◇ブルーブルー
同時投稿です。
感覚的。
パティナは、夢の中にいた。
白昼夢だ。
空気も、自分も、意識も、視界も、全てがふわふわしていて、上下左右が有耶無耶だ。物理的にも精神的にも、何も掴むことが出来ない。
夢を見ているという自覚はなかった。このふわふわした掴みどころのない世界を、現実そのものだと思い込んでいた。
パティナは何気なく自分の頬に手を伸ばして、力を込めて抓った。じわりとした痛みが走った。
その世界は、どこまでもブルーな世界だった。底抜けに明るい鮮やかなブルーではなく、冬の海のような暗鬱なブルー。満たされたブルーは、底の見えない湖のようだ。
そんなブルーの中に、絵の具の色全てをがむしゃらに混ぜたような複雑怪奇な色合いの物体が、時折ふよふよと漂っているのが見えた。それを見ると、心が嫌な音を立てて、身を擦り合わせてざわついた。耳元で蛇蝎が囁くような感覚。鳥肌が立って、寒気がする。
その奇妙な物体に触れようと手を伸ばしても、掴むことは出来ない。複雑怪奇な色合いの、得体の知れない物体は、手の中をするりとすり抜けて、どこかへ消えていく。そうなると、また心が嫌な音を立てて、鳥肌が立った。
また、ふよふよと漂っていた。
そうしていると、自分の心臓が、黙々と刻々と働いているのを感じる。ドクドク、という鼓動の音。心臓の音。その音が、鼓動が、この世界に、深く響き渡っているのが聞こえた。
鼓動の音が大きく聞こえれば聞こえるほど、この世界は、自分の体内のように思えた。自分は今、自分の中にいる。自分の中のさらに奥、心臓の中で、直接自分の鼓動を聞いているような。
その鼓動の跳ね方は、あまりにもリアルで、自分の左胸から血液を全身に送り出す、無機質な鉄製のポンプのイメージが、すんなりと頭に浮かんだ。
ぼんやりと、頭がぼんやりとしている。
ふわふわしていて、気持ちよかった。目を閉じると気分が楽になる。何もかも、どうでもよくなるような倦怠感。
「諦めてしまえばそこでおしまいになれるよ」、甘ったるい囁きが、遥か遠い場所にある、狼の尖った耳に聞こえるような気がする。囁きを振り払おうと思って、自分の頭を抱えた。でも振り払う動作が鬱陶しく感じられて、やめた。
誰かが、この暗澹たるブルーの世界の向こうにいた。そのブルーの世界の向こうは、見るだけで綻ぶ青い空と、口が開くぐらい大きく真っ白な入道雲がある、鮮やかな世界だった。そこで、その誰かが手を振っているのが見える。
それは、どうやら思い出のようだった。楽しい思い出が、蘇ったのだ。
向こうの世界にいる誰かが、誰だか分かった。パティナは、嬉しくて、思わず頬を緩めた。
「母さん!」
ブルーの世界に浮かんだまま大声を上げ、母に向かって手を振り返す。
遠くの鮮やかな世界には、一面のひまわり畑が広がっていた。どこまでも続くひまわりの海の中、そこに立った母親が手を振っている。あの頃の記憶と、何も変わらない優しい表情。額に浮かぶ汗を拭う仕草もそのままだ。母はまた手を振った。
「あ……」
手を振る母親の傍に、おもむろに誰かが現れた。ゆっくりと歩く、大きな人影。
「父さんだ」
父だ。父は顔に感情を表すのが苦手で、周りの人からは「無骨で面白みのない人だ」とよく誤解されていた。でも本当は、不器用なだけで、とても優しい人なのだ。今も父の顔はむすっとしているように見えたが、よく見れば口元には微笑みが湛えられていた。
そしてさらに二人、人影が現れる。今度は小さな人影だった。
弟と妹だ。パティナよりも、ずっと小さな子ども。二人は狼の姿だった。パティナを見つけて嬉しいのか、二人のきょうだいはパタパタと尻尾を振っている。口を開けたのが見えた。吠えたのかもしれないが、その声までは聞こえなかった。
愛しの家族たち。大好きで、愛していて、かけがえのない、大切な家族。これ以上ないぐらい強い力で、ぎゅぅっと抱き締めたい、そんな人たち。
