第1話 僕と彼女の日常
突然だけど、一つ自慢、というか惚気を聞いてもらいたい。
日陰者の僕にはもったいないくらいの、とても愛しい彼女がいる。
少し近づけばその体温を感じ取れるような距離で、静かに寝息を立てて眠っている。
今日は珍しく早起きで、朝から寝顔を拝ませてもらっているのだが、その中性的で整った目鼻立ちに未だにドキリとしてしまう。
春のあけぼの、デジタル時計によれば部屋の気温は十度らしい。
冬は過ぎたとはいえ、四月上旬の朝方はまだ少し肌寒いだろう。
ぴしゃりと完全に閉じられたカーテンから陽光が差し込むことはないが、いい朝だ。
「ん、んぅ……」
時計から音の鳴る方へ視線を移動させると、意識が覚醒し始めた彼女の瞳と視線が交錯する。
彼女は眼を細めながら手を伸ばし、僕の頬を撫でる。
人に触れられるのは苦手だが、彼女の手は嫌じゃない。
離れた手に、もっと、だなんて、惜しく感じてしまう。
「おはよ、今日はさく君の方が早起きさんだね」
朝の冷気はわからないが、彼女の声は僕の胸に何か温かいものを灯す。
本人は少し気にしているみたいだが、僕は彼女の低くハスキーな声を心地よく感じている。
声フェチ、というわけではないが、その相手を優しく包み込むような温かい声が好きだ。
なんて、そんなことを考えてないで。
挨拶を返さなくては。
「結月さんおはよう。今日はなんだか寝覚めがよかったんだ」
「ね、さん付けしないで、結月って呼んで欲しいな。……まだ、緊張する?」
「うん……ごめん。どうしても」
「謝らなくていいよ。さく君のペースで、いつか結月って、そう呼んでくれたらいいよ」
「ありがとう。いつか……呼べるようになりたいな。結月さんに、喜んでほしいから」
結月さんはいつも、僕のことを尊重してくれている。
僕のペースで、僕のできる範囲で。
そう温かく見守ってくれることに、何度も助けられてきた。
「ね、さく君。今日は一緒に朝ご飯作りたいな」
結月さんはいつも、僕一人にやらせたり、自分一人でこなそうとしない。
僕に頼ってくれる。
僕に頼らせてくれる。
互いに背中を預けあうようなこの関係が、丁度いい。
「それなら、目玉焼きを担当しようかな。焼き加減には自信があるんだ」
フライパンに卵を落とす。
染みついた感覚で火を止めれば、理想の半熟が出来上がる。
今日も今日とて、今日が始まる。
彼女と……結月さんと一緒の、今日が。
___
朝霧は静かに晴れ、流れゆく雲からチラチラと陽光が差す。
校舎内にそびえる桜並木は、春風とともに美しく鮮やかな桃色を散らしている。
今日は始業式。
新たな学年と、新たなクラスメイトで、新たな一年を迎える。
教室の扉に張り出された座席表をもとに着席する。
とてもうれしいことに、今年は結月さんと同じクラスである。
そして僕の座っている席はといえば、ラノベ主人公御用達の窓際一番後ろの席……ではなく、右端前から三番目の席である。
右を向けば、生徒用ロッカーとこんにちはだ。
結月さんの苗字は綺で、僕は八宵。
本来席順は五十音順であり、席が並ぶ筈がないが、これには理由がある。
僕は日光アレルギーのため、肌が弱く、日の光を避けたい。
というのが表向きの理由。
そう偽って廊下側に座っている本当の理由は別にある。
──それは、僕が吸血鬼だから。
直射日光を避けるため、年中長丈の衣服は欠かせない。
幸いにも、制服やジャージがその違和感を隠してくれる。
しかし制服の生地では心もとないため、厚手のインナーも着用しているが。
さらに、外を出歩く際は必ず日傘を差している。
こうして徹底的な日光対策をとってはいるが、それでも充満する日の光は僕の体調を乱してくる。
「今年はさく君と同じクラスで嬉しいな」
前に座る結月さんが、振り向きざまにそう伝えてくる。
彼女の長めのウルフが揺れる。
目を細めて笑う結月さんの笑顔には、陽光に焦がされるような眩しさがある。
その表情は、窓から差し込む光よりも、ずっと明るい。
……吸血鬼ジョークだ。
「僕もだよ。去年は、廊下から結月さんを眺めることしかできなかったから」
「そこはもう少し勇気を出してほしかったけど……ううん、ごめん。吸血鬼に成りたてで、怖かったんだよね」
「でも、僕は吸血鬼になって──」
そう言いかけて、廊下に人の気配があることに気が付いた。
まあ、話を本気にされるとは思わないが、念には念を、だ。
「じゃ、またあとで、だね。さく君」
___
始業式は教室にあるモニターを使い、遠隔で行われた。
去年までは体育館に集合だったので、時代の移り変わりを感じさせられる。
まず初めに代表生徒によるスピーチ。
相も変わらず長い校長先生の話は、真面目に聞いてみると意外と面白い。
最後に業務連絡があり、始業式は終了した。
教室の明かりが再び点けば、くつろぐ生徒が伸びる声がする。
「ふぅ」
