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A Drop of Blood  作者: ベルン
第二章 殻を破る
20/25

019 そして新たに

新年度ですね。今年はまた忙しくなりますが、頑張ります。よろしくお願いします。

また、ブックマークや評価、本当にありがとうございます。励みになります。




 麗しの白金の君、フェイン家長男クレア・レイモンド・フェインがウェストモーランド伯爵位を継承したという出来事は、瞬く間に貴族社会を風靡した。

「あら、あんなに士官学校で優秀でいらしたのに」

「軍の中でも一際目立って将来有望だったらしいですよ」

「しかしな。あんな風にすぐに辞めてしまうならば、初めからやらなければ良かったんだ。お陰で周りの学生が劣等感を感じて大変だっただけだろう」

「確かにそうでございますわね。どうせ長男ですし、他に男兄弟もいらっしゃらないですもの。どうせ家を注がなければならなかったでしょうに」

「爵位を継いで、領地の経営をしなければならないという事は全く考慮していなかったのかね。若者というのは、どうも非現実的ですぐ突っ走りたがる」

 良きようにも悪きようにもクレアの除隊は様々に取り沙汰されたが、その優秀さを否定する者は誰一人としていなかった。そして、領地に帰った時に合わせて用意された宴会にクレアが現れれば––––––クレアのために用意されたものだったので、主人公の彼が登場することは自然なことだが––––––その場の令嬢たちは各々頰を赤らめ、少しでも彼の目につこうと躍起になったのであった。

 クレア本人としては、傍迷惑な話だ。しかも除隊してはいないと訂正することもできない。

まさか除隊の理由が、実は除隊なんてしておらず特殊部隊に入隊したからであると……言ってはならないのだ。

 しかも更に嫌な事に、これは半ば強制的にされたのだ。アネットのことをダシにされたようなものである。


 諸々の仕事を終えてクレアが首都に帰ってきたのは、何と初冬だった。

「アネット……」

 我知らず、呟いていた。


 あの時アネットは何をしていたのだろう。

 そう。その時は確か、その日の分の刺繍を終えて窓の外を窺い見たのだった。

 そうしたらこれは夢ではないかと錯覚しそうな光景を目の当たりにして、気がつけば玄関を飛び出していた。

「クレア……?」


「クレア、お帰りなさい……!」

 こちらに向かって一直線に息を切らして駆けてきて、胸一杯になったような、感極まっているようなアネットの表情。

 思わぬ反応で出迎えられて、クレアは普段は澄ました目を丸くして驚く。

「……意外だな。お前がそういう反応をするだなんて」

「あ!」

 呆気に取られているかのような彼に指摘されてようやく、アネットは自分がいかに的外れで恥知らずな行動をしてしまったのかと気づいたが、もう遅かった。羞恥と後悔でさっと俯く。

(うわああっ! やだやだ、わたしったら何を)

 目をぎゅっとつぶってしっかりと己が軽率さを悔やみ、恐る恐る顔を上げる。

(あなたはわたしに意外って言ったわね。でも……)

 わたしからすれば、あなたの方が意外だわ。

 クレアが少し頰を緩ませ、微笑していたのだ。

 普段の愛想笑いでも、人を馬鹿にするときの冷笑でもなく、心からの温かな微笑。

 アネットは彼から目が離せなかった。

(そんな顔……わたしに向けないで)

 この先に、自分たちのために何か幸せが待っているのではないかと、儚いことを希ってしまう。


(本当に、予想外だ……)

 まさか彼女がこんな風に自分を出迎えてくれるだなんて。

 夢のようだ。現実であってほしい。おそらく現実だが、それでも信じ切れない。

 あまりにも、これは……。

 自分が浮かれすぎている自覚はある。気をつけないと。この幸せを手放しに喜んでいられるほど余裕があるわけではない。

(だが、今だけは)

