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◆再び、森へ





「行こう」


 ブローカーが部屋を去ってすぐ、ロクトは自宅を出た。

 彼女のもとへ行こう、そう考えたら、家でじっとしている時間が惜しかった。今行かないと、これからずっと理由をつけて、彼女を避けることになりそうだった。

『今のままだと後悔する』というブローカーの言葉が無ければ、「再び彼女のもとへ赴く」という結論にたどり着くことはなかっただろう。彼の言葉がなければ、出逢えた人狼のことはあのまま諦めてしまって、きっと今までと変わらない生活に戻っていたはずだ。ブローカーは苦手だったが、そこだけは心の底から感謝できた。

 お仲間、つまり人狼。この街に暮らす限り、同種に出会うことはないと思っていた。人間の街近くに居を構えるような、奇異な人狼など存在しないと思っていた。

 パティナという人狼に出会えたことは、ロクトにとって幸運だった。ロクトは体の奥底からふつふつと何かが湧き上がってくるのを感じた。彼女がロクトと出逢ったことを、同じように幸運だと思うかどうかは別として、だが。



「まいどあり!」


 鶏肉をソテーした料理の包みを、赤ら顔のおばさんから受け取る。自分の生活費以外に使うことが一切なかった給料を、初めて使った。銀貨を一枚渡し、軽く礼を言った後、食欲をそそる匂いの立ち込める屋台を去る。

 彼女にはきっと、拒絶されるだろう。なんならまた噛み殺そうと歯を向けられ、襲いかかられるかもしれない。でも「行かないと」、そう思った。

 大急ぎで済ませた出来合いの料理の買い物は、パティナへの手土産だ。喜んでもらえるか定かでないが、自分なりの誠意の表し方である。自分で作った料理を渡したかったが、あいにく時間がない。

 買った料理を突っ込んだ、カゴ形のバッグは、料理を買う前に市場で適当に選んだものだ。タタンと呼ばれるつるの植物を順々に織り込んだ軽量バッグだよ、と店の人間から説明されたが、生憎それ以上の説明は覚えていない。

 人間を避けながら小走りで移動していると、市場の真ん中にある時計台が見えた。太陽は既に傾き始めている。


 

 準備を終え、すぐにライハークを出る。街の出入り口の一つである東門の関所は、大荷物でも持っていなければ、呼び止められることはない。ひと一人と手荷物程度であれば、何も検査されずに素通りできる。

 くだらない話でわいわい盛り上がる門番たちの脇を通り抜け、東門を潜る。街の外へ出、整備された街道沿いにしばらく進んだ。道の途中でライハークを目指して歩いてきたであろう人間と、何度かすれ違った。

 街を出て辺りを見渡すと、既に遠くにパティナの住む森が見えていた。長いなだらかな坂道の向こうの方、距離感の掴みにくい大きさの鬱蒼とした黒い緑が、街道の傍に広がっている。少なめに見積もっても、歩けば十数分かかる距離だろう。

 目を細める。空に傾いた太陽が西に落ちながら、キンキン輝いて眩しい。だがまだ日も暮れていないのなら、今晩の仕事時間までまだ余裕があるなとロクトは考えた。仕事の時間までに全部終わらせて、全てを一からやり直す、つもりだ。

 ただ無心に、ひたすら街道を歩いた。急く気持ちを抑えて、何も考えずに道を歩いた。

 あの少年を受け止めた時に受けた腰の痛みは、最早忘れるほどのものになっていた。人狼の自然治癒能力を以てすれば、動くこともままならない痛みもすぐに収まってしまう。少年が訪ねてくるまでじっと安静にしていたのが大きかったのだろう。

 もうしばらくして、ふと振り返れば、巨大都市ライハークがよく見えた。歩いてきた道はちょっとした坂になっている。こうして見ると、ライハークよりも標高が少し高い位置にあるのがよく分かる。

 森も、すぐそこだった。

 街道上に人がいないことを確認し、歩いてきた道から大きく逸れる。道脇に刺すようにされた柵を乗り越えて、その向こうの背の高い草むらへ入る。切れ味のありそうな草をかき分けていくと、草の根が踏まれて、地面がむき出しになった道を見つけた。人工のものではない。この辺りに住み着いている野生動物たちが使っている獣道だろう。

