13 終の家(下)
デリンガーの診察が終わり、皆でお茶を飲んだ後、ヴェスパは皆を貸本屋〈Honeycomb〉に案内した。ヴァルブルガとアメリとレニは、転がってヴェスパが出したクッションに頭を乗せて完全休憩中のイーを見ているというので任せる。
「どうぞ」
車体の横にあるドアを開けて、ヴェスパは老人たちを〈Honeycomb〉に招き入れた。
「おお、まだ木の香りがするのう」
「ヴ。作ってもらったばかりだから」
「なんて美しい本でしょうか。噂通り素晴らしい」
老人たちと本が好きなラインハルトや修道士達が、わくわくした顔で本棚の間に散っていく。彼らにも〈Langue de chat〉の本は知られていたらしい。
「エンデュミオン……やらかしすぎじゃないのかね」
ツェーザルが呆れた眼差しで、隣に立っているエンデュミオンを見下ろした。これだけの空間拡張を見れば、魔法使いならそう言いたくなるのも解る。
エンデュミオンが、違うと良いたげに前肢を振った。
「いや、これはギルベルトがやったんだ」
「ギルベルト?」
「元王様ケットシーだ。エンデュミオンが幼い頃に育ててくれたから頭が上がらん。エンデュミオンの親が留守がちだったからな」
エンデュミオンは魔力が多い上に無反応な育てにくい赤ん坊で、預けられるのがギルベルトしか居なかったらしい。
フィリップはかなりの子煩悩なのだが、放浪癖のあるモーリッツと森の外に出ている事が多かった。なにしろモーリッツは帰巣本能のないケットシーで、羊樹のジルヴィアの気の向くままどこにでも行ってしまう。幼馴染みのフィリップが、モーリッツが迷子にならないように必ずついて行っていたのだ。
領主館の子守や教師役をフィリップと一緒に請け負うようになってからは、流石に放浪しなくなったが、今でも時々フィリップとジルヴィアと一緒に、リグハーヴスの街の近くにある森や湖にキャンプをしに行っていた。
「貸し出しはこっちのカウンターで受けるよ」
ヴェスパはエンデュミオンと手分けをして、本の説明や登録カードを作っていく。朗読用の栞も喜ばれた。デリンガーはルッツの声の栞を買っていた。
「貸し出し期間は二週間。自動的に返還されるから大丈夫だ。図書目録を置いていくから、次に読みたい本の題名を書いた紙を本に挟んでおいてくれたら、エンデュミオンかヴェスパが届けに行くぞ」
今は本が〈Langue de chat〉と〈Honeycomb〉の二か所にあるので、貸し出されていない方の本を出せる。
「朗読栞があれば、他の人が借りた本も楽しめるから、有効活用してくれ」
本来は借りた人しか本を開けないのだが、朗読栞があれば周りにいる人にも朗読が聞こえるからだ。
「文具も売っているんですね。ノートとインクが切れそうだったので買います」
ラインハルトが大喜びでヴェスパが取り出したノートとインクを選ぶ。街や村から離れているので、簡単には買いに行けないようだ。
ヴェスパはカウンターの後ろの抽斗から、便箋と封筒の束を幾つか取り出す。
「便箋や封筒、封蝋もあるよ」
「助かります」
「こういう文具類なら、精霊便でテオとルッツに注文を出せば、冬でも届けてくれるよ」
テオとルッツは買い物代行もしている。〈転移〉が出来るので、行った事のある場所ならば、冬でも対応してくれる。特に、〈終の家〉はお得意様なのだし。
「買い物代行……いいんですか?」
「食料品や雑貨でもしてくれるよ。すぐに買い物に行けない場所に住んでいるお客さんは、他にも居るから。パンはここで焼いているだろうけど、リグハーヴスのアロイスの肉屋の腸詰肉と燻製肉はお薦めだよ」
「是非とも頼んでみましょう」
配達屋の料金は大きさなどによってある程度決まっているので、それに品物代を追加して払えば良いのだ。基本的にテオとルッツはリグハーヴス公爵領で買い出しして客に届けているので、彼らに肉類を頼めばアロイスの店のものになる。そして地下迷宮が領内にあるリグハーヴスは肉類が安い。