 自分がいない間、彼女は以前よりも一層輝きが増した。

 そうだ。これがアネットの本来あるべき姿だったのだ。それを母と妹と自分は踏み躙り、彼女の今までの人生を台無しにしてきた。

 純粋に彼女の幸福を願うなら、ここで解放すべきだということは痛いほど理解している。だが、愚かにも自分は彼女を手放せそうにない。


「アネット」


 ただいま。



 再会すれば互いに余所余所しいと思っていた。しかし案外親しげに、寧ろここ数か月間全く会っていなかったにもかかわらず以前より遥かに親密に接することができている。

 途中で首都に一旦戻ろうと思えば戻ることもできた。だが、その日数さえ惜しんでウェストモーランドのフェイン伯爵領に滞在を続けていたのは、ヒルドレッドが何を仕出かすか判らなかったからである。

 我が母ながら、非常に残念で皮肉で不愉快だ。

 そして、妹から直接フランシスとの事を耳に入れ、本来なら来年秋辺りに予定されていた彼らの結婚を春夏辺りまで直接前倒ししようとした事も大きい。

 着実にウェストモーランド伯爵になりたかった。母が干渉できないように。

 コンスタンスも、領地やその他財産が全て自分の管理下にある手前、勝手なことはできないだろう。クレアは父エリオットではない。彼のようにコンスタンスを甘やかすことはない。


 ようやく、アネットに対して素直になることができる。彼女に思い切り寄り添うことができる。彼女を甘やかすことができる。

 彼女の傷を、癒すことができる。償いを……させてもらえる。


「コンスタンスとフランシスは来春か夏に結婚する」

「それはめでたいことだわ。わたしはお祝いに呼んでもらえないだろうけど。実際、そんなに行く気はしないし」

 アネットがこうして素直に心の内を言ってくれるようになったのも、進歩だと思わずにはいられない。

「爵位も継いで、領地や財産も受け取れた。母上が手出ししようとはしていたけど」

「そうなのね」

「そう。財産のことだけど」

 クレアは一旦言葉を切り、アネットを見つめた。アネットはわけが解らないようで、首を傾げている。

「当初父上は俺達三人に平等に分配する筈が、俺に全財産を下さったんだよ」

 アネットは少し驚いた。自分の財産はどうしたのだ! という憤りがあったわけではない。ただ父の性格上、アネットに少しは配当してくれそうな気がしたのだ。決して父の財産を狙っていたわけではない。自分はいずれ何もかも忘れて邸を出る予定だったのだし、自分で仕事を見つけて食べていこうと思ってさえいたのだから。ただ、自分はまだしも、コンスタンスはどうなのだろう。彼女が稼ぎに出るわけないし……。

(あ、そうだ。コンスタンスは結婚するんだった)

 あの子どものようなコンスタンスが結婚して他の家にお嫁に行くというのが想像しがたく、自分の中でうまく像を結べなかった。そうだ、それなら彼女に関する心配も余計なものというわけだ。

 クレアなら、きちんと財産の使い道を考えてくれるだろう。彼は相当な切れ者だし、過去にアネットを嫌悪して虐待に一助していたことを抜きにすれば、人格者……。

アネットはふと、クレアを見つめた。彼もこちらを見つめ返す。その両目は深い水底のように澄んでいる。

(違うわ。クレアは何も悪くない)

 彼が虐待に加担したことはなかった。

 傍観、というのはどうだろう。彼は幼かったし、母に抵抗するほどの力はなかった。たとえアネットを助けたかったとして、果たして年端もいかない少年が母にどこまで逆らえるか。

もし彼がアネットを助けたくても無力だったから助けられなかったとしたら……聡明な彼ならではの忍耐の日々があったのかもしれない。

 最も、彼にとって自分がそこまでの価値があるかどうかはやはり今でも少し疑問だが。

 しかし、今冷静になって思い返せば、彼は決定的な瞬間に助けに入ってくれたり、ヒルドレッドやコンスタンスが気づかないようにさりげなく手を差し伸べてくれた。アネットに冷淡に接していたのも、彼らの前でだけだった。それも実際にはアネットにあまり害を与えることなく、まるで彼らに見せつけるように、彼らがクレアに対して疑いを持たないように––––––引き続き、クレアがアネットをそっと守れるように。

(っ!)

