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◇狩人

戦闘描写は、難しい。




 体力の消耗を抑えるために、フルスピードではない速さで。とんとんと木々の縫い目を走り抜け、それでも急いで移動する。彼らの存在を察知できている分、こちらが不意を突かれることはまず、ない。リラックスした心持ちで、無駄なことを何も考えずに、ただ足を動かした。

 人間たちの気配が近くに感じられる距離に至るまで、そう長くなかった。“センサー”と自分の勘を頼りに、速度を緩めたり早めたりしながら、パティナは走った。

 おおよその位置の検討をつけて、大きく迂回するように、対象の背後へ回り込む。

 “センサー”なる特殊な能力をパティナが持っていると、相手は知りえない。狩人たちが、自分たちの背後に回り込まれたことに気付く可能性は低いだろう。しかしこちらもまだ侵入者の姿を視認できてはいない。油断は死を招く――移動を繰り返しながら、注意深く気配を探る。ゆっくり、静かに、音を立てず。森と一体化して、千歳緑の身体が駆けていく。



「!」


 数十秒も経たないうちに、一人、後ろ姿が見えた。こちらには気付いていない。幸い綺麗に回り込めたようだ。

 筋肉質な男が装備に身を固め、ゆっくりと前へ向かって歩いている。黒い髪は短く切り切り揃えられており、肩から腰丈ほどの短いマントを羽織っていて、身長はかなり高い。隣に立てば、きっと見上げるほどの高さだ。

 そのもう少し向こう、左方。木の陰からもう一人、男が出てくるのも視認出来た。二人の男同士の間は、距離にして十数メートルといったところか。

 そちらの人間も同じように筋肉質だが、黒髪の男よりは身長が低い。髪色は金色で、首元にかかるぐらいの長さだ。短髪の男と同じように、腰丈のマントを羽織っている。

 しばらく様子を見ていたが、人数は二人で間違いなさそうだ。二人は互いに一程の距離を取って、余計な物音を立てずに進行していた。


「二人……」


 ゆっくりと。だが、着実な足取りで素早く移動している二つの人影。まさに「焦らず急ぐ」を体現している。険しい森の中を移動しているというのに、二人は息ひとつ切らすことなく、倒木をひょいと乗り越え、岩をひらりと跳び越え、慣れた足付きで順々に難所をクリアしていく。

 しかも驚いたことに、歩きにくい森の中を歩き続けていた二人の男は途中で、パティナが時折使う、一見すれば分かりにくい草葉に隠れた獣道に気付き、それに沿って歩き始めた。侵入者に跡を辿られると厄介なので、普段から同じ道は使わないようにしていたが、幾つかの分かりにくい道だけはそのままにしておいた。人間は気付かないだろうと思い込んでいたが、どうやら甘く見ていたようだ。

 パティナが使った獣道を楽々発見し、それを有効利用しているのを見るに、彼らはやはり生物を狩ることに慣れている。むやみな虱潰しの捜索をせず、対象の住処に直進している様子を見れば、相手がプロ――つまり、彼らが狩人であることは間違いないだろう。

 短髪の狩人も、金髪の狩人も、携えた獲物は弩だ。背中に提げられた弩が、何かを飛び越えるたびにひらりと舞うマントの下にあるのが遠くからでも見えた。

 弩は中近距離の戦闘に優れ、発射した弾が容易く肉を穿つような強力な武器だ。重く取り回しづらいのが難点だが、彼らは狩人、当然簡単に使いこなしているのだろう。

 複雑に服に取り付いた装備の一つ一つは細々していた、後を尾けるために開けたこの距離では、目視できなかった。だがあの様子であれば、接近戦用の戦闘ナイフや、銃火器を携帯していることも考えられる。猟銃の破壊力は弩よりも劣るかもしれないが、生き物を殺すのに不自由はない。さらに言えば精度は弩よりも高く、より危険である。前に来た狩人が猟銃を使っていたので、その恐ろしさはよく知っていた。

