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A Drop of Blood  作者: ベルン
第三章 その先は新たな殻の空
21/25

020 これで片付いて、あとは

お待たせしました。お楽しみください。

 



 ヒルドレッドは神経質になっていた。

「ううっ……! 許せない。クレア、許せないわ! この母を裏切るなんて!!」

 彼女はその見事な金髪を振り乱し、綺麗に手入れされている爪をガリガリと噛んだ。先から長い間落ち着くことなく部屋をうろうろと歩きまわる。その度に高いヒールの音がカツカツと響くのが非常に気に障るほどで、同じ部屋に控えた使用人らは眉を顰めたい気持ちになった。当たり前だが、そんなこと顔に出せるわけもない。

ヒルドレッドの脳裏に過ぎるは、麗しい我が息子の冷淡な微笑である。

 あの氷のような表情が、まさか自分に向けられるとは思いもしなかった。


 ––––––母上。これからフェイン家当主は私です。いくら母でも、私の許可なしに行動を起こすのは控えていただきたい。

 ––––––でもあなたの言う通り、わたくしはあなたの母よ? この母を蔑ろにすると言うの?

 ––––––あなたが父上をあんな風に接することがなかったなら、私も少しは考慮しましたが。あの方と違って私は息子とはいえ、あなたにいつ刃を向かれるか……。

 ––––––な、何ですって!? わたくしはあなたの生みの親よ! あの老いぼれはあなたたちのために何もしなかったわよ!

 ––––––自分の女だったはずの者が自分の弟との不倫に走り、その間に生まれた子供をあなたの子だと嘘を言って無理やり養育の義務を課し、今まで夫として慕情の欠片もくれなかった女を世話したのは誰でしょうね。

 ––––––な、なっ、あなた、母に何という口をきくの!?

 ––––––しかも、その子供たちにまで何不自由なく十分に愛情を注いで育ててくれた。まさに聖人ではありませんか? 本当の出自を知って苦しんでいた私に、彼が何と言ったと思います?

 ––––––…………………

 ––––––腹を痛めて生んだのではないにしろ、胸を痛めて生んだ子供だと思っている。血の繋がりはないが、君達は私の一番大切な宝だ。私を君達の元へお導き下さった神に感謝している。……お人好しも過ぎると愚かとしか言い様がありません。しかし、この呆れるほど愚かな方が物心両面でここまで私達の面倒を見てくれたんですよ。


 どんなに目を逸らそうと、他のことで被せようとしても、それは紛れもない事実だ。それにもかかわらず道を逸れてしまったヒルドレッドは焦っていた。

 しかし、息子には何とかうまく言いくるめておかなければならない。この考えがヒルドレッドの間違いだったのかもしれない。

 ––––––クレア。母の言うことをよくお聞き。あなたが何を吹き込まれたかは知らないけれど………。

 ––––––俺は神なんて信じないよ、母さん。

 ––––––!!!

 ––––––神なんているわけがない。いるなら、何でこんな不公平を強いるの? 何で、父上はあんなに苦しんで、母さんはこんなに楽に生きてるの? それってかなり理不尽じゃないか。


 息子は自分が他人を言いくるめこそすれ、他人に言いくるめられるような為人ではなかった。

 たとえその相手が腹を痛めて生んでくれた母親だったとしても。


 ––––––クレア!

 ––––––知ってるよ。俺達に名前を付けてくれたのも父上だって。だって母さんは、俺達のことを遺産相続の道具としてしか見てないだろう?

 ––––––お黙り!

 ––––––でも父上も困った人だよね。どうも俺達は二人とも名前とは正反対の人間に成り下がってしまったよ。


 クレア、清明な人でありますように。

 コンスタンス、芯の一貫した人でありますように。


 クレアは皮肉に塗れて口に弧を描いた。

 ––––––コンスタンスは心変わりの激しい、信用ならない娘になってしまった。俺が薄汚れた人間に成り下がったことなんて言うまでもないしね。もしかしたら、不倫の結果物だから敢えて皮肉を込めて命名したとか? まあでも、父上は母さんのような人間じゃあるまいし、そんなことないか。

 ––––––なぜ……なぜ実の母にはこんなに反抗的で、あの男には従順なのよ! あの男が何だって言うのよ!

 叫んでおいてハッとした。自ら進んで墓穴を掘ったようなものだ。しかし時すでに遅く。

 ––––––そうだね。じゃあ何、叔父上に「父上」なんて呼んであげた方がいいってこと? 頭沸いてる?