もちろんラインハルト達だって自分で腸詰肉や燻製を作るだろうけれど、そもそもの素材の肉を買いに遠く離れた村や街へ行かねばならないのだ。
黒森之國ではパンはパン屋しか焼いてはいけないが、自家消費するなら自分で焼いても良い。教会の場合は聖務として料理もするので、パンを焼いているところもある。
ヴェスパやエンデュミオンが持って行ってもいいのだが、定期的にテオとルッツが〈終の家〉に顔を出しているなら、彼らが届けた方が良い。本に関しては〈Langue de chat〉と〈Honeycomb〉の仕事なので、エンデュミオンかヴェスパが届ける。
わくわくした顔で本を抱いて〈終の家〉に戻っていく老人たちを見送り、ヴェスパは充実感にちょっぴり胸が暖かくなった。
〈Honeycomb〉から〈終の家〉に戻ったエンデュミオンは、ヴァルブルガと一緒に〈Langue de chat〉へ帰っていった。デリンガーの往診に明日も来ると告げていたのは、蘇生薬の効果を確かめなければならないからだ。
〈終の家〉の老人たちには主治医らしい主治医がいなかったようで、ヴァルブルガとシュネーバルが定期的に往診にくる事に決まった。そのうちマーヤも連れてくるようだ。
マーヤは〈Langue de chat〉の近所にある診療所の魔女グレーテルの弟子だ。吸血鬼で見た目は十代前半の魔女だった。シュネーバルと同じく新人魔女なので、ヴァルブルガとグレーテルは双方お互いの弟子を研修に誘っていた。
リグハーヴス公爵領は地下迷宮のある冒険者の多い街である。黒森之國の中では一番歴史の浅い街だ。冬が厳しいので、身寄りがあるものは高齢になると、南側のヴァイツェア公爵領やフィッツェンドルフ公爵領に移住する者が多かった。つまり年寄りよりは若い人が多い。グレーテルの診療所の方が大人の患者が多いが、老人で採掘族ばかり診察出来るというのはリグハーヴスの住人からしてみると貴重な経験なのだ。
「ヴェスパ、今晩はここに泊まっていかれますか?」
「うん。箱馬車で寝るから、場所だけ貸してもらえれば大丈夫」
「では食事をご一緒にいかがですか? お客さんは滅多に来ないものですから、皆楽しみにしているんですよ」
「お邪魔でなければ喜んで。ヴェスパは結構食料持っているから、足りない物があったら出すぞ。近所の畑で野菜が定期的に採れるから、沢山持たされていて」
ヴェスパはラインハルトと一緒に厨房に行って、〈ケットシーの里〉産の野菜を放出した。根野菜は日持ちがするので多めに出しても喜ばれた。
ケットシー達の畑作は趣味なので、年中豊作で作ってはケットシーと隠者の庵で消費できない分を、〈Langue de chat〉の温室経由で里に来るリグハーヴスの友人たちに押し付けているのだ。
いつの間にかまとめて入っていた鱒も二尾渡しておく。ケットシーの里にある川で、カチヤとコボルト達が釣って来たのだろう。エンデュミオンの薬草畑で採れる香草も少し渡す。
「立派な鱒ですね。香草焼きにしましょうか」
料理当番の修道士が目を輝かせて鱒を受け取る。
「ロシュのシロップ漬けもあげるよ」
「稀少品では?」
「地下迷宮じゃなくて、ケットシーが栽培している木があるんだよ」
果樹作りが趣味のケットシーが居て、採取時季になると教えてくれるのだ。〈Langue de chat〉ではシロップ漬けにして年中食べられるようにしている。ヴェスパの〈時空鞄〉にはシロップ漬けの瓶が数本入っていたので、一本取り出す。
〈時空鞄〉は時間経過がないので、倉庫代わりに使っている。アメリが出し入れしやすいように、普段使いの食料は〈魔法鞄〉や〈魔法鞄式保冷箱〉に入れてあるのだが。
居間では〈王と騎士〉の盤と駒がテーブルに置かれ、ツェーザルがレニに駒の動かし方を教えていた。レニは〈王と騎士〉をやった事がなかったようだ。
〈王と騎士〉の駒は作り手によって様々な意匠がある。テーブルに置かれているのは、木製のものに、魔銀の象嵌が施されたものだった。少々武骨だが美しい駒と盤だ。
「〈王と騎士〉?」
「ヴェスパは知っているかね」