 二人の狩人のあいだの距離はそれほど遠くない。互いをカバーできる距離かつ、辺りを警戒できる範囲、というところだろう。やはり彼らを分断するのは難しそうだ。

 うまく互いの距離を保ちつつ、周囲をゆっくりと見渡しながら、二人は狩るべき獲物を探していた。



 二人の狩人を中心にして、相手が気付かない程度の距離を保ったまま、静かに追跡する。どこかで隙を見せることを見計らい、奇襲しようと決めた。

 いくら手練の狩人とは言え、一部の隙も見せないなんてことは有り得ない。その隙を補い合うために二人でやってきたとも言えるかもしれない。

 一対一に持ち込めるのならば、彼らに勝利できる自信がパティナにはあった。ロクトには敗れはしたものの、彼女は自身の身体能力に自信があった。今まで襲ってきた数多の人間に敗北を喫しなかったのだから、ここにいる。

 弩は恐ろしい武器だが、何度も目にしているし、なんならその砲口が自分に向けられたことだって何度もある。戦い方は心得ている。



 焦らず、じっくりと二人の姿を視界に捉え、付かず離れず動いた。

 しかしどれだけ辛抱強く待とうと、彼らは一向に隙を見せない。それどころか、長い間移動を続けているというのに、休憩の一つも取らない。どこかで一度休憩を取るだろうと睨んでいたが、それも分からなくなってきた。

 人間にしては驚異的なスタミナだ。無駄な行動を取ることもないし、常に周囲に警戒を配っている。足場の悪い森の中を歩いてきたはずなのに、ちっとも疲れた様子を見せない、かなりタフな狩人だ。

 狩人達はパティナが通ったことのある倒木を乗り越えて、岩で出来たトンネルをくぐった。それとは違うルート――狩人二人が並んで進む道を一本のルートとするなら、そのルートの隣を並走するルート――を取りながら、素早く後を追う。

 だがこのまま行けば、狩人たちはまっすぐパティナの自宅まで辿り着いてしまうことになる。このペースなら、到着まで数十分もかからない。

 奇襲できる間隙さえ突ければ、足を止められる。だが本当に隙が無いのだ。パティナは驚いていた。こんな人間は初めてだった。

 彼らの討伐対象であるパティナは、彼らの近くにいるので、もちろん洞穴の家はもぬけの殻だ。だが、出来れば洞穴には近付けさせたくない。住処の中を人間に探られることなど、考えたくもない。

 それに、洞穴の近くにはロクトがいる。人間の気配を察せば隠れるだろうし、わざわざ姿を見せるなど馬鹿なことはしないはずだが、もしもロクトの姿を人間に見られでもすれば、厄介なことに繋がりかねない。この森の中に人狼が二体いることが人間に明かされれば、あの街で人狼を殺したくてウズウズしている連中が大騒ぎするだろう。そうなればさらに大規模な狩りが、行われるかもしれない。いくら街の人間たちの練度が低いと言っても、大勢でやって来られれば、太刀打ち出来ないことは目に見えていた。



 相手は隙を見せないが、家に辿り着かせるわけにはいかない。となると、取るべき道は限られる。

 パティナは覚悟を決めた。さらさらと川のせせらぎが聞こえてくる。西の空を見上げると、夕陽の球体の下辺が、地平線と接するところだった。数十秒の時間をたっぷりかけて、夕日は一日の最後に見せる眩い紅の輝きを放ち、遠い空へ沈んだ。後を引く太陽光でまだ外は明るかったが、すぐに暗くなるだろう。



 隙がないのなら、相手に隙を作らせればいい。完全な分断が不可能でも、一方の気をそらすことは不可能ではないだろう。

 考えるのは簡単だが、実行に移すのは困難だ。

 狩人たちは、川沿いを歩き始めた。今までと違って二人は距離を取らず、並んで歩いている。標的の住処が近いと判断したのだろうか、パティナは遠目にそれを眺めながら呟いた。


「なおさら好都合だ」


 ニヤリと狼の口を吊り上げて、それからゆっくりと人に姿を変え、四つん這いの状態からゆらりと立ち上がる。両脚で立ったこの場所は、数本の木が生えているだけで他に障害物のない開けた場所。川の様子が見える、少しだけ小高い場所。

 ここからなら彼らが歩く姿がよく見えた。


「“動物狩り”の専門といっても、狩人は“人狼狩り”の専門ではないだろう」


 当たり前で、ごく基本的なことだが、人狼は狼の姿に成ることが可能だ。

 そして同じように、人の姿にも成れる。人狼が二つの姿を“自在”に行き来できる存在であることを忘れる人間は少なくない。そしてそういった人間は、「人狼は恐ろしい獣だ」という考えのみが先行しがちで、人狼が「人間と同じ行動が出来る」ことを忘れてしまう。人狼を「狡猾な獣」としか見ていないということだ。