 その獣道をたどれば、すぐに森の中へ入ることができる。昨日、辿ったのと同じ道だ。


 森は侵入者を拒む形をしていた。しばらく辿って来た獣道も、道を塞ぐような木々が生え始めて、完全に途切れてしまっている。何も考えずに辿れる目印になるものは、ここからは無い。

 得体の知れない生き物の鳴き声が、こんこんと森の中に響いた。木々の間から、獣の視線がロクトを睨んでいるような気がする。ロクトの身長ほどはあろうかという巨大な苔むした岩がごろごろ転がっていて、そこかしこで先を阻み立ちはだかっていた。形の歪んだ樹木は太い根を張って空高くまで伸びていて、明るいはずの空から差し込む光は多くない。

 でも、その森の形を厭には感じなかった。昨日ここを訪れた時は、既に日が暮れていて気付かなかったが、前に住んでいた家の近くの森とこの森は、気候や生える草木が少し似通っているように見える。この森の方がずっと鬱蒼としているが、親近感が湧く理由はそこにあるようだ。気付いてロクトは少しだけ、嬉しくなった。

 念のため一度辺りを確認し、静かに狼に姿を変える。今まで手に持っていたカゴのバッグは口に咥えた。この程度の重さなら、口で運ぶことも狼の顎の力ならなんの問題もない。牙の間にしっかりバッグの持ち手をはさみ、森の奥深く、パティナのもとを訪れるための侵入を試みる。

 とりあえず、昨日と同じルートを行くことにした。昨日は暗かったが、目印になりそうなものはある程度覚えていた。見落とさないように注意を払いながら、素早く森の中を移動する。

 幹の真ん中に大きな空洞のできた巨木を右に曲がり、泥っぽい水の張った池を回る。その辺りは少し霧がかっていて、自分の位置を見失わないようにしなければならない。見えてきた横倒しの苔だらけの倒木を乗り越えて、平たい岩と丸っぽい岩が二つ重なり合ってできたトンネルを潜った。その先に見えてくる綺麗な川に沿って、川上へ向かう。あとは、もう目印なしでも問題なかった。茂みを抜けて、そうすれば――。


「……あった」


 昨日は陽が沈みかけている時にやってきたので、別の場所のように見えたものの、ここで間違いないはずだ。

 そっと近寄る。青空の下の洞穴。その前の焚かれた火の跡。頑丈な木の枝と、つる性の植物で組まれたトライポッド、そこから吊るされた黒い鍋は、今朝ロクトが帰ったあとに用意されたものだろうか。そっと鍋を覗いてみると、中身はもう残っていないが、何かが調理された跡は残っている。


 すうと息を整えた。洞穴の前に立つ。この中に、彼女はいるだろうか。

 正反対の生き方をしている人狼と出会い、気持ちのいい別れとは到底言えない酷い別れ方をしたのは、今朝のことだ。

 もう何度目かは分からない。今日の出来事を思い直して繰り返し、息を呑んで息をつく。

正反対の人狼は、現れたロクトのことを拒絶した。人間の街に住むロクトを、人間に近いロクトを糾弾した。

 高所からの落下から、身を挺して救った人間の子どもは、一人でロクトを訪ねてきた。それは彼が一人で下した決断だ。彼がすべきと思ったから、“後悔”したくないと思ったから行動した。

変わり者のブローカーは、滞っていた考えを、諦めかけていた結末を、無理やり蹴り飛ばした。今のままだと“後悔”するぞと、ニヤっと笑ってそう言った。

 後悔。もう後悔は、したくなかった。

 思い返せば、今日のことだってそうだろう。落ちてきた人間の子どもを放っておけなかったのは、後悔したくなかったから。

 後悔をしないために、あの人狼ともう一度。今度こそ後悔のないように。出来ることは全てやりきって、後腐れなく終わりたい。最善を尽くしてなお彼女が拒絶するのなら、それがようやく、諦めをつけるべき瞬間が訪れたということなのだろう。

 人間の街で暮らすことを選んだ以上、出会うことはないと諦めていた同種の住まう住処へ、ロクトは足を踏み出した。





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