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◆僕の過去・後






 人狼として生きるからには、満月の夜の狼の姿への強制変化を避けることは出来ない。

 その家で暮らして、何十回も満月の夜を迎えた。人間が近くにいる危険性を考慮して、満月のあいだ、僕らは家にいないようにした。村の人間たちが僕らの家に寄り付くことは、その家に住み着いてから一度もなかったから、そこまでするのは杞憂だったのかもしれない。けど、念には念を入れて、だ。

 満月が訪れる度、森の中に隠れた。洞穴で夜を過ごすこともあれば、大きな木の空洞の中に入ることもあった。たった一晩、耐えるだけだったから、それでよかった。



「ロクト……助けて……痛い……っ!」


 でも、その満月の日。彼女は、尋常でない様子で、体中に走る痛みを、僕に訴えた。彼女の瞳には、大粒の涙が浮かんでいた。レッショウであれほど痛がるのは初めてだったから、僕は焦った。

 新しい傷口は、背中にあった。今までのどの傷よりも、大きな傷。右の肩甲骨から尾てい骨の辺りまで、白い背中を縦断するように皮膚が裂けて、その傷から赤い血がとろとろと流れていた。

 すぐさま薬を塗って、彼女の体を胴巻きのように包帯で包んだ。薬を塗って包帯を巻いても、しばらく痛みは消えなかった。


「どうしよう、動けない! 痛いよ!」


 彼女はパニックに陥って、叫ぶみたいな声を出した。その日は、満月だった。いつもなら家を出て、森の中に身を潜めているぐらいの時間だった。

 下手に動くと傷が広がってしまうし、そもそも彼女は痛みのせいで動けない。

 僕らは大いに焦った。そして結局、その日はそのまま、家から出ないことに決めた。


「人間がこの家に来たことは一度もない、大丈夫」


 痛みに苦しむ彼女を動かすことは、考えられなかった。彼女を背負って森の中に行くことも出来たけど、既に日は傾き始めていて、外へ出るにはもう遅かった。




 しばらくすると、僕とフィーシオは狼になった。太陽が沈んで、夜が来たんだ。

 カーテンは事前に閉めた。扉には鍵もかけた。僕らはそのまま息を潜め、夜を過ごすことになる。


「……っ」


 時折、フィーシオが痛みに悶える呻きが聞こえた。でも、僕にはどうすることも出来ない。

「大丈夫」と慰めにもならない励ましの言葉を、彼女にかけ続けた。「大丈夫」、それは同時に自分にも言い聞かせていた。

 日が暮れてからの時の過ぎ方は、恐ろしいほど遅かった。そして、息の詰まる苦しいものだった。

 燭台に火は灯らず、カーテンが月明かりを透かす以外に明かりのない家の中は真っ暗闇で、僕らは重たい黒の中、各々のベッドでじっと体を寝かしていた。

 何か、気を紛らわせられるような話でもしておけばよかったのかもしれなかった。でも僕は、何も言葉を発さずにいた。彼女も、同じだった。



「え?」


 家の外に僕ら二人が気配を感じ取ったのは、ほとんど同時だった。

 閉まっているカーテンの向こう側に、人の影が見えた。人間だ。僕らは暗闇の中で目を合わせた。

 どうしよう、彼女がか細い声で問いかけてきた。

 このままでいよう、僕は、同じように小さな声で返した。



 窓の外の人影は、僕らの家を覗き込もうとしているようだった。耳を澄まして外の足音を聞く限り、外にいるのは、多分一人だけ。空き巣かもしれない、と思った。

 満月の日に、必ず僕らは家を空けていたけれど、それが泥棒に伝わっていてもおかしくない。満月の夜なら、住民である僕らがこの家にいないと踏んで、空き巣に入りにやってきた――それなら納得がいく。


「……」


 険しい沈黙が、部屋の中を満たしていた。

 ガタンガタンと家の外から音がした。庭の畑用の肥料が入った箱を開けたんだろう。

 僕はその隙に、ゆっくりとベッドから両脚を下ろし、音を立てないように彼女のベッドの側へ近寄った。

 マットレスに上半身を乗せ、彼女の傍に寄り添う。きっと、彼女僕よりも不安なはず。

 彼女は目を瞬かせ、体を固めて怯えていた。



 そして、その時。

 ガチャン、と、扉が開いた音がした。家の扉を、開く音だった。窓の外にいたさっきの誰かが、家の中に侵入してきた。やっぱり家の留守を狙った空き巣だ、僕は確信した。

 僕らは、震え上がった。僕は彼女の寝転がるベッドの上に乗り、フィーシオは二人を覆い隠すように、頭からシーツをかぶった。

 なぜ、扉が開いたんだろう? かんぬき状の鍵は、簡易なものだけど、外から開ける手立てがあるとは知らなかった。とにかく空き巣は家に入って来た。もしかすると、そもそも鍵をかけ忘れていたのかもしれない。