抱き締めたい。
「そうだ……久しぶりに会うんだ……」
抱き締めなければ。そうしないと、いけないと思った。
パティナは家族のもとへ向かうべく、ブルーの世界を抜け出そうと、ゆっくりと歩きだした。遥か遠い、鮮やかな世界へ向け、歩き出した。
その道中は、記憶の上をなぞっているようだった。次から次へと、家族に関する鮮やかな記憶がパティナの脳を犯していく。溢れてくる笑みが、どうしても抑えきれなかった。
楽しい思い出が蘇る。
笑顔が見えた。笑顔が見えた。
早くいきたい、強く願っていた。早く、早く、早く、家族のもとへ。
早足で、駆け足で、全速力で、今すぐに。全てを投げ捨ててでも、今すぐ。いきたい、いきたい、いきたい。
ブルーの世界から見える向こう側の世界とは、見た目以上に距離がある。足を駆っても空回るようで、なかなか前へと進めない。むしろ、走れば走るほど家族たちは遠ざかっていくような気がする。
これでは追いつくことは不可能だ。
ふと、気付いた。
向こうの世界で手を振っている家族を見る。皆、パティナに向かって手を振っていた。でもあれは、「こっちへ来い」と呼んでいるのはなくて、パティナに別れを告げているのではないだろうか。手を振る意味は、「さよなら」なのでは、ないだろうか。
湧き起っていた笑みが、時が来て引く潮のように、薄れていく。
「待って……!」
声。自分の声。
パティナは、走った。
「置いて行かないで……!」
息が切れる。追いかけても、追いかけても、詰まらない距離。走っても、走っても、縮まらない距離。
遠ざかっていく。家族が、遠くへ、消えていく。愛する家族が、愛しきれなかった家族が、消えていく――。
目の端からボロボロ零れ落ちる大粒の涙。悲しみの結晶は重力に従わず、ふわふわとブルーの世界を漂った。パティナの周りを、いくつもの結晶がふわふわ飛んでいる。パティナの体も、たくさんの大粒の結晶と一緒になって、ブルーの中で漂っていた。
「一人にしないで!」
心臓の動悸は、これ以上ないまでに激しく全身を打ち鳴らし、息が上手く出来ない。もう、うるさかった。自分の動悸がうるさかった。
目の前がフラッシュ、点滅する。パチパチ視界が瞬いて気持ち悪い。
手足には上手く力が入らず、バランスを崩しながらもふらふら歩くが、それでも前には進めない。
数秒もすれば、パティナの足は動くことを諦めてしまった。完全に停止していた。自分は動きたいと思っても、自分の足はそうは思わないようだった。
「あああ……」
意図せずに、口から悲鳴が漏れる。それと同時に体から力が抜け、見えない地面に向かって倒れこむ。手をついた地面は、石のように固くて冷たくて、無表情だった。
そっちに行かせてよ、声にならない声で訴えた。見えなくなった鮮やかな世界、家族の姿。
近付くこともままならなかった。家族の姿は、家族の思い出は、あっという間に手の届かない場所へ消えてしまった。
「一人にしないで……」
ブルーだけの世界に囚われた、ひとりの人狼が力なく呟いた。
四方八方ブルー、ブルー、ブルー――。ブルーの中に浮かんだ、絵の具の色を全部混ぜたような、複雑怪奇なあの物体が、パティナの側を漂っている。
「あ……」
倒れ込んでいた冷たい地面の感触が突然消えて、ふわりと体が落ちる感覚がする。体がくの字に折り曲がり、両手を“上”だと思われる方向へ伸ばし、落ちていく。
自分の流した涙の結晶が、目の前を横切った。キラキラ輝いていて綺麗だった。
無抵抗のまま、落ちる。体を折り曲げて、手を伸ばして、落ちていく。
ブルー、ブルー、ブルーの世界。ブルーの世界へ、落ちていく。
熱でうなされている時に、すごい夢を見ることって、あったかな。
次話、ロクト編「助け舟」は明後日公開です。続きます。