 ––––––…………。

 皮肉と諦念入り混じった口調で淡々と語っていた彼はこちらを睨んできた。

 今まで息子を育ててきて時折ふと感じていた冷たい空気は、今目の前の彼が見せているこの姿の片鱗だったのか、と思うくらいゾッとした鋭い目つきだった。


 ––––––今後一切俺に干渉するな。不倫だったにしろ、さすがに産んでくれたのは事実だから、ほどほどに贅沢して暮らすことは黙認する。そう、それも貴女の言う通り「実の母」だからね。但しそれも度を越せば直ちに出て行ってもらう。実母の手前、当面の生活の為にある程度の金は持たせるけど、そのうち自分で働かないとやっていけないと思うよ。だからさ、

 そして彼は背中を向けた。


 ––––––これからはそのご身分を弁えるようご忠告申し上げます。「前フェイン伯爵夫人」。


 息子が振り返ることはなかった。



 エリオットはここ数日の間、急激に体調が悪くなった。

 以前から状態はそんなに良好とも言えなかったが、まだアネットが精神的な支えになっていたのか耐えることができた。

 だが、彼女がクレアと共に首都に行ってしまってからは日々入れ替えられていた花に対する楽しみも無くなってしまい、精神的にかなり参っていた。

 コンスタンスもエリオットの愛娘であることには変わりないが、正直彼女が自分を父として慕って細やかに気配ってくれるかというと決してそういう娘ではない。彼女にそれを期待するのは酷というものである。

 ヒルドレッドに関しては、妻として自分を心配するどころか、むしろ息子の相続の為に早く死んでくれないだろうかと日がな切実に願っているようで、極めて遺憾である。

 今彼を支えているのは息子クレアだった。彼はある日から愛息子よりは頼れる義理の息子のようになってしまった気がする。

 薄れた記憶の中で明確に現れたのは、戸惑いと緊張、そして僅かな期待を込めた表情。

 クレアの奥底の欲に薄々気づいてしまっていたエリオットは、この縁が彼らに取って幸か不幸か分かり得なかった。

 クレアは事実を知った––––––というよりは確信した後、アネットに対して積極的になった。それはエリオットの目から見ても明らかだった。そしてアネットの方はクレアがエリオットの元に事実確認をしに訪れた日から数年して、態度が変わった気がした。

 クレアを接する度に、「女」が顔を出していたのだ。

 恐らく、アネット自身はそのことに気づいていない。寧ろクレアの方が敏感に察して、より自信を持つようになったくらいだ。

 何故だろうか。自分はアネットに事実を明かしたことはなかった。だが、彼女はもう事実を知っている様子だった。

 十中八九、ヒルドレッド辺りがうっかり漏らしてしまったのだろう。

 コンスタンスはまだ知らないと思われる。なぜなら、あの子は知ったら必ず顔に出てしまうからだ。我が娘ながら決して良い心根を持っているとは言えないが、悪賢く立ち回ることができるわけでもない。簡単に言い換えれば、幼稚な子供である。

 ジョージとヒルドレッドの俊敏で策略的で貪欲で激烈な性格が、クレアとコンスタンスとで各々異なった様相で現れた。


 クレアがアネットを連れてここを去る前、とある日だった。

 ヒルドレッドは当時、いつものように邸を空けていたし、クレアは遠乗りに、コンスタンスは友人の邸に遊びに出かけており、アネットは裏庭に続く家の畑で仕事をしていたようであった。

 エリオットは一人ゆったりとした揺り椅子に深く腰掛け、昼下がりの暖かさに微睡みながら時に目を開け、時に目を閉じ、本をサッと読んでみたりして時間を過ごしていた。目が覚めて読書に夢中になっていた折、突然使用人からお客様がいらしましたと言われ、通せと指示をした。

 扉の向こうに立っていたのは、頗る長身の薄汚い黒い格好をした旅人風の男だった。

 ––––––ベルンハルト・イーゼンベルクと申します。

 キラリと鋭い目つきの、極めて野性的な男性だった。外見から察するに、年齢はアネットとそう変わらないような若者である。

 彼はパッツンパッツンに伸びた太い毛髪をガリガリと一掻きした。エリオットとしてはそう気にはならないが、メイドたちは驚愕を禁じ得ないだろう。

 かなり威圧的な容姿だが、死期が近い自分が恐れるに全く値しない。恐れているのは自分の死、そして子どもたちに降りかかる災難だけだ。

エリオットにとって、今目の前に立つ大柄な男は、ただの青い小僧だった。

 ––––––さて、どのような御用でしょうか。

 ––––––恩人を探しに来ました。

 ––––––それは……。

 ––––––こちらに、遠東から来た女性がいらっしゃいませんか。名前は……

ベルンハルトは女性の名前を言うが、これがとても新鮮な響きを持っていた。しかし、知らない響きではない。耳にしたことは何度かある。そう、何度か。

 ––––––遠い東から来た女性は嘗てはいました。しかし今はもういませんし、そのような名前でもありませんでしたが。

一応そう言って、ベルンハルトの反応を探ることにした。

 ––––––いえ、もしかしたら仮名を使っているのかもしれません。例えばそう、この名前の意味は『真珠』なんですよ。これをもじって何か仮名を作って生きていたのかもしれません。

 ––––––それは!

