◇帰ってくれ
ひどいサブタイトルだ。
洞穴の内部のゴツゴツした硬い地面には、くしゃくしゃに丸められた紙が無数に転がっている。シャナルルへ向けた手紙の返事だ。何度も書き直しをしたが、未だに納得のいくものは出来上がっていない。
テーブルに向かうのをやめた。たっぷりインクを使ったペンを置き、立ち上がる。
洞穴を出て、そこに立つ狼の姿が視界に入ったときにパティナが覚えたのは、怒りではなく呆れだった。
「なんで来たんだ」
口をついた声は、意識をしないでも、平坦なものとなる。
パティナにこの森への侵入者の存在を伝えてくれる“センサー”は、このロクトなる人狼の侵入に、一切反応を示さない。それはつまりこの人狼が、“悪意”や“敵意”を持たないから、ということ。それはパティナにも理解できる、だが。
足元に落ちた、丸まった紙が足に当たった。
「昨日は突然押しかけて本当に悪かった。すまない」
パティナと目が合うと、ロクトはゆっくりと頭を下げた。
「あれから、もう問題はない?」
彼が言っているのは、自分が昨日気を失って倒れたことについてだろう。
パティナは舌打ちしてから、洞穴の入口付近の壁へ寄りかかって、おどおどと自分を見つめる目を何も言わずに睨み返した。
「……大丈夫なんだね?」
ロクトはパティナの顔を見ると、息をついた。
入口の近くに立ったことで、パティナの体は西の空へ落ちようと進む陽の照りに晒される。手でひさしを作って、目を細めた。
来訪者は狼の姿で、自分は人の姿。望まぬ、二度目の来訪。バカバカしい、と鼻を鳴らす。この男は、一体何をしにきたんだ? 自分よりも背高の低い真っ黒な狼を見下ろして、どうやってこの侵入者を追い返すかを考える。
洞穴の中、テーブル上の燭台に灯した蝋燭の火が揺れる。外から冷たい風が吹き込んでくる。
戦っても勝てないことは、昨日の時点で十分思い知らされている。追い返すなら、戦いではなく別の方法だろう。
「帰ってくれ」
パティナを見ながらまごついている来訪者をよそに、目を合わせず声に出す。ため息を付くような声で、心の底から願う本心。簡潔で明瞭で言葉の意味のまま、意思を伝えるのに易しい言葉だ。
パティナとロクト、二人は距離を保ったまま、互いにその場から動きもせず、人や狼に姿を変えることせず、ただじっと向かい合って立っている。
「後悔したくないんだ」
対面していても、ロクトもまたパティナと同じように、目を合わせようとはしなかった。その理由は分からない。だがきっと、後ろめたさを感じているからに違いないだろうとパティナは思った。
帰れ、という忠告を聞くつもりはないらしかった。真っ黒の狼は俯いている。頭の中で糸のような何かが、弛みなくピンと張り詰める。自分の気は長い方ではないことを、パティナは知っている。だからその糸が、どんな些細なことであろうと、きっかけさえあれば簡単にちぎれてしまうことも理解していた。
この糸がちぎれたら、また力に訴えてしまうかもしれない。その前に、さっさと帰ってもらうのが最善だと考えた。
「僕にもう一度チャンスをくれないか」
静々とパティナが自分の中の糸に意識を向けていると、ロクトは顔を上げて、パティナを真っ直ぐ見据え言った。濃い灰色の目は黒い前髪が影になり、少しだけ揺れている。
『後悔したくない』
『チャンスをくれ』
それは、何を、なのだろうか。二人が交わした会話や、言い争いを含めた諸々を、一からやり直したい、ということなのだろうか。今朝別れてから半日、この男の人狼はずっと悩み続けていたのかもしれない。
だがパティナは、彼のことを「自分勝手だ」と思わずにはいられなかった。
「チャンス?」
嘲って、呆れたように声を出す。