僕も一息ついて、椅子に腰を深く沈める。
学校の椅子の硬さは、学生生活十一年目でも変わらない。
無意識に結月さんの方を向くと、視線が交錯した。
僕のより長い睫毛、その奥にある瞳はじっとこちらを見つめている。
間に硝子の板が一枚、僕の能力を抑えるためのもの。
吸血鬼が直接目を合わせた対象は、魅了されてしまう。
より血を吸いやすくするため、相手の意思を奪う能力。
だがレンズ一枚で簡単に対処できる。
この眼鏡を通しても、空間は歪まない。
結月さんは何も言わない、だがしかし、その生暖かい視線は口ほどにものを言っている。
僕の頬が赤く染まることはないが、湧き上がる羞恥の波に居た堪れなくなって、俯く。
今頃もっとにやけてるだろうから、逆効果だと思うけど。
がやがやとした教室の喧騒は耳に入らず、ただ優しく僕の頭を撫でる手の感触に、身を委ねた。
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「それじゃさく君、放課後デート、しよう?」
結月さんは僕よりずっと背が高い。
男として自信を無くすけど、それも彼女の魅力の一つだ。
でも、今の結月さんはまだ着席したまま。
視線は下から、僕の瞳へと。
その上目遣いは魅了よりも魅力的な、魔性の瞳である。
……これも吸血鬼ジョークだ。
「……うん、今日は、どこに行きたい?」
返答に少し間が出来てしまったのは、決してくだらないジョークを考えていたからではない。
結月さんは美人だから、街で変な人に襲われないか、心配になってしまう。
帰りが遅いと思ったら、変な軟派者に絡まれていたのが原因、ということも少なくない。
でも、僕が彼女を一人にしなければいい。
だから、きっと大丈夫。
「えっとね、駅前のシュークリームのお店に行きたいんだ。期間限定商品の販売が、今日からなんだよ!」
本人曰く、感情が表に出ずらいらしいが、今の結月さんの目はいつになく輝いているし、ワンちゃんの耳と尻尾まで見えそうな勢いだ。
僕が思うに、彼女は好きなものに全力なタイプなんだと思う。
周りのみんなは知らない、僕だけが見れる彼女の一面。
優越感で心が満たされる感覚がある。
「とってもいい提案だね。僕もそのお店のシュークリーム、お気に入りなんだ」
自然と、互いの腕が近づく。
手指を絡めるのは、もうなんてことはなくなった。
相も変わらず、握った手の温かさはわからないけど、確かな充実感がそこに生まれる。
言葉を交わす時間は、瞬き程に短く感じられる。
僕が話せば、彼女が微笑む。
彼女が話せば、僕も微笑む。
目的地に着かなければ、永遠と二人だけの世界でいられたのに。
……ショーケースに反射した自分の顔が、思ってたよりみっともなかったのはここだけの話だ。
「すみません、新作のアプフェルシュトゥルーデル味のシュークリームさんを、二つお願いします!」
「お、結月ちゃん、さっそく来たね~。今日は彼氏さんも一緒かい?」
結月さんはスイーツ類に目がなく、駅周辺のほとんどの店舗では常連になっている。
特にここのシュークリームが好きなようで、福袋も買いに行っているのだとか。
それにしてもアプ……?よくわからなかったが、とにかく長い名前のアプ何とかが、今回の新作らしい。
最近は家でずっとソワソワしていたので、よっぽど楽しみだったのだろう。
ちょっと妬けるな……いやいや、スイーツに嫉妬してどうする。
あまりにベタ惚れで、定期的に自分が重症だと気付かされる。
「はい、さく君。お待ちかねのシュークリームさんだよ~!」
「うん、ありがとう」
可愛い、じゃなくて、結月さんからシュークリームを受け取る。
シュークリームからは、ほのかに林檎の爽やかな香りがする。
得体の知れないものの正体が判明したところで、一口頬張る。
林檎味のカスタードクリームは、爽やかな甘みがあり、サクサクのパイ生地と合わせていくらでも食べられそうに感じられる。
これは歴代王者の苺味を超えるかもしれない……。
つい夢中になって一瞬で完食してしまい、ふと結月さんの方に視線を向ける。
自分と同じように、包装紙を手で持って食べているはずなのに、とても上品に見える。
最後の一口を名残惜しそうに食べ、口元についたクリームもしっかりと味わう。
表情を伺えば、幸せに溢れた顔をしている。
やっぱりスイーツに嫉妬しそう……。
「結月ちゃん、今日でスタンプ溜まるけど、もう一個食べていくかい?」
「ふむ、もうそんなに溜まってましたか。それじゃあ、カスタード味で」
ここの店舗ではシュークリームを一個購入するごとに一つスタンプが溜まり、二十個で一つ無料となる。
つまり、今日のが記念すべき二十個目ということだ。
「えっと……さく君。半分こ、しよっか」
結月さんのそういうところが好きだ。
地道にスタンプを溜めたのは彼女の功績だ。