 狼に出来て人間に出来ないことは数多くあるが、それは逆も然り、だ。

 パティナは足元に転がっていた手頃な大きさの石を、手を伸ばして“拾った”。

 物音を立てないように気を付け、間隔を取る。枝を踏んだり、茂みに触れたりしないようにもう一度辺りを見回し、確認。それから自分の狙う方向――川の向こう岸のどこか、木でも茂みでもなんでもいい――を見据え、息をついた。


「上手くいけよ……っ!」


 そして軽く助走をつけながら、肘を上げて振りかぶり、右肩から全体重を乗せ、石を“投げた”。

 回転のかかった石は見事な放物線を描き、川の向こう岸の茂みへ落ちた。茂みの枝に突っ込んだ石がガサッと大きな音をたて、狩人達は鋭敏に反応し、弩をそちらへ向ける。

 互いの視線を交差させ、今の物音が気のせいでないことを一瞬で確認したようだ。二人とも数秒、そこから動かない。

 


 片方、短髪の狩人が、物音のした場所を指差した。もう片方の金髪の男が軽く頷いて、弩を抱えたままゆっくりと川を横断し始める。

 川の流れは速くはないが、深度はちょうど男の腿が浸るぐらい。歩くのには少々苦労する深さで、流れもあって水に足が取られる。その上足のついた川底には大小様々な石が転がっているし、川底の砂地も柔らかで相当歩きにくいはずだ。

 金髪の男はバシャバシャと音を立てて、ゆっくりと川を渡りきった。パティナはその時間をじっと計った。男が川を横断するのにかかった時間は数十秒。もっと急げば、更に短い時間で渡れるだろう。

 金髪の狩人は弩を構え直し、注意深く音の聞こえた茂みを睨んでいる。背の高い短髪の狩人も、川の此岸から向こう岸の相方を慎重に眺めている。

 その背中には、隙があった。


「……!」


 今だ。

 パティナは心の中で号令をかけた。狼に姿を変えながら、生えている木を器用に避けながら斜面を駆け下りて、川岸を駆る。

 暗くなった森の中、あっという間に、狩人までもう少し。


「ッ!?」


 短髪の狩人が足音に振り向いて、声なき声を上げた。ようやくパティナに気付いた。慌てて弩の砲口を向けようとするが、パティナの突進を喰らい、銃身が大きくぶれる。その際に引き金をひいてしまったらしい、バチンと鈍い音を立てて、矢が射出された。

 矢は空を切り、河原の側に生えた木に深々と突き刺さって、びぃんと震えた。


「狼だ!」


 体当たりを受けながら男が叫ぶ。川を渡った金髪の狩人がそれに気付いて、すぐさまこちら側へ戻ってくる。が、川の流れに足を取られて思うように進めない。弩を向けて援護射撃をしようにも、相方と狼がもつれ合っていて、同士討ちの危険性がある。引き金を引くことができない。


「くそっ!」


 横倒しになりながら、男は切りそろえた短髪を背け、大きく、しかし確実に、首元を狙って腕を振り回した。危険を察知したパティナは、そこから飛び退いた。

 男の手元がきらりと光る。短髪の狩人は、どこかから抜き出した短いナイフを抜いていた。刀身、持ち手ともに短いが、完璧なバトルナイフだ。食材をきざむためのものでもなく、木を切り倒すのに使うものでもなく、ただ純粋に“殺す”ために存在する武器。殺傷能力は、十分。

 あのままもつれ合っていたら、ナイフの攻撃を受けていたかもしれない。相手は狩人、やはり油断ならない。パティナはより姿勢を低く、腰を落とした。



 ゆっくりと倒れた体を持ち上げた男の右腕は、赤く滲んでいた。もつれ合いの際に噛み付いた痕である。その腕を戦闘に使えるかというと微妙なところだろう。

 利き腕を封じれば、相手の戦意が削れるだろうと睨んでの攻撃だったが、どうやら目論見は外れたらしい。パティナを睨む男を見れば、痛みを受けていても、少なくとも戦意は一切削がれていない。

 短髪の狩人は跳ね起きるように立ち上がって、器用に左手だけでナイフの柄を逆手に持ち直した。どう見たって利き腕は右ではない。右腕を封じても、左を自在に動かせるのなら意味はない。