 近くにいるだけで、フィーシオの心臓の鼓動の音が聞こえた、ドクンドクンと脈打って、その緊張と恐怖で、その鼓動はより早く、彼女の全身に血液を送り込んだ。もしかすると僕の鼓動の音も、彼女に届いていたかもしれない。

 侵入者は、手持ちのカンテラで暗闇を照らしながら、部屋の中を物色し始めた。僕らは侵入者が僕らの存在に気付かないことを、ただ祈るしかなかった。僕らは頭までかぶったシーツの中で、時が過ぎるのを待った。置物にでもなったように、じっと動かずに、息を潜めて。

 二人共、狼の姿だ。一度でも見つかってしまえばそれで終わり。今まで積み上げてきたものが、全て水の泡になる。

 雲間から覗いた強い月明かりが、カーテンとシーツを透け、差し込んでくる。その時、僕は彼女の顔を見た。


「……」


 ……どうするべきか、迷ったんだ。このままシーツで身を隠していても、きっと空き巣に見つかってしまうだろう。物音は一つでも立ててはいけない。空き巣がいつシーツをめくるかも、分からない。

 見つかってしまえばそれまで。それなら、と僕はひとつの解決策を思いついた。思いついた、というより、力任せでどうにかしよう、という話だ。

 僕はシーツの中で、怯える彼女を見つめていた。ただでさえ痛みに苦しんでいるというのに、このまま彼女を不安にさせておくわけにはいかない。

 僕らの隠れるシーツが、黄色い炎の光に照らされた。空き巣はベッドのすぐ近くまでやって来ていた。外から見れば、ベッドの上に大きな山が出来ているのと同じだ。そりゃ見つかってしまうだろう。

 足音をよく聞いた。硬い靴が木の床板を叩く音。慎重な足音が、僕らに近付いてくる。フィーシオはぎゅっと目をつむった。

 僕は、目をつむらなかった。



 足音がすぐ側までやってきたとき、僕は自分にかかる純白のシーツを跳ね除け、そして間髪入れずに空き巣に向けて飛びかかった。


「ぐおっ!」


 空き巣の低い悲鳴、僕は構わず、その男を床の上に押し倒した。男の持っていたカンテラが、ガラスを床板にぶつけながら、ガタガタ音を立ててベッドの脇へ転がる。男も、何が起こったか、頭の処理が追いついていないようで、ただばたばたと足を動かして暴れるだけ。

 その振動で更に転がったカンテラの炎が、僕が馬乗りになった男の顔を、明々と照らした。


「!」


 息が止まるような心地があった。

 空き巣は、見覚えのある顔をしていた。


「ひぃっ!」


 男は、シーツの白いこんもりから飛び出してきたのが人狼だった、とようやく理解出来たらしい。

 男は僕の牙から逃れようと、更に強く体をじたばた動かした。必死に押さえつけても、相手は大の大人の人間、しかも男だ。そいつは僕よりもずっと身長が高かった。

 男は僕を押しのけようと、ただひたすら無茶苦茶に暴れた。何度か顔も殴られた。


「くそっ!」


 男は腰元から、何かを引き抜いた。小さなナイフだ。小さくても、命を奪うには十分なもの。

 言い訳をするようだけど、もう、他に方法がなかった。

 僕は、男の喉元に向けて思い切り噛み付いた。迷いなく、だった。牙が、ずっぷりと皮膚を突き刺して、喉の骨を砕く感触があった。男は振り回していた腕の動きを止め、体を反らせながら強ばらせると、鈍い雄叫びのような断末魔を一瞬その口から発して、絶命した。

 ……帰すわけにはいかなかった。その男は、空き巣なんかじゃなく、一年前、村を訪れた僕を拒絶した、油売りの男だった。男は、僕とフィーシオを疑って、家へ乗り込んできたのかもしれない。或いは、村から遣わされたのか。多分後者だろう、と僕は思う。