しかし、こういう時は毎回お裾分けしようとしてくれる。
楽しいこと、悲しいこと、幸せなことを、僕と共有してくれる。
彼女と共に生きているという、実感が湧き出る。
それにしても、結月さんがはにかんだ笑顔を見せているが、一体──。
──彼女がぱくりと、 シュークリームを一口頬張る。
二口、三口と、半分ほど減らすと、それを手渡すようにこちらに向けてくる。
彼女の表情の意味を、理解する。
僕が吸血鬼じゃなかったら、今頃顔が茹で上がっていたに違いない。
一方結月さんはというと、耳まで赤く染まっていた。
必死に冷静を装って、シュークリームを受け取る。
正直、味なんて感じる余裕はなく、でも、とても甘いのは確かで。
二人は未だ初々しく、その関係はカスタードよりも甘く。
店員はそれを生暖かい視線で見守っているが、当の本人たちに気にする余裕はない。
しばらくの間、結月さんがお店に行く度にいじられることとなるのだが、それはまた別のお話。
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「「ただいま」」
「さく君、今日の放課後デート、付き合ってくれてありがとうね」
「いやいや、僕の方こそ、美味しいスイーツを教えてくれてとっても感謝してるよ。ありがとう」
さて、今更であるが、八宵朔と綺結月は同棲している。
結月が借りているアパートに、朔が後から入居する形でだ。
彼らは同棲するにあたり、いくつかのルールを定めている。
その一つは、『予定が合えば、必ず食事を共にすること』であり、帰宅後はまず二人で夕食の準備をする。
「結月さん、今日のメニューは決まってるの?」
「うん、とっておきのを出すつもりだよ。今日は座って待ってて欲しいな」
「そっか、お言葉に甘えさせてもらうね。ありがとう」
朔は元々料理好きで、子供の頃に料理本のレシピを片っ端から作っていたほどだ。
ただ、味のこだわりはそこまでなく、料理を作り上げるその工程に興味を抱いていた。
一方結月は味にこだわりがあるが、調理は面倒に思っており、朔と出会うまでは炊飯器の使い方すら知らなかった。
しかし、最近は朔と一緒に料理をするために勉強を始め、持ち前の要領の良さから並のレシピ程度なら問題なく作れるようになった。
「ごちそうさまでした。とっても美味しかったよ」
「お粗末様です。喜んでくれて嬉しいな」
食事が済めば、次は入浴。
特に順番は決めていないが、最近は朔が先に入り、次に結月が入る。
歯を磨いて一日のタスクが終了したら、朔にとって真の食事の時間だ。
夜も更け、空に小さな明かりが瞬く頃。
宙に浮かぶ月は、夜の街を静かに照らしている。
二人は寝台の上に座り込んでおり、カーテンが閉め切られたその部屋では、天井の豆電球だけがほのかに輝いている。
同棲ルールの一つ、『一日の終わりに、吸血すること』。
吸血鬼となった朔には、吸血衝動がある。
そのため、暴走を予防するため一日に二度、吸血を行うことをルール化している。
これは、朔が遠慮してしまわぬよう、結月が定めたものだ。
「さく君。準備、できてるよ。いつでもおいで」
「う、ん」
ごくり、と生唾を呑み込む。
今の結月さんは、まさに据え膳。
冷静に、冷静に、と自分に言い聞かせ、ゆっくりと彼女に密着する。
座りながら抱き合う姿勢になり、まずは腕を回す。
そして、吸血予定ポイントを少し舐める。
吸血鬼の唾は人にとって麻酔のような役割がある。
俗にいえば、媚薬的なものだ。
吸う相手に痛みを与えないために、必要な行為だ。
決して、他意はない。
……決して。
それはそうと、彼女の首元に、鋭く変化した犬歯をあてがう。
別に、吸血鬼になったからと言って、血の味に大きな変化はない。
ただ、血に対する拒否感が少し薄れている気はする。
「んっ、んぅ……」
ちゅう、ちゅうと、血を吸いとる。
血の味は変わりなく、鉄のようなテイストだが、美味しいと感じるのはきっと彼女の血だからだろう。
実は、腕からでも吸血できるが、彼女には言っていない。
吸っているところを見られるのが恥ずかしいというのが、一つ目の理由。
もう一つは、吸血という建前で彼女と密着したいからだ。
この我儘はまだバレてない……と思いたい。
「ん……ふっ……」
必要な分が吸えた頃合いに、吸血を終える。
正直にいうと、まだ吸いたい気持ちはある。
しかしあまり吸うと結月さんが貧血になってしまうため、細心の注意を払わなくてはいけない。
「もう、十分?」
「うん」
「そっか。ちゃんと吸えてえらい、えらい」
そう言って、僕の頭を撫でる。
食事を終え、彼女のぬくもりに包まれる。
身体が、多幸感で溢れる。
瞼が重くなり、意識が、朦朧としてくる。
信頼する彼女に、体を預けて……。
少し、ずつ……まどろむ……。
「おやすみなさい……いい夢が、みられますように」