 噛みちぎるべきだったか、パティナは舌打ちした。

 男はちらっと自分の右腕を見ると、その強靭な体躯を少し震わせて、鋭い鷹のような目つきをさらにキツくして、月明かりの下で顔を歪ませた。


「俺は両利きだ」


 利き腕を封じるという目論見すら露呈しているらしい、パティナは驚くと同時に興奮を覚えていた。この狩人は相当な強者だ。

 近くに立って見れば、短髪の狩人はやはり見上げるような大きさだった。ゆうに百九十センチはあるだろう。そこに立つだけで、気圧されそうなぐらいの威圧感がある。

 じりじりと距離を留め、一程度の距離感を引き留めたまま向かい合い、足を擦るように二人の間にできた円形の空間を中心に回る。互いに隙を伺っていた。パティナも、ゼロコンマ一秒でも狩人が気の抜いた瞬間を見せれば、その瞬間に相手へと飛びかかる準備は出来ていた。

 もう一人の金髪の男は、あともう少しで河を渡りきるというところだ。河を渡るよりも前に決着をつけねばならない。

 短髪の狩人が足の動きを止めた。

 パティナは即座に反応し、ゆっくり、後ろ脚のバネを引き絞った。


「!」


 河原の地面を蹴り上げて、一気に距離を詰める。足を踏み切ると同時に、小石が宙を舞い、二人のあいだの距離が、一瞬にして手を伸ばせば届きそうな目と鼻の先の距離に縮まる。

 短髪の男は冷静に、左手のナイフをパティナの顔面に向かって振り抜こうと左腕を動かした。が、動きは先ほどの攻撃よりもわずかに鈍い。顔が歪む、右腕の痛みが走ったらしかった。

パティナはその斬撃をすんでのところで避けて、狩人の腹部へ体をぶつけた。狩人がしまった、と顔を大きくしかめる。

 短髪の狩人の体躯は自分よりも大きいが、この踏み切った勢いがあれば十分な力になる。タックルを受けた男の体は、まるで蹴られたボールのようにぽーんと勢いよく吹っ飛んだ。左手からナイフが離れ、体が鈍い音を立てて地面に激突し、河原の砂利の上をザザザと音を立てて滑る。

 短髪の狩人はわずかに呻いたかと思うと、赤色を垂らした右腕を庇うように、左手を力なく動かした。その手はわなわなと動いてから、動きを緩慢にした。

 戦闘不能だ、立ち上がる気配はない。



「ジャギロ!」


 ようやく川を渡りきった金髪の男が、戦闘を離脱した相方の名を、悲痛な声で呼んだ。

 パティナはすぐさま千歳緑の体の向きを切り替え、回り込むように金髪の狩人に向かってリズムよく足を捌き、走り出した。

 男は咄嗟に弩の照準を合わせ、引き金を引きパティナを狙い打つが、素早い動きに翻弄されてブレた砲口から放たれた矢では、素早く動き続けるパティナに当たることはない。射出された矢が虚しく射抜いたのは砂利の地面。河原の砂利に刺さった矢は、静かにその場に倒れた。

 素早く向かってくる人狼を、この近距離で打ち抜くことは難しいと判断したのだろう。金髪の狩人は今まで抱えていた弩を放り投げ、背中に装備していたナイフを引き抜こうと右手を後ろに回した。が、弩の攻撃を諦める判断が一瞬遅い。それが隙となり、地面を踏み切ったパティナの突進を真っ向から受けることになる。

 男は後ろ向きに手をついて、川の端に倒れた。即座に覆いかぶさるように千歳緑の体を押し付け、水際で男の上に跨る格好になる。

 抵抗しようとする男の両腕を前足で力強く押さえつけ、唸った。さっきの狩人ほどの体格もないし、簡単に組み敷くことが出来た。

 その状況でもまだ、金髪の男が暴れようとするので、今度はきっちり、利き腕の右腕に歯を立てて噛み付いた。


「!!!」


 声にならない悲鳴をあげ、痛みから逃れようとする男の体が反り上がった。それも身体全体で押さえつけ、見下すように睨みつける。右腕はこれでしばらく使い物にならないはずだ。



 パティナに押さえつけられた男の青い目。それは、審判を待つ死人の目だった。諦めも、反抗も、何も覚えず感じさせない、無味で無色の瞳。だが瞳の色とは裏腹に、その口元は歪み、何にも恐れを成さない不敵な輝きを保っている。男の命は今、パティナの掌の上にある。だが男の顔を見ていると、それを実感することはできなかった。

