◇明滅する過去
目覚めたパティナが、思うことは。
「ん……んん……」
長い時間彷徨っていた、遠い世界から引き戻された意識が、少しずつ取り戻されていく。なんとか開けた、ぼやける視界の中で、誰かが自分の顔を覗き込んでいたが、目の照準が合わず、それが誰なのかは判別がつかない。しかしどうやらその場所はもう、今まで囚われていたブルーの世界ではないようだった。
自分は、天井を向いて体を寝かせていた。重い体を動かすと、背中からパサパサと乾いた藁の音がして、仄かに柔らかいシーツの感触がした。
どれだけ長い間、あそこにいたんだろう。ブルーの世界、ブルーの世界。どんなものを見たのか思い出せないが、自分の目元は滲んでいた。眠っている間に、泣いていたのかもしれない。
目を何度かゆっくりと瞬かせると、有耶無耶だった視界が、次第に組み立てられて鮮明になっていく。ぼやけたモザイクは整然と形を成し、自分の顔を覗き込んでいた人物の正体を、ようやく視認することができた。
はっきりと顔が見えたとき、胸が空いていくのを感じた。何故、と疑問が浮かぶよりも前に、たっぷりとした安堵が胸を打ち満たされる。
その安堵は、銃を向けられ身動きが取れなくなったパティナの視界に、彼が映った時の安堵感と同じだった。言葉だけでは説明のつけようがないぐらい複雑で、長い間味わうことのなかった、上限のない奥深い感覚。
「よかった」
パティナが目を開けて瞳を瞬かせたのを見て、顔を覗き込んでいたロクトは、息をついて両手を上げ、天井を見上げるように椅子の上で体を反らした。
「あんた……」
だがその時から、胸を覆う安堵感が、もやもやした別のものに取り替えられていくことに気付く。安堵感を手放すことを、止める間もなく、取り替えられた別のものは、ブルーの世界で見た、絵の具をごちゃごちゃと混ぜた色の得体の知れない物体だった。
「……っ!」
起き上がろうとすると、頭に鋭い悲痛が走った。これと同じような痛みを、長い時間浴び続けていた気がする。どうやら頭、それもこめかみの部分が、痛みの源らしい。右手を当てて目を細めていると、側に座っていたロクトが、起き上がりかけた体に手を添えて、もう一度ベッドに戻された。
「まだ無理に、体を動かさないで」
されるがまま仰向けに寝かされた。顔を動かしてもう一度、彼を見る。彼は今までに見たことのない、やつれた顔をしていた。疲れを限界まで溜め込めば、人はこんな顔になるんだろう。目の下に浮かんだ隈や、少しだけ腫れた目は赤く血走っている。唇は青くて、頬も痩けているように見えた。
やつれ切った彼の顔を見て、またもや頭痛が発現する。さっきとは違う、鈍い痛みだった。太い注射針か何かで、頭をゆっくりと突き刺さされていると錯覚するような鈍痛。痛みは、波が陸地を侵食するように、じんわりとこめかみから広がってくる。
苦痛に顔を曇らせ、自然と体がよじれる。その鈍痛を受けながら、パティナの頭に“何か”がフラッシュバックする。
光るように脳内に蘇ったのは、パティナが過去にその目で直接見た、とある光景だった。
ある意味、ブルーの世界で見た光景と似ている。鮮やかで、悲しい。だがたった今再生された過去の記憶は、色や匂いまでもが鮮明で、もっと心を抉るような残酷さがあった。
「…………!」
一瞬のうちに、記憶が駆け巡る。
そして、はっきりと、思い出せた。思い出してしまった。封印していた醜い形相の記憶が、その形を捻じ曲げて、無理矢理パティナの中へと入り込んできていた。
どこかで引っかかっていた、わだかまりのような何かが、体の奥で瞬きした。何かは体を揺らしながら目を覚まし、パティナの頭の内に、堂々と再訪した。
表情がカチカチに固まって、心臓のポンプから送り出された冷たい血液が、急速に頬を青く、白ませていく。
焦げた匂い、それを思い出した。
「大丈夫?」
かけられたロクトの声で、現実に連れ戻された時。目覚めた時に覚えた、彼の顔を見ることにより生じた安堵感は、どこか遠くへ吹き飛んでいた。それと取り替わるように図々しく居座った、暗澹な色の得体の知れない物体は、その爬虫類のような手を、パティナの内側にべったりと張り付かせている。