「ヴ、次代とイシュカがたまにやっているから。ヴェスパも盤と駒持っているよ」
時々晩酌をしつつテオとイシュカがやっている。エンデュミオンやヴェスパの父のスコルピオーンが参加する時もある。この四人がとても強い。ヴェスパはルッツとシュネーバル、ヨナタンとよく対戦していた。今はアメリとゆっくり楽しんでいる。
ヴェスパが誕生日に貰った〈王と騎士〉の駒と盤は、ギルベルトの主のリュディガーが作った物で、ケットシーやコボルト、カニンヒェンプーカの姿の駒だった。王様の駒は王冠を被ったケットシーだし、騎士の駒はカニンヒェンプーカだし、僧侶は司祭服を着たコボルトだし、竜の駒は黒森之國に居る種類の竜が全ているし、城の駒は鶏の肢の上に城があるし、それがトレント材で出来ている。ちなみに魔法使いの駒はケットシーとカニンヒェンプーカがいる。
形が特徴的なのは、アメリが触って解るようになのだが、盤の方もエンデュミオンが細工して、アメリの目でも駒の位置が解る優れものだ。
アメリは横になっているイーのお腹に凭れて、ベルツとヨッヘムとお喋りをしていた。どうやら森驢馬の好む食事に付いて教えてもらっているようだ。
「イーはね、精霊水と林檎が好き」
「飲み水が精霊水とは羨ましいのう」
「ウィ」
ヨッヘムが笑いながらイーの頭を撫でる。ヴェスパはアメリの隣に腰を下ろした。
「精霊水と新鮮な草が手に入るから。師匠が管理している薬草畑の周りの草の成長が早くて、草刈りついでにイーに食べてもらっているんだけど」
エンデュミオンや薬草畑を手伝ってくれているコボルト達が、イーの一食分ずつ草や香草を束ねて〈相互魔法鞄〉に送ってくれるのだ。おやつの林檎は黒森之國では年中手に入る。
「ハイエルンだと精霊水の泉は山の奥にあるからのう」
「誰か管理しているんだよね?」
「人が入れるところはな。森の奥は大抵人狼が管理しているな」
「リグハーヴス側の〈黒き森〉の中はケットシーや竜が管理しているんだと思うな」
魔法使い系のケットシーならば〈転移〉ですぐに行けるだろう。
「リグハーヴスは地下神殿に聖水湖もあるんじゃなかったかの?」
「あそこは街の女神教会の下なんだけど、師匠が管理者だよ。〈柱〉の神殿だから」
祭祀に関しては、エンデュミオンに聖属性がないので、司祭ベネディクトと司祭イージドールに任せているし、観光地にしている。夏でも涼しいので夏場に特に人気である。
「〈柱〉の神殿か……」
借りてきた本をぱらぱらとめくっていたデリンガーが呟いて顔を上げる。
「デリンガー、知ってる?」
「ハイエルンにも遺跡があったと思うんだけどね、山の中に。昔写本した古い本が旅行記で、見た覚えがあるよ。一寸待っておいで」
デリンガーは借りてきた本をソファーに置いて居間を出て行ったが、戻って来た時には片手に分厚い帳面を持っていた。本と同じ位分厚い。
「これは私の備忘録なんだよ。確かこの辺りに……」
ぺらぺらと頁をめくり、手を止める。
「ハイエルンの南側の山の中だね。この辺りだよ」
ヴェスパはデリンガーの備忘録を覗き込んだ。几帳面な筆致で書き写されたハイエルンの地図と、遺跡があるらしき場所に印が点けてある。
「どんな遺跡か解る?」
「壊れた白い柱が何本か残っているそうだよ」
「わう? レニ、知ってるかも」
竜の駒を持ったままレニが振り返る。
「家の近くにあったよ。紐がね、ぎりぎり届かない所だったから、見ただけだけど」
「紐?」
「ヴァー、レニは迷子防止に腰に紐を付けて採取してたんだって」
デリンガーの疑問にヴェスパが答える。レニは致命的に方向音痴なのだ。
「じゃあレニの家って、この辺なのかあ。これ、結構山の中?」
「普段誰も行かないねえ。今は集落がないからね」
「大体の場所が解れば、師匠〈転移〉出来るかな」
エンデュミオンは〈柱〉の神殿の場所は知っているだろう。ここはヴェスパが連れて行ってもらっていない場所だった。
「あとで紙に書き写してあげようね」
「有難う、デリンガー」
南側に行った時に、エンデュミオンに手伝って貰えばよさそうだ。