もともとここを訪れてきたのは向こうだ。まずこの男がここへ来なければ、“怒り”だの“罪悪感”だの、互いが後味の悪さを舌に残すこともなかったはずだ。
人間への嫌悪を顕にしていたにも関わらず、このロクトという男は「人間の街に住んでいる」という他の人狼に嫌悪されかねない自身の身の上を露出した。だから争いになった。それが嫌だったのなら、自分のことを誤魔化せばよかったのだ。黙って、そして朝になってから去れば良かった。そうすれば、わだかまりなく二人は別れられた。
その機会をみすみす逃した上この男は、今度は自分だけが楽になるための行動――パティナの住処へ再び押しかけて、今こうして会話をしていること、だ――を起こした。彼が黙ってさえいれば、トラブルにはなり得なかった。今更『後悔したくない』などと宣うのは、自分勝手だ。その上『チャンスをくれ』というのも可笑しな話だろう。
彼の声を聞いていると、それだけで頭の中が白くなっていく。昨日もそうだった。気付けば今にも糸はちぎれてしまいそうになっていた。
「君は僕を誤解している」
そして僕も君を誤解しているかもしれない、ロクトはそう言った。
「今のままだと、僕は――もしかすると君も――後悔するかもしれない」
何を馬鹿なことを。鼻で笑う。
言葉を発する気力すら失せていく。蔑むような拒絶の瞳で、威圧するべく彼に目を向ける。日の下に立つ彼を睨む。
しかし、その味の悪い目を向けられてもなお、ロクトは動じなかった。狼の姿で言葉を放った彼は、力強い目をしていた。たった今までパティナへと向けられていた、誇りを失った頼りのない目でもなく、今朝の別れ際に見せたような諦めに満ちた目でもない。
意志を持った強いその目を太陽の下で見てみると、昨日とその眼窩に嵌った彼の眼球そのものが、まるで別のものと入れ変わっているようだった。パティナにはふと、その目が冷たい水の鏡に映った自分の目と同じものに見えた。
『こんな場所に住まう変わり者はパティナさんぐらいしかいませんよ!』
彼の目を見た瞬間、リサキの放った無責任で不躾な言葉が、頭の中で響く。人間の街のごく近くの森に住まうパティナのことを笑ったリサキの言葉。
ロクトもまた、わざわざ危険な場所に進んで住まう変わり者の人狼。自分もそうで、彼もそう。
ふと冷静に、パティナは思った。ある意味、彼に抱く感情は“同族嫌悪”に近いものなのかもしれない。
彼を同族だと認めている自分がいることに気付き、ぞわっと鳥肌が立つ。
相手は人間の街で暮らす、人間に近い人狼だ。私とは、違う。パティナ鋭く尖った犬歯で下唇を噛んだ。誇りを失った人狼と、自分を同族だと思っていいはずがない。自分はまだ、誇りを失ってはいない。
今まで守ってきた、この誇りがなんだったのか分からなくなる。ただでさえあやふやなものをこれ以上追い詰められたくなかった。
「帰れ」
後悔だとか、チャンスだとか、そんなことはどうでもいい。今はただ、彼を“同族”だと、同じ“人狼”なのだと認めたくなかった。今までの生活を取り戻したかった。
頭の中に自生した蔦のようなものが複雑に絡まっていて、ちょっとやそっとでは解くことの出来ない状態。認めたくないのだ。自分が、彼と似ていると認めたくない。彼は同族だと認めたくない。誇りなき人狼と自分を、一緒くたにされたくない――。
「誇りは失ってない」
突然、ロクトが言った。パティナの頭の中を覗いたような、言葉。
「僕は人狼だ。心の意志は昔から変わってない。人狼を忌む人間は避けるべきだし、離れて暮らすのが正解だと思う」
でも――、と真っ直ぐな瞳を下げて、まぶたが閉じられる。俯き気味に、ロクトは苦しそうな苦い笑みを浮かべた。いつの間にか腰を落として、彼はその場に座っていた。黒い尻尾がゆっくりと揺れる。