 血を流して倒れる屍を置いて、僕はフィーシオをベッドから下ろした。

 もう、そこにはいるわけにはいかなかった。男が集落の人間に選ばれて遣わされたのなら、僕らを疑う人間たちが、いつ大挙して押し寄せてもおかしくなかった。とにかく早くその場を離れなければ、危険だった。

 僕らは急いで荷物をまとめた。といっても、思い出の品も、捨てられない大事なものも何もなかったから、持っていくのは彼女の薬と包帯、それに数日分の食料だけだ。

 行くアテなんてなかったけど、そこを発つのが何よりの優先事項だった。


「必要なものは持った?」


 僕が問いかけても、フィーシオはぼんやりしていて、返事をしなかった。

 背中の傷が痛むんだろうと思った。でも、もう痛みに気を使う時間は残されていない。彼女の傷の痛みが悪化するのは怖いけど、彼女が人間に捕らえられて殺される方がすっと怖かった。

 僕らは、壊された扉を押し開けて、家を出た。



 外へ出たとき、何が待っていたと思う?

 足が竦むっていうのは、ああいうことを言うんだね。

 先に外へ飛び出した僕の後ろから、フィーシオも続いて外に出た。彼女も同じように、外を見て、茫然としていた。

 火だ。

 僕らの住む家の周り、森の中に、いくつもの火が動き回っていた。ぱちぱちと燃えて、ふわふわと黄色い光で、夜の緑を照らしていた。


「こっちにはいないぞ!」


 そんな声が、どこか遠くから聞こえた。たくさんの人間が各々の手に松明を持って、森の中を歩き回っているんだ。

 彼らが探しているのは、間違いなく僕らだった。



 きっと村の人間たちは満月の夜に僕らがあの家にいないことを、既に何度も確かめていたんだ。

 人間がここの辺りまでやってくることはないと思い込んでいたけど、僕らがいないときに、彼らは僕らの家まで来ていたに違いない。

 そして満月の夜に僕らが必ず家を空けていることを動かぬ証拠として、“人狼狩り”を始めたんだ。

 さっきの男が僕の家に入ってきたのは、多分、僕らが家にいないことを確認するためだったんだろう。人間たちは、狼の姿になった僕らが、森の中に隠れていると思っているに違いなかった。



 僕は、改めて周りを見渡して、四肢をついて立ち尽くした。たくさんの火が動いていた。みんな、村の人間だ。彼らはみんな、人狼を殺すために集まっていた。そして血眼になって僕らを探している。


「フィーシオ」


 どこへ歩き出しても、彼らに見つかってしまうのは明白だ。

それならこのまま狼の姿で、一気に駆け抜けるしか道はない。

 でもフィーシオは、大きな怪我を負っている。背中の傷は、耐えられないぐらい痛むはずだった。


「行こう」


 彼女が僕を見て、そう言った。彼女の目はふよふよと泳いでいた。はっきり彼女と目が合ったわけではなかった。でも彼女は言った。僕は頷いた。



「いたぞ!」


 僕らが森の中に向かって駆け出すのと同時に、人間の声が響いた。

 大勢の人間が一斉に僕らに向かってくるのが分かる。でも、気にしてはダメだ。後ろを見ないように、フィーシオと並走した。


「あっちだ!」

「回り込め!」


 背後から怒声が聞こえる。悪意に満ちた、恐ろしい声。その声だけで生き物を殺せそうだと僕は思った。でも確実にその声は、後ろ、遠くになっていた。

 そのまま行けば、きっと助かっただろう。追いかけてくる人間から、逃げ切ることが出来ただろう。

 でも、そうは行かなかった。


「フィーシオッ!」


 走っている途中で、彼女が倒れた。身を庇うように、前のめりに、ぐるぐると彼女の身が転がった。そして、止まった。僕は、彼女の傍へ駆け寄った。

 彼女は血を流して倒れていた。体に巻いた包帯、背中の傷口から、赤い血が染みていた。

 彼女は一度だけ、立ち上がろうと四つ脚に力を込めた。でもその脚は、ぶるぶると震え、一瞬体を持ち上げたかと思うと、すぐに力を失って、折れた。

 地面にへばりつくようになりながら彼女は、笑っていた。苦しそうな、笑顔だった。


「……ロクト、逃げて」

「何言ってるんだ!」


 僕は怒鳴った。人間の声が聞こえる。怒り狂う人間たちは、すぐそこまで迫っている。松明が近付いてくる。火が走ってくる。


「私、もう動けない……ごめん……」


 フィーシオは、その顔から笑顔を消し去った。目に涙を浮かべていた。

 僕は、耐え切れなくなった。僕もずっと、泣きそうだった。


「ダメだよ! 今まで頑張ってきただろ!」


 二人だけで、ずっと戦ってきた。故郷を失っても、両親を失っても、お医者さんがいなくなっても、ずっとずっと。でも、彼女は、既に諦めてしまっていた。彼女の目に浮かんだ涙は、あまりにも潔かった。