 人狼にプライドがあるように、人間にももちろんプライドがある。彼らから見れば人狼は、ただの薄汚い獣だ。そんな獣に、普段より獣を狩る狩人が、敗けを認めるなど困難極まるに違いない。生唾を飲み込む音。心臓のドクンドクンとした鼓動が、前脚を乗せた狩人の胸越しに聞こえてくるようだ。

 川岸に押さえつけられた男の顔の側面に、川の水がぶつかってくる。金色の髪が水に流され、ゆらゆらと揺れる。吐き出される息は、体全体で息をするように荒く激しい。身体が僅かに上下しているのが跨っていると伝わってきた。

 狼が上で、人間が下で。組みした状態になって初めて、パティナは言葉を発した。


「……降参しろ」


 狼の口から人間の言葉が発されるのを聞いたのは、金髪の狩人にとって初めてのことだったのだろう。パティナを見つめる男の無感情な目の奥に、一瞬、驚きが波紋のように映った。


「命まで奪うつもりはない。……貴様が死を望むなら、話は変わってくるが」


 抑揚のない声で言葉を繋げる。

 普段なら侵入者に話しかけるなんてことは、絶対にしなかった。街の人間が相手なら、吠えるなり唸るなりして適当に怯えさせてから武器を剥ぎ取れば、後は逃がしてそれで終わりだった。街の人間たちは、いざ人狼の圧倒的な身体能力を目にすると、それだけで戦う気力を失う者が多い。そんな間抜け共と会話を交わす意味は無い、とパティナは思っていた。

 しかしこういった類の手練の狩人たちは、普段より「狩ること」を生活の一部としている。吠えても唸っても怯えないし、そのまま帰ってもらうなんて手は通じない。それは、こうして不敵な表情を見せる狩人を見れば分かる。

 彼らは報酬を受け取り、狩りにやって来ている。彼らは狼を殺すためにここに遣わされた。それでも不毛な争いを避けられるのなら、言葉を交わし、知的生命体らしい平和的な解決を目指すのが身体精神ともに正しいと言えるだろう。交渉が決裂すれば、闘うしかないが。



 男の息は未だ荒く、落ち着く気配を一向に見せない。必死に頭を回転し、どうやら返す言葉を探しているようだった。

 黙ったまま返答を待ち続けている時、金髪の男の目が、男の視線が、パティナを捉えていないことにふと気付いた。

 瞬時に視線を辿った。跨ったパティナよりも右方。右だ。右を見ている。

 さらに強く、狩人の胸板を押し付けた。狩人が苦悶の声をあげ、顔を歪める。首を動かして、狩人が送っていた視線の先に目をやった。


「!」


 心臓が凍りつく。

 銃口。月光を受けて冷たい水色の光を放つ銃口が、真っ直ぐにパティナを捉えていた。拳銃だ。


「もう一人……!」


 “三人目”の侵入者が存在していた。パティナは頬の筋肉を引き上げた。

 自分の数メートル後ろに、人間がいた。さっき倒した短髪の狩人でもなく、今馬乗りになっている金髪の狩人とも違う。

 二人よりも身長が低く、体つきも筋肉質とは到底言えないほどに細い。黒い髪が生えた頭は丸いし、肩幅も狭かった。二人の狩人と同じ部分と言えば、短いマントを羽織っていることぐらいだろう。

 深く青い、丸い瞳。随分、幼い顔――。

 いや、違う。幼く見えるのではない、子どもなのだ。三人目の侵入者は子どもだった。見たところ十歳前後だろう。倒した二人とは遥かに年が離れている。

 少年は、真っ直ぐに肘を伸ばし、両手で拳銃を構え、パティナに銃口を向けていた。引き金には、しっかりと小さな指がかけられている。

 拳銃は、弾のブレやすい猟銃よりも遥かに精度が高く、小型化と軽量化に成功した最新鋭の銃だ。パティナは、いつかリサキが拳銃のスケッチを見せ、それについて長々と教えてくれたことを、不意に思い出していた。拳銃の実物を見るのはこれが初めてだ。