「疲れちゃったんだ。――君なら、分かってくれるんじゃないかな」
疲れた、という言葉を聞いて。そして同意を求められて「違う」とは言えなかった。
彼も、そしてパティナ自身も、“人狼”という種族の中で、相当な変わり者であることに違いはない。彼が人間の街に暮らす理由は“安全”だから。パティナが森の中に暮らす理由は“直感”。
でもそれらの理由は、もしかすると、表面上だけの“言い訳”なのかもしれない。心理の奥にある、根底の理由を突き詰めてみれば、そこにある本物の理由は“疲れた”からなのかもしれない。
何に“疲れた”のか。それは――――。
思考を繰る最中、パティナは、思考を遮る全く別のものを察知して、顔を上げた。
“センサー”に反応があったのだ。
「!」
「な、何?」
突然自分を睨むことをやめて、忙しなく洞穴の入口付近を歩き始めたパティナを見て、ロクトが戸惑ったように立ち上がる。
頭の中に浮かんでいたあれこれを一度遠くへ捨て去った。“同族嫌悪”も“疲れの原因”も、今問題にすべき事項ではない。
ロクトの脇を通り、暖かい洞穴から、冷たい風の吹く外へ出る。西の空を見ると、先程までカンカンと差し込んでいた西日は随分傾いて、日差しの勢いが穏やかになりつつあった。空は随分赤味を帯びてきていて、あと一時間もせず日は完全に沈んでしまうだろう。
“センサー”が過敏に反応していた。森の中に、パティナのテリトリーの中に、敵意と悪意が入り込んでいる。これは間違いなく――。
「……人間」
「!」
人間という単語に息を呑むロクトを尻目に、侵入者の人数を探ろうと努める。憎しみに似た黒い感情が伝わってくる。二人か、三人。多分二人だろう。モヤモヤとした“センサー”で伝わってくる感覚から、おおよその答えを弾き出す。街の人間が狩りにやってくるにしては人数が少ない方だ。
だが“センサー”の反応は、前に来た腰抜けの人間とは明らかに違っていた。敵意の純度が極端に高いのだ。あの時の腰抜けたちの敵意を、「向こう見ずの暴力的な拳」だとすると、今森に入り込んだこちらの敵意は「研ぎ澄まされた鋭いナイフ」と言ったところだろう。そしてその刃先は、一切の勢いを損なうことなく、迷いのない足取りで、着実にこちらに迫ってきている。
もたつくことなく、着実に森の中を進めるということ。それは「森を歩き慣れていること」を意味する。この森を歩き回ることは、商業街で商売しているだけの並の人間では、到底かなわないはずだ。
明らかに雰囲気の違う侵入者――パティナは顔をしかめた。
「人間が森に入ってくるのが分かるのか?」
ロクトが尋ねてくるのも頭に入らない。パティナは深緑の鋭い目を左上に寄せ、片方の手を顎に当てた。千歳緑の眉の根を寄せて、確信したように呟く。
「狩人か……」
狩人、すなわち“狩る”ことを生業とする者たち。狩人ならな、普段から森の中へ踏み込むことが多い上、触れるだけで切れそうな鋭い敵意を発していることに納得できる。狩りを本業にするだけあって、素人である街の人間と比べれば、その練度は一線を画している。
狩人の中には、高い報酬さえ与えられれば、遠くへ出向いて仕事をする者もいるという。さしずめライハークの人間が金に物を言わせて従えた、雇われ狩人、といったところだろう。
この森に暮らし始めてからも、何度か狩人が差し向けられたことはあった。どれもライハークの外部から雇われたよそ者だったが、狩人を名乗るに恥じない手練たちだった。三人目の狩人のナイフが抉った大腿の傷は、人狼の高い治癒能力を以てしてもなお、未だに痕が残っている。