レニがツェーザルに教えてもらいながら〈王と騎士〉を一局終える頃に、夕食に呼ばれた。
蝋燭が置かれて温かな光に包まれた食堂のテーブルには、美味しそうな鱒の香草焼きや、茹でた馬鈴薯、ラインハルトが手入れをしていた畑で採れたらしい、柔らかな葉物野菜やラディッシュのサラダがあった。
この教会と〈終の家〉に暮らす全員で食事をするようで、みな慣れたように席に着く。ヴェスパ達もクッションを置いて高さを調節して貰った椅子に座らせてもらう。
「今日の恵みに。月の女神シルヴァーナに感謝を」
全員で食前の祈りを唱える。
「アメリ、お皿の正面に鱒の香草焼き、鱒の右上に茹でた馬鈴薯とグリーンピースのバター炒め。鱒のお皿の左側奥にサラダのボウル。左側手前にトマトと豆のスープのボウル。右前肢の奥にお水のコップがあるよ」
「うん、有難う」
場所さえ教えれば、アメリは器用にナイフとフォークで食事を始める。
「わうー、うまー」
皮をぱりぱりに焼かれた鱒の香草焼きが気に入ったのか、レニの尻尾がぶんぶん揺れている。基本的に動物型の妖精はなんでも食べられる。レニの機嫌がいいと、近くで浮いている熊蜂編みぐるみのツィロも、左右にゆらゆらと揺れる。
「この鱒はヴェスパに頂いたんですよ。レニ、どうぞ」
ラインハルトが切った黒パンをレニに渡しながら言った。
「有難う!」
お礼を言って、レニが受け取った黒パンを齧り尻尾を揺らす。
「そりゃ有難い。立派な鱒だ」とベルツがニヤリと笑って、薄く切った黒パンに乗せた鱒を口に入れた。
「どこで釣ったんだね」
「ヴァー、ケットシーの里にある川だと思う。貰い物」
「いい腕だ」
「ヴァ」
釣り手の腕もいいが、魚を釣るのが里のケットシーとカチヤと知り合いのコボルト達しか居ない穴場だからだ。本来簡単には行けない場所なので、多くは語らないでおく。〈Langue de chat〉の裏庭にあるエンデュミオンの温室経由で気軽に行けるというのは、相変わらず限られた〈Langue de chat〉の友人達しか知らないのだ。
「ヴェスパ達って、次は何処に向かうの?」
ラインハルトの隣に座っているアンゼルムが、皿のグリーンピースをフォークの背で潰しながら訊いてきたので、ヴェスパは隣のアメリを見てから答える。
「次に近い教会かな。教会の大きさは関係ないんだ」
「次ここから近いって言うと……滝の隠れ里だっけ? ラインハルト」
アンゼルムがラインハルトの顔を見る。ラインハルトはフォークを皿の端に置いて宙を見詰めた。
「……そうですね。ですが、入れるかどうかは解らないですよ」
「どうして?」
アメリが首を傾げる。
「北街道から外れた道の先の、滝の奥にあるんですよ。特に案内の標識がないので見落としやすくて。人狼とコボルトの村なので」
「共存の村か」
ヴェスパが産まれた頃、ハイエルンは隷属扱いしていたコボルトを解放した。きっかけはエンデュミオンと三頭魔犬だったらしいのだが、それ以降コボルトは人狼が保護する形で集落を作り共存している。保護と言っても、人狼が外敵からコボルトを守る形で、コボルト達は自由に生活している。
滝の隠れ里はコボルト解放令以前から、コボルトを保護していたようだ。
「あと、一見滝の奥に入れるようには見えんのでな。魔法使いコボルトが張った結界が入口にあって、善人判定されるしの」
ドミニクが追加説明しつつ、千切った黒パンをスープに付けて口に入れる。
「とはいえ春になったし、滝の外に出て釣りをしている住人もおるだろうて。森驢馬でゆっくり行けば、脇道を見逃す事もなかろう。道の右側に川が現れれば隠れ里への道で当っとる」
「ヴ、解った」
コボルト解放令が出たので、今は普通の集落として存在しているようだ。
「明日出発の前に、礼拝堂でお祈りしても良いかな」
「勿論ですよ」
ラインハルトが心底嬉しそうな顔で答えた。
翌朝、朝御飯もご馳走になったあと、ヴェスパ達は礼拝堂に向かった。
「皆一緒に来た方がいいぞ」とヴェスパが誘ったので、〈終の家〉全員が礼拝堂に集まった。
ラインハルトに手伝ってもらって蝋燭に火を点す。