 拳銃の鉛弾に頭や胸を撃たれれば、それだけで即死。それ以外の場所を撃たれても、適切な処置を施さねば、失血死。体内に弾が残るのが最も危険だ、とリサキは言っていた。

 そんな物騒な物体を幼い少年が持ち、そしてその銃口をこちらへと向けていることに、青ざめるような恐怖を覚える。


「今すぐドラトの上から退け! さもなきゃ撃つ!」


 威圧するように、精一杯声を張り上げた子どもの声は、波打つ水面のように震えていた。よく見れば、拳銃を握るその手もぶるぶると震えている。

 少年は仲間に馬乗りになった標的に、すぐには銃弾を撃ち込まなかった。撃ち損ねただけかもしれないが、パティナの体は激しく動いていたわけでもない。むしろじっとしていたから、狙いは付けやすかっただろう。

 つまり、少年は既に引き金を弾くことができたはず。ただ殺すだけなら、黙って引き金を引いておけばよかったものを、どうして。


「…………!」


 少年が引き金を弾かない理由、パティナは気付いた。それは、森の中に侵入者が「三人いる」と気付けなかった理由と同じだということ。簡潔に言えば、この子どもの持つ“敵意”や“悪意”は、大人の人間が持つものよりも、人一倍薄かったのだ。薄い、と言うよりもむしろゼロに近しい。だから、“三人目”に気付くことが出来なかった。

 しかし今少年が“敵意”を発していることは、感じ取ることが出来た。当然だろう、仲間の上に獣が乗っかっているのだから。



 真意は定かでないが、少年が撃ちあぐねたのなら、引き金を弾かせることを止められるかもしれない。

 拳銃を見て凍りついていたパティナの心臓は、可能性を判断した脳の命令を受け、すぐに全身へ暖かい血を送り出した。頭が回る。頭を回す。

 刺激してはいけない。頭を回せ。拳銃。拳銃。精度の高い殺しの武器。二人の狩人と同じ、短いマント。相手は狩人だ。幼い子どもだからといって、油断してはいけない。


「……分かった。今、退く」


 静かに、声を出す。刺激しないように、ゆっくりと。

 少年は銃身を傾かせ、パティナに金髪の狩人の上から離れるよう、もう一度指図した。


「……」


 ゆっくり、ゆっくりと。右後ろ足を動かす。

 だがもし、このままこの人間の上から退いたとして――パティナはふと脳内にこの後、我が身に起こるシナリオを想像した。

 言われた通りに行動し、その後は? 彼らは何をしに来た? 仕事を与えられてやって来た。このまま銃を差し向けられたままいれば、彼らは与えられた仕事を全うするだろう。殺されるか、生け捕りか。このまま言われた通りに動くのは、危険だ。

 少年と拳銃で形勢は逆転した。最悪のシナリオが紡がれる。身の毛のよだつ悪寒が心を犯していく。


「早く!」


 動きを僅かに緩めたパティナに向かって、少年が震えながら叫んだ。

 危険だと分かってはいても、今はとにかく言葉に従うほかない。射殺されるのは御免だった。



 しかし、その時思いがけないことが起こった。

 少年と彼の持つ拳銃を視界に入れるため、半ば首だけ振り返る体勢でいたパティナの視界の隅、少年の肩の向こう――茂みの中に、何かが見えた。茂みから這い出てきた、黒い塊が動くのが、見えた。

 最初は何かの見間違いかと思った。

 月夜の黒に蠢く黒毛。眼光が光り、どっしりと脚が伸びている。

あれは――狼だ。

 黒い毛、大きな狼。昨日からずっと頭の中にこびり付いて消えようとしなかった狼の姿。ロクト。パティナは無意識に、小さく体を震わせた。

 パティナが自分の存在を認めたことに気付くと、彼はゆっくりと頷いた。パティナは気付かないフリをして、開きかけた口を噤んだ。表情を変えず、目はじっと銃口を睨んだまま。


「…………」


 感情を殺して黙った。顔には出さないが、パティナには今、驚いていることがあった。

少年の肩越しに黒い狼の姿が見えたその瞬間、心の奥底から染み出るような安心感が湧き出たのを感じたのだ。その感情は、今はもう影も形も残っていない。だがあれだけ苛つかされた相手に対して安心感を覚えたことに、パティナは大きな戸惑いを感じていた。

 だがとにかく今は、この状況を切り抜けることが先決。煩雑なことを考えている暇はない。静かに思考のスイッチを切り、拳銃の銃口に全神経を向ける。

 動揺を表に出さないように、少しずつ体を金髪の狩人の上から動かしていく。

不本意だったが、ここはロクトに任せる他に助かる術はない。助太刀が来たとは言え、この状況が危険なものであることに違いはない。



 少年はロクトに背を向けていた。この状況で振り向くことは考えにくい。パティナはちらりと自分の踏みつける金髪の狩人に目をやった。せめてこの狩人の目に、ロクトの姿が映らないようにしなければ。