しかしいくら今まで襲撃してきた狩人達がどれも手練だったとは言え、パティナが今ここで息をしているということは、どの狩人もパティナを仕留められなかった、ということでもある。傷を負うことはあれども、死ぬことも重傷を負うこともなく、パティナは全て撃退してきた。
だが今までの狩人と比べると、今回は予断ならない大きな違いがある。それは今回の狩人(らしき存在)が複数でやってきたということ、だ。これまでにやってきた狩人は、いずれも単身で乗り込んできたが、今回は違う。ただでさえ危険な狩人が二人となると、危険度は未知数――。
「狩人って、狩りの専門家じゃないか。君はどうするんだ……?」
ロクトが恐る恐る尋ねてくる。
「……」
思考の真っ最中だ。邪魔をするなと、パティナが声も出さずひと睨みすると、ロクトは頭を下げて大人しく口を閉ざした。
「……狩人が……複数……」
最適解がどこかにある。必死に考える。
攻めてくる、ということは、攻めきれる自信があることの裏返しでもある。それはどの侵入者に対しても言えることだが、今回は相手の危険度が測定できない。ましてや狩人という“生き物を狩るプロ”が、狩りをしにくるのだ。半端な装備でやってくるわけがない。殺す方法をたっぷり用意してやってくるだろうと断定するのが当然だろう。
となれば、無策で正面から突っ込むのは愚かだ。腰抜けを相手にした時のように、不用意に姿を現しては、あっという間に殺されてしまう。
それにこちらが一人である以上、多対一になることは避けられないと見ておいた方がいい。わざわざ複数で侵入するのだから、相手もそのつもりだろう。まとまって動くことは間違いない。
歯ぎしり。鋭い犬歯がザリザリと下歯を擦った。
ぶつぶつ呟きながら、落ち着きなくその場をうろうろ歩き回る。顎に当てていた手を、口へと下ろした。
相手の身長や体格などの身体的な特徴、持っている武器、それを扱った立ち回り――動物の狩り方を知らない街の人間なら、どんな相手が来ようと楽にいなすことができる。だが狩りのプロが相手となると、想像だけで補うことのできない点が際限なく存在する。
とにかくまずは、相手の実力を見極めることが必要だ、パティナはそう決め、生い茂る木々に向かって歩き出した。行くべき先はもちろん、侵入者たちの向かってくる方向。
「ちょっ、ちょっと、どこへ行くつもりしてるんだ? 森の中に狩人が来てるんだろ?」
「あんたには関係ない」
声を発しながら狼に姿を変える。前屈みになれば、千歳緑の体毛がパティナの衣服を含めた全身を覆いかぶさるように包んだ。両手が前脚に変化し、鼻先が前へ伸び、耳がそり立つ。腰部の背面から緑の尻尾が伸びて、赤い口から覗いた歯の鋭さはぐんぐん増していく。
ロクトは狼の姿のまま、そこに突っ立っていた。足元にはカゴが置かれている。
「関係ないって……」
困ったようなロクトの声が後ろから聞こえてくる。パティナは既に歩き出している。
「さっさと消えろ」
自分の背中に戸惑いの視線が向けられているのが分かる。その場から動けないロクトを気にも留めず、パティナは自分の命を狙う人間たちのもとへと走り出した。後ろでロクトが何かを言ったのが聞こえたが、それはもう過去へと成り果てた。侵入者のおかげで、あの場を離れられたとも言えるのかもしれない、パティナは走りながら口を歪めて笑った。
沈みゆく夕日、あとどれだけの時間で日が没するだろう。木々がつけた葉の緑色は、激しく輝く太陽の光で少しずつ色を変えていて、向こうに広がる空は、ピンクとブルーを混ぜたような色をしていた。
鳥は歌をやめて、森は普段よりもずっと静かになっている。ほんの一部が欠けた月は、ゆっくりと支配の手を世界へ下ろし伸ばそうとしている。




