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A Drop of Blood  作者: ベルン
第三章 その先は新たな殻の空
22/25

021 君に任せるのみ。

お待たせしました。お楽しみください。

 



 もうすぐ、春。

 あなたと出会った春が、また巡ってくる。



 アネットは今日もやはりいつものように早起きする。

 クレアを起こしに行かなければならない。


 ––––––これからはアネットが起こして。

 ––––––わたしが? わ、わかったわ。

 ––––––…………。


 ルテニアから帰国し、寄っていた実家ウェストモーランドから帰ってきたクレアはアネットに対して以前より遥かに優しくなった。そして、こうしてたまに意味のわからないことを要求してきた。

 そこには何とも言いがたい、一種の甘やかさが潜んでいる。

(……しっかりしてアネット)

 アネットは自分の余計な思いが成長しないようにブンブンと被りを振る。


「クレア、入るね」

 心を無にして彼の部屋に入る。その中は部屋の主人に似ていてすっきりとシンプルで無駄がない。

 窓辺に寄ってカーテンをしゃっと勢いよく開け、寝台に近づいた。

 寝台の上で健やかに寝息を立てているクレアは、普段は見せもしないあどけなさと純真さで溢れている。これがあの皮肉と冷笑で凝り固まっている氷の貴公子なのか信じられないほどの隔たりだ。しかし、基本の美貌があるせいか、もう何だって良くなるほどに息を呑むほど麗しい寝姿である。まるで芸術的な彫刻か何かのようだ。

 アネットは深呼吸する。

 ここはあくまでも事務的に、義務的に。彼を仕事に無事送らなければという使命感を持って。

「クレア、起きて。もう朝よ」

「…………」

 彼は微動だにしない。今日もやっぱり声がけだけではだめなのかと諦め、そろそろと腕に手を起き、揺り起こそうとしてみる。

「ねえ、起きて。明日は休日なんだし、今日くらいどうってことないでしょう」

「ん」

「…………」

 実はもう醒めていたのではなかろうかとたまに思ってしまうのは、きっと気のせいではない。

 現に、彼はこちらに随分と悩殺ものの流し目を送ってきた。こういうのもさまになるというのは、彼が相当な美青年な上に、それが似合うほどの地位と能力を併せ持っているからだ。さぞ女性の群がることだろう。

(はっ! わたしったら朝っぱらから何を考えているの?)

 これ以上邪念に支配されないためにもここを去らなければ。

「起きたわね。わたしはもう……」

 その時、手首をガシッと掴まれた。そのままクレアの方にグイッと引き寄せられてしまい、アネットは思わず寝台の上の、クレアの傍に尻餅をついた。

 見た目は細く中性的なクレアだが、力は男性らしく強い。

「なっ!」

「眠くて起きられない」

「…………」

 向こうもこっちも、互いに少しずつ甘えるようになったのは気のせいではなかろう。


 そうこうしてクレアと朝食を取り、彼を見送る。こうしていると、何だか新婚さんのような気がしてくる。

(世の中の普通に幸せな新婚夫婦とか恋人だったら、こういうことが自然にできるんだろうなあ)

 血縁上の姉弟ではない。しかし法的には紛れもない家族。そして当人たちの間の感情は……。

 自分たちの関係はどう定義づければ良いのだろうか。

 そんなこと考えても不毛でしかないが、時折頭にヒマな空間ができるとそういう方向に思考を巡らしてしまうのだ。


 彼が家を出ると、アネットはアネットでベイカー夫人やメイベルと一緒に家のことをやったり、タウンハウスのクレア邸宛の郵便物や招待を確認したりする。なぜか一家の奥方がやるような仕事を、クレアはアネットに任せている。

 初めは自分がやっても良いものかかなり戸惑っていたが、やがて開き直ってじゃんじゃんてきぱきと仕事をこなすようになった。家にこうして楽にいさせてもらうからには、何か一つでも二つでも役に立ったほうが良かろう。悩ましいのはフリだけ、実はただ気取っているだけ、面倒ごとは人に押し付けるだけの迷惑なお姫さまにはなりたくない。

 そうして仕事が終われば、昼下がりか夕方ごろには庭に出る暇ができる。

 今日もアネットは扉を開け、外に足を踏み出した。

 実家にいた頃は、庭で植物の世話に勤しむ時が一番心安らかだったし、夢中になれた。言い方を換えれば、それしか楽しみがなかった気がする。そしてたまに庭師からおすすめの花をもらっては父の部屋に飾ること。

 穏やかに寝息を立てる父に少しの同情と胸いっぱいの慕わしさを抱いた。

 継母の虐待には嘆く暇もなく、ただただ生活のために屈服するしかなかった。

 コンスタンスの軽蔑には諦念混じりのため息を吐くのが常だった。

 あの頃のクレアの冷笑には耐え難かった。


(でも、今は)

 今は彼の笑みが……あたたかい。


 気がつけば、日もだいぶ傾いており、そろそろクレアが帰ってくる時間帯となっている。

「アネット」

 振り返ると、夕陽に燦然と輝くプラチナブロンドの美青年が佇んでいる。背景には丁寧に手入れされた小綺麗な庭。その組み合わせはさながら一幅の絵のようであり、目が浄化されるような錯覚に陥れる。