 身動きの取れない金髪の狩人の顔には、形容し難い複雑な表情が現れていた。緊張と強い驚き。それから安心と怒りが少々混じっている。味方が登場し形成が逆転したというのに、金髪の狩人は勝ちを確信していなかった。

 少なくとも今は、パティナの体が邪魔で、少年に視線をやることは出来ないようだ。もちろん、少年の後ろから接近するロクトの姿も見ることはできない。


「…………」


 一歩ずつ一歩ずつ。ロクトが近付いてくる。音を立てないように、少しずつ。

 その間も、パティナも体を動かしていた。右の後ろ脚を狩人の上から退けた。金髪の狩人の視界を遮りつつ、体を動かす。

 その場には、一瞬たりとも気の抜けない、緊迫した空気が張り詰めていた。

 複雑な表情を浮かべたまま、狼のパティナにのしかかられた金髪の狩人。その狩人の視界を遮るために体を動かしていくパティナ。パティナに黒く光る拳銃の銃口を向け、引き金に手をかける少年。その少年の背後から、音もなく忍び寄るロクト。

 一触即発。誰か一人でも場にそぐわない妙な行動を起こせば、全てが瓦解する。引き金が弾かれて、劈くような銃声が森の中に響き、身体に撃ち込まれた鉛玉の周りから赤い染みがじわじわと広がっていく――そんな未来図が、パティナの脳内に鮮明に描かれる。一歩間違えれば、その図通りになるだろう。



 パティナは張り詰めた空気に呑まれないよう、息を落ち着けた。ロクトはすぐそこまで来ている。もう、少しだ。もう少しで、少年の傍までたどり着く。

 そしてロクトがさらに足を伸ばし――――。

 パキッ、と。木のような何かが、折れる音がした。踏み抜いた音がした。

 ロクトの足もとには、金髪の狩人が放ったパティナを射抜き損ねた弩の矢があった。砂利の地面に刺さって、そしてその場に倒れた矢が、あった。


「!?」


 木の折れる音を聞いて、少年が勢いよく振り向いた。そして自分の後ろすぐそばまで迫った狼を見て、パニックに陥るまで、たった一秒にも満たない。

 引き金へ半端にかけられていた指が反応し、撃鉄が起こされた。少年が驚きのために腕を振った、大きくブレた銃口が火を噴く。それが、少年が振り返って起こした一瞬の行動。

 耳を劈く、突き刺すような銃声。あまりにも鋭い音。

 その銃声が鳴ったのとほぼ同時に、パティナは方向転換をしていた。金髪の狩人も、身動きができるようになってから、すぐさま立ち上がった。


「GWuuwwa」


 ほんのわずか、音に遅れて銃弾が発射されると同時に、ロクトは少年に飛びかかっていた。放たれた銃弾はわずかにロクトの頬の近くを掠めて、遥か森の彼方へ消えた。

 少年の体勢は、銃を撃った衝撃で崩れていた。

 ロクトが喉元へ向かって、飛びかかっていた。



「やめろッ!」



 叫び声が、夜の空へ響く。

 銃が発した爆音に驚いた森の中の鳥たちが、一斉に空へと飛び立つ。



 全ての音が止まった時には、その場の全てに決着がついていた。

 まず、少年は無傷だった。だがその体に覆い被さるように、ロクトが少年の顔の横と脇腹の横に、足を突き立てて動きを封じている。金髪の狩人は、まだどこかに隠し持っていたナイフを手に持ちながらも、呆然と立ち尽くしていた。

 やめろ、そう叫んだのは他の誰でもなく、パティナだった。パティナの声を聞いたロクトは、喉元に喰いかかる寸前のところで、少年を押し倒すだけにとどめたのだ。

 少年は、自分を食おうとした恐ろしい狼から顔を背け、ただひたすら目を瞑り震え、怯えていた。パティナは少年の首元に深い噛み傷がないのを確認すると、静かに息を吐いた。


「殺さなくていい……」


 殺さなくていいんだ。

 擦り切れた声を出したパティナは、その場に、崩れ落ちるようにへたり込んだ。





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