 パール。アングリア語で真珠という意味。

 名前自体は自分達が付けてあげたが、思い起こせば彼女はその名前を聞いた瞬間、共に挙げていた幾つかの名前を全て却下してとにかく「パールがいい」の一点張りであった。

 ––––––確かに、その女性で間違い無いと思われます。

 そう返事したら、ベルンハルト・イーゼンベルクと名乗ったその青年は一瞬ハッとした喜びの表情を見せたが、すぐさまそれは暗く沈んでしまった。

 ––––––今一瞬看過していましたが、彼女はもうこちらにはいらっしゃらないということですね?

 ––––––はい。恐らく、考えたくはありませんが……既にこの世にないものかと。

 ––––––どうしてですか?

 ––––––何となくそんな気がします。どこかがポッカリ空いたような、どことなく身が震えてしまうような、心がどこまでも冷え込んでしまうような、そんな気が突然起こった日があったのです。

 ––––––よく、解りません。そんなこと、あり得るのですか。

 ––––––貴方もいずれ魂を取られたら、そう感じる日が来るでしょう。

 ––––––…………。彼女に会えなければ、せめてその後裔に会いたく思いますが……。

 ––––––問題ありません。但し、貴方の素性が知りたいものでね。


 そして、彼に娘のことを教えた。

 良かったと思った。これで、少なからず頼れる場所が娘にはできたのだ。

 これでいい。これで、もう憂慮も未練もない。


 ––––––私は父上が生きていらっしゃるうちに爵位をいただきたい。


 双子の妹と違ってものを強請ることがないクレアが初めて要望を口にした瞬間。

 しかもその要望するものが、エリオットが彼に与えられるものの中で対外的には最も大きなものとされているだけに、驚いた記憶がある。

 クレアは当初から物欲が無く冷めた雰囲気を纏っており、年齢のわりに厭世的で達観した風の子供だった。

 今思えば、彼は無意識にそうすることで自身を守ってきたのかもしれないと思う。


 ––––––ほう。それはどうしてかね。

「生きているうち」という条件が引っかかった。彼の母は自分を一日でも早く亡き者にしたい願望があるようだが、彼は正反対のことを言うのだ。

 双方の目的は同じ筈なのに、それまでの道が違う。

 ––––––それは爵位を通して、母が求めているものと私が求めているものが全く違うからです。

 ––––––それは何なのだ。

 ––––––母は自身を、私は想いを守る為です。

エリオットは息子に冷ややかな視線を差し向けた。

 ––––––爵位とは関係ない。守りたければ守ればいい。

しかし、クレアは怖気付くことなく、父を真っ直ぐに見据えた。

 ––––––父上、あの母から姉上を解放する為には俺に力が必要です。爵位と財産は母に対する最大の武器になります。

 それはそうだ。何にしろ、あの女はそれを目当てに私に嫁いできたのだから。

 ––––––君はアネットに女を求めているのか。

 ––––––その通りです。

 ––––––あの子は君の姉だぞ。

 ––––––そんなのは血縁上他者であればどうでもいいです。

 ––––––どうでもよくない。あの子の心を考えたことはあるのかね? 君たちが結ばれることによって……いや、結ばれるまでもない。君がその想いを口にするだけでも、どんなに世間の風当たりが強くなるのか考えたことはあるのか?

 ––––––はい。

 ––––––恋愛ごっこではない。ごっこにしてもタチが悪い。君達は姉と弟として育ってきているんだ。そもそも恋愛感情が芽生えること自体話にならないのだ。

 ––––––育っていませんよ。精々ここ一、二年でしょう。

 ––––––それで、私が生きているうちというのは、どういうことかね。

 ––––––貴方が生きているうちでないと、私は準備ができていないまま爵位を継承することになります。そうすれば母の思う壺です。貴方は……もうそんなに長くないのでしょう。

 クレアはその時初めて年齢相応の不安が染み入った暗い顔をした。

 ––––––私は貴方に然るべき教育をお願いしたいのです。

 ––––––だが、君がウェストモーランドの伯爵位と財産を手に入れるに値する人間だということは、どう証明するのかな。

 ––––––これからご覧に入れましょう。成年までに必ず。


 彼は元々聡明で優秀な面貌をちらつかせてはいたが、あの日以降益々成果を叩き出し、他より数年も早く人の上に立ち、人を率いる者になってしまったのだった。


 そしてルテニアから帰国しここに寄ったクレアは、手に入れるべきものを手に入れて去る。

 エリオットはここまで立派に成長してくれた我が息子が誇らしかった。しかしそれと同時に、血が繋がっていないとはいえ姉に恋してしまった愚かさに溜息を吐くしかなかった。

 容認されるわけがない。


 執事が入ってきたようだった。だが、頭が重い。そちらに視線を向けられない。

「旦那様……?」



 血の大罪は犯されないが、それなくして禁忌を犯すことの代償は何なのか。




ありがとうございました。

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