〈終の家〉の礼拝堂は薔薇窓は一つしかなく、建物自体決して大きくないが、よく手入れをされていて、床もベンチも飴色に輝いていた。女神像の前には摘んだばかりの花が活けてある。
膝置きのクッションの上にアメリを座らせ、ヴェスパとレニはその後ろで白い石で出来た月の女神シルヴァーナ像に日々のお礼と、出立の挨拶を祈る。
すぅ、とアメリが息を吸った。
次の瞬間、小さなケットシーの身体から出たとは思えないほどの声量で、聖歌が礼拝堂の中に響き渡った。きっとラインハルト達には聞きなれない節回しの聖歌。その聖歌が数節進むか進まないかの内に、ちらちらと天井付近から銀色の光の粒が降って来る。
「これ……むぐ」
思わず口を開き掛けたアンゼルムが、自分の前肢で慌てて口を押えるのが解った。
最後の節の余韻が消えた瞬間、わあっと言う歓声と拍手が礼拝堂に鳴り響いた。
「凄い! 凄い!」
ヴェスパが振り返った先で、アンゼルムが千切れそうな程尻尾を振っていた。
「こりゃあ見事だ。随分と古い歌い方だな」
手を叩きながらツェーザルが上気した顔で笑った。
「ツェーザル、知ってた?」
「昔馴染みで、聖歌の研究をしていた奴がいてな。聞いた事があったんだ。これほど見事な歌い手じゃ無かったがな」
「ふふ」
褒められてアメリがもじもじとクッションの上で照れる。
「はあ、素晴らしいです。女神様の元にきちんと聖歌が届いていましたね。この聖歌を各地の教会で奉納するのですか?」
「うん。アメリ歌いたい」
「師匠からも頼まれているんだ。きちんと聖歌を奉納されている教会が多い方が、やっぱりいいらしくて」
「エンデュミオンから……」
「ヴェスパも大魔法使いだから」
アメリは純粋に巡礼がしたい。そしてヴェスパは管理不足の教会を見付けたい。ヴェスパは〈柱〉ではないが、大魔法使いというのはそもそも〈柱〉の補助をする者である。つまりれっきとした大魔法使いの仕事なのだ。
「それは、僕がきちんとお務めをすれば、お手伝い出来ますか?」
「うん。聖務をきちんとしてくれていたら、その土地は支えられるから助かる」
「承りました。これからも励みます」
そもそもハイエルンは色々とやらかしている土地である。月の女神シルヴァーナは妖精好きなのにコボルトを隷属化させていた。ヴェスパが思うに、エンデュミオンがぶち切れてコボルト解放をしていなかったら、女神様からハイエルンがお仕置きされていたんじゃないかなあと思わないでもないのだ。
神殿戦争で複数いた〈柱〉が一柱だけになったのだって、かなりの御怒り案件だったのではなかろうか。前任の〈柱〉は消耗し過ぎてエンデュミオンに任を託した後、暫く転生も停止して、魂の休養中だという。
エンデュミオンだって数百年王家にこき使われてやさぐれていた。孝宏と出会っていなかったら、黒森之國は沈んでいたかもしれない。想像すると怖い。
黒森之國の命運を支えているのはエンデュミオンだと、本当に理解している國民はどれだけいるのだろう。そして主としているのが孝宏だから、平和なのに。
孝宏が好戦的でなくて良かった。ただそれに尽きる。
「じゃあ行くよ」
イーを繋いだ馬車の御者台で、ヴェスパは見送りに出て来てくれたラインハルトとアンゼルム、そして老人たちに右前肢を上げた。
「元気でいてね」
「いってきまーす」
アメリとレニも前肢を振る。
「気を付けて」
「また遊びに来い」
「儂らが生きている内になあ」
「はっはっはっ、洒落にならんわい」
口々に見送りの言葉を掛けてくれる。
ここには定期的にテオとルッツが来るし、ヴァルブルガ達も往診に来る。心配する事はない。でも近くを通る時には、顔を出したい。それに、本を届けに来る事もあるだろう。
「またね! 行こう、イー」
ヴェスパはイーに声を掛けた。からり、と箱馬車の車輪が回る。
老人たちが遠く見えなくなるまで、レニはずっと前肢を振っていた。
〈終の家〉編終わりです。次回は滝の隠れ里編に入ります。
相変わらずハイエルンって、やらかしの後始末中なのです。