ざわ、ざわ。ざわついた。得体の知れない何かが、コンコン、コツコツ、内側から自分を叩き続ける。不安。それが胸の中に、急速に蔓延り、こびり付いていく。
「私に、何が、あったんだ?」
その胸の不安を押し殺すように、少し声のトーンを上げてロクトに尋ねた。声は支えを失ったように震えていて、口をついた言葉の語尾は、息を失ったように空気に消えた。
片手で自分の胸を抑えた。頭にくっきり浮かぶ、やつれた顔。歪んだ口、ギラギラした目――『アイシテルンダ』、脳裏に蘇った醜い言葉。それを放った“彼”は――ロクトではない。
頭から“彼”を追い払い、ロクトを見た。自分の目が泳いでいるのが分かる。ロクトは心配そうにベッドの脇の椅子に座って、それから口を開いた。
パティナはロクトから、自分の身に起こったことを聞き出した。
狩りの途中に森の中で、意識を失って倒れたこと。倒れている自分の姿を、偶然森に来たロクトが見つけ出したこと。
意識を失ったのは、“メア・シック”という、人狼だけが発病する、特殊な病のせいだということ。そのメア・シックなる特殊な病気の症状は、高熱や頭痛で、進行を放ったまま症状が悪化すると、気を失うほどの高熱が出て、酷い幻夢症状があるという。
「病気に罹る原因は?」
「虫が媒介になってるらしい」
数日前にふくらはぎに出来た、あの赤いぷっくらとした虫刺されを思い出した。見たことない腫れ方だとは思っていたが、あれが原因だったのか。あの時はたいして気にしていなかったが、まさかこんなことになるとは。
そしてそれから、どうなったかを教えるよう促す。
ロクトは洞穴まで自分を運んだ。だが熱を和らげる方法を見つけられず、立ち尽くしていると、巨大な荷物を背負うキャスケット帽の子ども――間違いなく、リサキだ――がやってきて、材料を磨り合わせ、治療用の特効薬を作り、メア・シックに罹ったパティナを救った、ということ。
粉薬を飲ませるのには苦労したものの、一度服用すればすぐに熱が引いて、それからは暴れなくなったらしい。
「ついさっきまでここにいたんだけど、『仕事がある』って言って出て行っちゃって。君が目覚めたら、よろしく伝えてくれって」
すぐにまた来るってさ、とロクトは言って、口だけをぐっと笑わせた。
ロクトが自分を発見してからまる一日、リサキの服用した薬を飲んでから約半日、パティナの意識は失われたままだった。
「……」
「あの郵便屋さんがいてくれてホントによかった。……僕だけじゃどうなってたか、ほんとに、分からなかった」
言い切ってロクトはベッドの側の三脚椅子から立ち上がると、パティナに背を向けて大きく伸びをした。
彼の目の下に濃い隈がある理由は、きっと自分の目覚めを、眠らずに待っていたからなのだろう。彼は口には出さなかったが、やつれた理由は隠しきれていない。
何か。ふいに何かに耐え切れなくなって、パティナは大きく息を吸い込むと、音を立てずにゆっくりとそれを吐き出した。奥まった洞穴に、外気が直接入り込んでくることはないが、きっと外は寒いのだろう。
「何か食べたいものはある?」
疲れた顔で、笑って尋ねてくるロクトの顔は、引きつっていた。精一杯誤魔化していても、彼が抱えた疲れは、その顔にありありと浮かんでいる。
彼が無理をしているのは、パティナにつきっきりだったこの一日だけではないだろう。人間の街に生きる上でも、無理をしていたに違いない。その疲れに、また疲れが重なって、彼の疲労はもう、限界に達しようとしている。
「それとも眠っていたほうが楽かな?」
体がだるい。頭痛も、思い出したように襲ってくる。
同時に、先ほどのフラッシュバックが、もう一度繰り返される。気味の悪い生物が身体の中と外とを這い回るような感覚、ぞわぞわぞわと鳥肌が立って、寒気がした。
自分の前にいる、ロクトの顔。疲労に押し潰されそうな、顔。