 包帯がさらに赤く染まる。無理に体を持ち上げようとしたのが、傷に響いたようだった。


「……人間が来ちゃうよ……ロクト」

「フィーシオ!」


 早く逃げなきゃ、彼女は言った。僕はまた大きな声を上げた。

人間が、目に見えるところまで来ていた。木を避けて、切り株を乗り越えて、伸びた木の脚を踏みつけて。

 松明を振って、大声を出して、武器を掲げて、僕らを見つけて、狂喜した。


「おい! いたぞ!」


 あまりにも多い人間の数。集落の人間全員が、ここに集まっていることを、確信出来る人数。

 松明だけでなく、大きなナイフや、弓矢を構えている者もいる。

 フィーシオは僕を見上げて、もう一度言った。


「逃げて」


 ここまで来てそんなこと、聞けるわけがなかった。両親を置いて逃げられたのは、彼女がいたからだ。お医者さんがいなくなっても、前を向けたのは、彼女がいたからだ。危険なことをやってのけられたのは、彼女がいたからだ。

 ふと父の言葉を思い出していた。


『ひとりでも生き残れたら種は存続するんだ』


 クソ喰らえ、僕は既にこの世にいない父に向かって、初めて口汚く毒づいた。種とか、存続とか、そんなことは、どうでもよかった。彼女のいない世界で、一人で生きることの、何が存続なんだ。

 彼女は、僕にとって最後の肉親だ、きょうだいだ。大事なものを、失うわけにはいかなかった。



「死ね!」


 人間の一人が、僕に向かって飛びかかってきた。僕はそれをいなして、横っ腹を噛みちぎった。

 人間の絶叫が響く。さらに、火が集まってくる。

 僕は諦めるわけにはいかなかった。生きることを、守ることを、諦めるわけにはいかなかった。たとえ彼女が諦めようとも、僕が諦めることだけは、絶対にあってはならなかった。


