 ファルーシェの瞳の中で、光の粒子がかすかに揺れた。


「結界が正常であることを確認しに来ているのではありません。あなたが正常であることを確認しに来ているのです」


 ファルーシェは何も答えなかった。だが、その背筋が、ほんの少しだけ緩んだ。張り詰めた糸が、一瞬だけ安心して息をつくことを許された——そんな種類の変化だった。


「お茶を置いていきますね。冷めないうちにどうぞ」


 リリアは、手に持っていた小さな保温瓶を解析台の端に置いた。ファルーシェが好む、エルフの里の薬草茶だ。


「……ありがとうございます」


 リリアは微笑み、鉄の扉を静かに閉じた。




 階段を上り、再び地上に出る。


 地下の冷気と湿度が、乾いた夜風に洗い流されていく。月は、巡回の間にだいぶ西へ傾いていた。廊下に差す光の角度が変わり、さっきまで影だった場所が白く照らされ、光だった場所が暗くなっている。


 同じ廊下なのに、時間が違うだけで、別の場所のように見える。


 最後の確認場所。それは、ヒカル王の執務室。


 廊下の角を曲がり、執務室の扉の前に立つ。

 扉の隙間から、灯りは漏れていない。


 消えている。今夜は、ちゃんと眠りについてくれたらしい。


 リリアは、小さく息をついた。


 この人は、放っておくといつまでも書類を読んでいる。王としての責任感が強すぎて、自分の身体を顧みない。それは12年前——いや、もっと前、幼馴染だった頃から変わらない。


 灯りが消えていれば、安心する。灯りが点いていれば——扉を叩いて、お茶を持って入る。


「ヒカル様、もうお休みになってください」


 何百回言ったか分からないその台詞を、今夜は言わずに済んだ。


 リリアは扉に手を触れた。冷たい樫の木の感触。その向こうに、愛する人が眠っている。


 月光が、廊下の奥からリリアの背中を照らしていた。彼女の影が、扉の上にそっと重なる。


(今日も、何事もありませんでした)


 それは報告ではない。祈りだった。


 明日も、何事もありませんように。

 この穏やかな夜が、1日でも長く続きますように。


 巡回を終え、リリアは自分の部屋に戻った。


 長官室の隣にある、小さな一人部屋。調度品は最低限。壁には写真も絵も飾っていない。ただ、枕元の小さな棚に、古びた麻のハンカチが1枚だけ置かれている。


 薬草のほのかな匂いが染みついた、ヒカルの母の形見だと、知る者はほとんどいない。


 リリアはベッドに腰を下ろし、窓の外の月を見上げた。


 西に傾いた月が、部屋の壁に細い光の筋を描いている。巡回を始めた時には東にあった月が、もうここまで動いた。毎晩、この光の移ろいだけが、リリアの巡回の時計だった。


 35年の人生のうち、半分以上をこの男の隣で過ごしてきた。


 メイドとして。幼馴染として。そして——それ以外の名前をつけることを、自分に許さなかった者として。


 6人の竜妃がいる。盟約側妃がいる。子供たちがいる。


 リリアの居場所は、その輪の中ではなく、輪の外側だ。誰よりも近くで、誰よりも静かに、王の日常を支える場所。


 それが、自分の選んだ道だった。


 寂しくないと言えば嘘になる。

 だが、後悔はない。


 この王宮の40人のメイドたちが、明日もまた白いエプロンを結んで持ち場に立つ。その全員の背中を見守ることが、リリアの生きる理由だった。


 月が沈む。


 夜明けまで、あと少し。


 王宮は眠っている。


 厨房のかまどには種火が残り、地下の結界制御室ではファルーシェが薬草茶に口をつけ、廊下の闇ではルナリスが気配を消して立っている。魔導照明は、リィナの手入れの通りに、安定した光を灯し続けている。


 誰にも見えない場所で、誰にも気づかれない仕事が、今夜も続いている。


 リリアは目を閉じた。


 数時間後の朝、朝礼で40の背中の前に立つ時、自分の顔にはいつもの穏やかな微笑みが浮かんでいるだろう。


 その笑みの裏に、毎晩の巡回で目にした全てが——かまどの種火も、検査室の施錠も、結界の数値も、執務室の消えた灯りも——畳まれて、しまい込まれている。


 誰にも見せない。誰にも語らない。


 それが、メイド長の影。


【第十話:王の知らない王宮 につづく】


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