違う、そうは分かっていても、ロクトの顔と“彼”の顔が、自然と重なってしまう。フラッシュバック、凄惨な光景、その、形。“彼”の優しい口調、“彼”の気遣う瞳、“彼”の黒い髪――。
パティナはそっと、腕を抱えた。体が震えていた。それを抑えるために力を込めても、体は思うように反応しない――。
限界が、訪れようとしていた。ざわ、ざわと、ざわついている。自分の中の、得体の知れない物質。色がまぜこぜの、ブルーの世界に浮かぶあの物質。ざわ、ざわ。
「なあ」
平たく、静かな声。そんな声を、自分が出せるとは、思わなかった。意図していないはずだった。でもその声は、口をついた。
言うべきことは、感謝だ。それを彼に伝えようと思っても、自分の中に纏わりついた何かは、それを許さなかった。自分はもう、ロクトを“彼”と重ねてしまっていた。
そうだ、気付かないうちに、重ねてしまっていたのだ。
人間に近い人狼。それだけで、ロクトを忌み嫌ったのではなかったのだ。
本当は、最初から重なっていた。意識の外で、重ねていた。「彼は違う」、分かっていても、自分の中の何かが、彼と“彼”を結びつけた。
だから。
感謝の代わりに出てきた言葉は、望んで出した言葉ではなかった。
「……帰ってくれないか」
「へ?」
動揺を隠さない、素の声を漏らして、ロクトは目を瞬かせた。最もな反応だった。
パティナは、彼の顔を見ないように、その深い緑の目を伏せた。やはり自分の目は泳いでいる。
違うんだ、と思っても、発言を取り消す言葉は出てこない。自分の中の何かが、自分の意思に反する言葉を、口から滑らせている。パティナには、それを止めることは出来ない。
「帰ってくれ」
ベッドに肘をついて力を入れたら、今度は上半身だけ、体を起こすことが出来た。幸いなことに、頭痛は襲ってこなかった。
帰ってくれ。その言葉に、本心はない。冗談だ、と取り消して、笑おうと思っても、表情を動かす筋肉は、引きつって固まって、動かせない。
違う、違うんだ。
自分の中の何かが、巧みに言葉を選んでいる。
自分が発している言葉には、感情の起伏がない。自分の声が自分の声ではないような、奇妙な触感がした。冷たい声だった。
「頼む……」
懇願するように、漏らすように、声を絞り出した。涙が浮かぶ。視界が滲んで、見ることができない。
パティナの目を見たロクトは、パティナの潤んだ瞳からそっと目をそらすと、不器用に微笑んだ。痛々しいものが、抜けないぐらい深くに、突き刺さったような目だった。
ロクトはそれから、机の上に置かれた鍋を指差した。
「そこの鍋に、ご飯作っておいたから。気が向いたら、食べて」
じゃあ、彼は小さく手を上げた。別れの、挨拶。
そんなつもりじゃない、傷つけるつもりじゃない。去っていく背中に言葉を投げかけたかった。だが感謝の言葉も、謝罪の言葉も、かけることができなかった。
彼はそれ以上、何も言わずに、洞穴から出ていってしまった。表情は見えなかった。最後に見えたのは、不器用な笑みを崩さないように努力する彼の横顔だけだった。
足音が遠ざかり、蝋燭の灯った洞穴の中は、耳を強く塞いだように、しんと静まり返る。
彼が見せた、何かが刺さったような深いグレーの瞳が示したのは、何だろう。困惑だろうか、それとも失望だろうか。そのどちらのようにも思えた。パティナは、目を伏せた。
彼は何も悪くない。自分の中の何かが、彼を“彼”と混同していた。彼が“彼”と似ていても、それは違う。違うのに。
「くそっ……」
目に浮かんだものを拭おうとしたら、自分の右手が震えていた。ブルブルぶるぶる、怯えるように震えている。
“二度目”は嫌だった。甘えて、信頼して――。
彼は“彼”と違う、信じていても、自分の中の何かに、それを証明出来る確実な証拠はどこにもない。
ブルーの世界から戻ってきた自分の中の何かは、懲りずにまだ彼を疑っていた。
今も、力のない右手が震えている。
今回で物語は折り返し。ようやく半分です。
半分の割にすごく不穏ですけど、多分大丈夫。
次話、ロクト編「『信頼できる大人』」は明後日投稿です。続きます!