「Gulllll」


 一人、二人。続けて三人四人と人間をなぎ倒した。立ち上がれないような大怪我を負わせた。彼らは、痛みで悶絶して気絶していった。

 が。



「くァっ」



 フィーシオの悲鳴がした。迫り来る人間たちから目を背け、振り返ると、倒れこんだ彼女の背中に、一本の矢が刺さっているのが見えた。


 それが――――引き金になった。


 頭が、真っ白になった。頭の中を締め付けていた感情の鎖が、バラバラに朽ちた。僕は自由になってしまった。






 ふと、次に気付いた時には、辺り一面が真っ赤だった。木々が付けた葉の緑色、草の根の張った土の色、わずかに咲いていた花の黄色、その全てが、赤色になっていた。

 しばらくは僕の視界も、全部赤いフィルターで覆われていた。

 その世界で動いているのは、僕だけだった。

 僕は、聞き慣れない音を鳴らしながら、ボコボコした世界を歩いた。そして、背中に矢の刺さったフィーシオに近付いた。

 息はあった。僕は、何も考えず、何も言わず、沈黙した世界の中で立っていた。

 人だったものを踏みつけて、僕はフィーシオをその背中になんとか乗せた。そして、歩き出した。

 次第に雨が降りだした。

 覆い尽くされた緑の間から抜け落ちるたくさんの雫が、僕に染み付いた赤を洗い流そうと躍起になっていた。



 雨に当たらない場所で、彼女の手当をした。レッショウで新たな傷が出来ていて、薬を塗って包帯を巻いておいた。

 彼女は、目を覚まさなかった。呼びかけても、体を揺すっても、頬を軽く叩いても、彼女は死んだように眠っていた。

 眠る彼女を担いだまま、僕は様々な場所を渡り歩いた。人間に見つからないように細心の注意を払いながら。

 彼女は眠ったままだったけれど、確かに息をしていた。体に傷が出来る度に治療して、包帯を巻いた。

 二週間もかからなかったと思う。彼女を背負った僕は、ついに人狼の集落を発見した。今までに見てきた集落と比べれば、かなり小規模な集落だったけど、それでも十分だった。

 人間からは到底見つけられないような、複雑な場所にあったし、そこには医者もいた。完璧な場所だ。

 僕はそこへ住まわせてもらえるかどうかを、集落の代表者に掛け合った。

 代表者はあっさり快諾してくれて、それどころか僕らを憐れみ、大いに歓迎してくれた。空いていた家まで与えてくれた。僕はその集落の人々の暖かさに、励まされた。




 フィーシオは驚いたことに、人間に襲われたあの日から丸々一ヶ月もの間、深い眠りについていた。

 レッショウが治ることはなかったけど、症状は前よりも幾分かマシになっていた。顔色もよかった。

 彼女が目を覚ましたとき、僕は彼女のすぐ側にいた。――と言うと、偶然その場に居合わせたみたいだけど、本当はほとんど、眠りにつく彼女につきっきりだった。

 ゆっくりと目を瞬かせて、体を動かしたのを見たとき、僕は驚いたのと嬉しいのとで、軽いパニックになった。





 でも。





「!!」



 彼女が、目を覚まして、僕の存在を認識した。

 瞳孔が開いた。


「フィ……」


 それを見たとき、僕の背筋は凍りついた。息が詰まって、呼吸が出来なかった。

 言葉も発せなかった。銀の杭で心臓を打たれたような。或いは、銀の矢で心臓を射抜かれたような。

 笑いかけた顔は強ばった。彼女の細い指を握ろうと伸ばした手は、固まって動かなくなった。



 彼女は、僕を見ていた。


「!」


 彼女は、僕を見ていた……。

 その目は、おぞましい悪魔を見る目だった。今までの僕を見る目じゃなかった。

彼女は妹のような、姉のような、そんな存在だったはずだ。彼女も、僕のことを兄のように慕い、弟のように扱った。僕らは家族だった。

 でも彼女のその瞳は、もう、そうじゃなかった。

 悪魔を、見る目だったんだ。目を見開いて、怯えていた。その目は僕を見ていても、僕の目を見ていなかった。

 僕は、その時初めて――ようやくと言ってもいいかもしれない――深い絶望を、覚えた。


 それでも、僕が何か……何かしないとダメだった……何か、そう、手を差し出した。彼女の頬を撫でるつもりだった。

 いつか、僕が彼女にしたように。


「ひっ」


 でも彼女は、僕が伸ばした手を見て、手を振るって、僕の手を弾いた。

 僕は、驚きのあまり立ち尽くしていた。

 そして、彼女は僕を見ずに言った。


「来ないで……!」


 それがもう、全てだった。僕に渡された、今まで生きてきた様々なものを練って捏ねて集めて出来上がった答えだった。


 ……彼女は、僕が人間相手に暴れるのを見ていたんだ。僕の意識が飛んで、何も覚えていない間、彼女は僕を見ていた。僕が襲い来る人間を端から端まで叩きのめすその一部始終を、眺めていた。

 目を背けることも出来ず、僕が残酷なことをするのを、彼女は見続けていなければならなかったんだ。世界が真っ赤になっていくのを、動けない体で、見ていたんだ。

 あの晩、僕が初めて人間を殺したときから、迷いなく殺すことを選んだその時から、もう、彼女は動揺していたんだろう。だからあの時彼女は、僕と目を合わせなかったんだ。

 

 もうその場にはいられなかった。僕は家を飛び出した。

 その場どころか、彼女のもとには、それ以上いられなかった。


 僕は、集落を出た。




 それからはもう、彼女には会っていない。

 もうそれは何年か、前のことになる。



 僕は……。







 ロクトにはこんな過去がありました。

 ちなみにですが、まだ子どもだったロクトとフィーシオを匿った集落のお医者さんは、集落の情報を人間に流し、人間から見返りに報酬を得たそのひとだったりします。

 ロクトとフィーシオを助けたのは、罪滅ぼしなのか偽善なのかは分かりませんが、そんな設定があったりなかったり。

 お医者さんが帰って来なかったのは、人間に見つかったからではなく、罪の意識に耐え切れなくなったんじゃないかなーって思います。


 次話ロクト編「選んだ道」は明日公開です。明日は二話連続投稿なのでした。

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