「クレア! お帰りなさい」

 ちょうど想いを馳せていた当人が現れるものだから、アネットは心臓が飛び出てしまうのではないかと思った。

 クレアはアネットの手先を見遣った。

「花の世話か」

「そうよ。もうすぐ春だし、また新しい花を植えようかなって思っているの。ほら、あっちの一角がまた空いちゃったじゃない?」

 彼はアネットがさす方角ではなく、アネット本人を見つめてはしばらく何か考え込んでいるようだった。アネットはその視線には気づかなかったが。

 彼は、突然ボソッと呟いた。

「平和なものだな」

 その台詞にどんな感情や意見がこもっているのかは知らないが、なんとなく皮肉られているようで少々むっとし、彼のほうを振り返る。

「……花の世話が平和でなくてはどうしろっていうの?」

「確かに、それはそうだ」

 彼は自嘲気味に笑った。

 おかしい。何となく元気がないような……。

「クレア、大丈夫?」

 アネットは労わるように声をかける。顔に手をかざし、触れそうになったところでクレアはゲッとでも言いたげに眉を寄せ、顔を避けた。

「何で」

 彼が気にしないように視線を花に向けては、何となしに話す。顔を避けられたのは意外と堪えたが、おくびにも出さない。

「何となく、元気がないと思って。なんだか弱気じゃない?」

「別に」

 彼は即答の後、フッと視線を逸らした。彼が嘘をついている時のくせだ。

「またそうやって隠しごとをするのね」

「………………」

 スッと視線がこちらに向き直る。アネットは一瞬だけたじろいでしまったが、すぐに気を取り直す。

「どうしたの。やっぱり、軍出身の人は受け入れられづらいのかしら。誰かにいじめられたりでもしてるの?」

 クレアは除隊ののち、士官学校時代の優秀さと若さの割に華麗な軍経歴を見込まれ、官僚としての道を歩き始めた。その手始めに役所で働くようになってからは定時に帰ってくるし、時間的余裕にも恵まれ、休日なんかはほぼ毎回共に過ごすようになった。

 しかし、長年にわたる溝がそう簡単に埋まるわけもなく、せいぜい茶菓子があればそれを口実にふたりで対話をするくらいだった。それでも時が経つにつれ、片方が他の街で用事がある場合はもう片方も一緒に向かったり、用事が済んでからの帰りには空腹だと称して近場の食事処に寄ったりして、それなりに楽しむようになっている。

 ただ、言葉や親しさのやりとりが旺盛になされているかというと……今でもそれはなかなかに双方ともきついと感じている。

 しかしながら一方で、クレアと多くの時間を共に過ごし物理的にも精神的にも交流を重ねれば、見えてくるものもたくさんある。

 彼は軍に勤めていた頃よりも増えた余裕の割に、最近はどんどん疲れた様子を見せるようになった。ウィルキンソン氏はおそらく解っているのだろう。だがベイカー夫人とメイベルは察していない気がする。

 将校出身はまぎれもない国でも上層部のエリートだが、武官たる彼らと文官たる官僚とは相容れないことが多分にありうる。

 しかし、クレアはくだらないとでも言いたげに、そんなアネットの憂慮を鼻で嗤った。

「ガキじゃないんだから。違うよ」

「は……」

 クレアは被せるように言う。

「虐めなんてない。そもそも俺の経歴に文句つけられるような奴なんかそうそういない」

 かなりの自信に満ち溢れている。その程度たるや傲慢といってもいいくらいだ。アネットは顔が引きつりそうになるのを必死でこらえた。しかし、確かに彼の言う通りだ。第一士官学校という看板だけでも社会では優秀と認められるものであり、ましてや飛び級で、卒業成績は次席である。

 しかし、無理に強がる彼は面白くなかった。もっと頼ってくれていいのに、自分はやはり彼にとってそういう存在には慣れないのだと思うと、自分の無力さを痛感するしかなかった。

「あ、そう」

 人がせっかく心配しているのに、そういう風に笑い飛ばすってどうなの。

 笑い飛ばすほど元気でもないくせに。彼はまた、自分のしんどさを押し隠して何でもない振りをするのだ。

(わたしの前では強がらなくていい)

 そう言いたいが、言えるわけがない。せいぜいそっけなく返すくらいが限界だ。

「でもあまり無理しないほうがいいわよ。体は資本っていうじゃない」

 昔からそうだ。

 彼は他人に弱さなど見せるような人ではない。アネットの前ではなおさらそういう傾向があった。

 仲が良かった時も、悪かった時も。

「無理してないよ。定時には帰ってきているだろう?」

「定時に帰ってくるためにっていうのに加えて、周りの人に早く認めてもらいたいからなおさら無理しているんじゃなくて?」

「…………」

 黙っているというのは、おそらく肯定の意であろう。思わずため息がこぼれてしまう。

「あなたのことだもの。どうせそんな感じでしょう」

「最近かなり調子乗ってない?」

 クレアは不服そうに苦笑する。アネットはうっすらと笑った。

「そんなことないわ。本来の自分を取り戻しているだけよ。……誰かさんのおかげでね」

「!」

 珍しくアネットは強気で素直だし、珍しくクレアは驚いているし動揺している。

 何だか、不思議だ。

 彼とこうして、花の世話をしながら冗談交じりに語らうのは。

「花といえば、昔三人でよく遊んでいたな……」

「そうね。冠とか腕輪とか指輪とか作って遊んでいたわ」

 あの頃も双子の傾向ははっきりとしていた。クレアはあの頃も器用で、アネットが教えた通りにせっせと花でいろいろなものを作っていたけれど、コンスタンスは花を手に取り次第ぐちゃぐちゃにしていった。そしてべそをかいてはアネットやクレアが作ったものを強請った。彼女本人はけして悪意があってそうしたのではない。あの頃はまだ純粋だったし、アネットのことも姉として慕っていた。ただ不器用で、手先でものを作るのが彼女に向いていなかっただけの話だ。そうしてもらった花飾りを自分の頭や腕に飾っては、お姫さまのように振る舞うのが大好きだった。

 あの頃のコンスタンスは、綿菓子のようにかわいらしい女の子だった。

(そういえば、あの子がわたしを嫌うようになったのはいつからかしら)

「あの頃はまだ皆そこまで仲が険悪ではなかったね」

 何を思って彼はそれに言い及んだのだろう。彼の言葉は自分の顔を下に俯かせるに十分だった。

「わたしは別に、あんな仲悪くなりたくなかったけれど」

 アネットは俯いた。クレアは眉を少し上げて彼女を見下ろすと、肩を竦めた。

「仕方ないかもね。母は財産狙いで父上に縋ったようなものだし、その為には結局お前が邪魔だったんだろう」

「随分身も蓋もない言いかたね……」

「事実だし」

 事もなげに言うが、実際どうだろう。

 彼は、自分の家族をどう思っているのだろう。自分はその家族にも含まれていないと、彼は明言したが……。


 ––––––初めからやり直したい。


 あれは、きっと……。

 アネットは首を横にぶんぶん振った。


 今でもクレアが見ている手前で他の男性へ、それもクレアの心を踏みにじる邪な目的を持って愛の告白を言わされた時のことを思うと、今さらながら涙が込み上がってくる。

 しかし、それに屈服してしまったのは自分だ。やり直そうといっても、自分はどうすべきかわからない。

 初めは彼の将来に影を落とさないよう、慎重に、あくまでも姉弟として振舞うことを堅く誓っていた。

 だが、今はもうわからなくなってしまった。

 クレアは姉としての自分を望んではいないのだと思う。彼はアネットに男として意識されたいのだと……思う。

 でないとあんな露骨な口づけなんてできるはずない。あんなのは弟が姉にするものではない。

「今日の夕食は外で摂らないか」

 クレアは何を思ったのか、不意にそんなことを口にした。両ポケットに手を突っ込んでいる。彼の背より少しずれて、夕日が見えた。そのせいで逆光により彼の表情は窺い知れない。

「外で? いいわよ。何が食べたいの?」

「お前は?」

「わたし? そうね……。豚の丸焼きがいいわ」

 数拍して、クレアは盛大に吹き出した。

「豚の丸焼きって……。色気の欠片もないね」

「何よ! 大体、料理に色気なんて求めるほうがおかしいわよ!」

「そういうことを言っているわけじゃないんだけど……。まあいい。面白いし俺も腹が減ったし。そうしよう。行きたい店は?」

「あ、ごめんなさい……。特にこれといったところはなくて。面倒くさかったら、他のところでも」

「いや、いい。俺が知っている店があるから、そこに行こう」

 クレアはさらりとそう言うと、「じゃあちょっと外套を取ってくるから」と家の中に戻った。

 アネットも急いでそれまで広げていた園芸道具を片づけ、家の中に入る。

(いつもの上掛けを取ってこなきゃ)

 二階の自室に上がろうとしたら、階段を降りてくるクレアと鉢合わせた。そして、二人の目線がかち合った。

 彼は外套を持っていたが、その手元にはさらにもう一枚上乗せしてあった。

 アネットの上掛けである。

「あっ」

 アネットが慌ててクレアと上掛けに対して交互に視線をさまよわせると、クレアはクスッと微笑した。

 何となく、温かみが篭っている気がする。

「これだろう? はい」

 アネットはぼうっとしてその上掛けを受け取った。

「あ、ちなみにお前の部屋には入っていない。ベイカー夫人が丁度近くにいたから、取りに行ってもらった。だから変に疑うなよ」

(やっぱり、いつもより言葉が多いわ)

 彼が緊張している時のくせ。

 思わず笑みがこぼれた。

「わかったわ。ねえ、早く行きましょうよ。わたしもうお腹が空いちゃって」

 アネットは上掛けを羽織りながら、玄関のほうへ振り返っては彼より先を進んだ。


 そのせいで、自分を見つめる視線に普段はあまり見られることのない熱が込められていることに気づかなかった。




ありがとうございました。

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