 これは、自分の自惚れた解釈なのだろうか。

 自分は今まで、弟として接するべき人に邪な感情を抱いたから、それを押し隠すために彼への感情をないものにするために、わざと彼を悪人に仕立てていたのではないか。

 彼は自分が長期的にアネットを守れるよう、最善を尽くしてくれた。

 頑なに心を閉ざしていたのは自分だ。

 それを今になってやっと確信するとは。アネットは自分を殴りたくなった。

 今目の前で自分を見つめてくる彼を認めれば今までの数々の疑問も一気に払拭される。

(そう、だったんだ……)


「アネット」

「っ……! な、何?」

(いきなり呼ぶからびっくりしたじゃない……。あ、違うわ。わたしが考えごとをしていたのがいけないんだわ)

クレアは呆れたように目を細める。

「何って。お前がこっちを見てくるから」

「あ……」

アネットは今さらながら目を必死に逸らす。羞恥でどこか穴があれば入りたい。今まで彼の顔を凝視したまま長いこと考え事など。彼が怪訝に思うのも無理はない。

「ごめんなさい。それで、えっと……あなたが全財産を受け取ったという話だったかしら?」

 クレアは若干バツが悪そうな顔をしていた。

「そうなんだけど。体調が優れないなら、今日はもうやめにして明日にでも話すよ」

 それはいけない。重要な案件なのだ。

「いいえ! いいの。体調が悪いなんて全くないわ。考えごとをしちゃったの。ごめんなさい、あなたが話しているのに、わたしったら」

「いい。寧ろ、俺が全財産を貰っただの爵位を継いだだの、アネットにとって面白くないよね」

 違う。けしてそういうわけではないのだ。申し訳なさともどかしさが募る。

「話して。大事な話でしょう? それに、あなたが全財産を受け取ったって聞いて安心したの。本当よ。やっぱり、あなたが管理してくれるのが一番いいと思うのよ。あなたなら使い道を誤らないだろうし、お父さまが築き上げてきたものの価値をちゃんとわかって、大切にしてくれるって……クレアのこと、信じているから」

「––––––––––––」

 返事がなく奇妙な沈黙が降りたので、たまらず彼を見上げると、驚いたことに彼の秀麗な貌に朱が散っていた。

「わたし、何か変なことを言ったかしら?」

「…………。いや、もういい」

(照れているのかしら? まあ確かに、わたしが面と向かってこういうことを言うのって皆無に等しかったものね)

 彼の反応に対し、自分は驚くほど良いように解釈してしまっている。その自覚はある。ただ、何でも悲観的に捉えるよりは良いはず。アネットはそう信じてそれを貫くことにした。

「……それで、その財産を自由にできるのは俺だけなんだよね」

「そうね」

 お父さまのお世話も忘れないでね、なんてわざわざアネットが言うこともないだろう。彼はちゃんと人としての道を守ってくれる。

「今すぐ、あるいはこの先もその財産をどうこうしようとか思うことはない」

「そう。堅実で何よりだわ」

「母上は今後俺に干渉することはできない」

 それまでうんうんと頷いていたアネットは小首を傾げた。話の方向が少しわからなくなってきたのだ。

(何を言いたいの……?)

 彼のことだから、愚かなことは言わないと思うが。

「アネット。お前は今まで俺達に虐待されてきた。その償いといってはなんだが––––––こんなのだけで償いになれるとは無論思わないが––––––この全財産をお前が貰ってやってほしい」

「いいえ」

 自分でも驚くほどきっぱり、そして直ちに返していた。だがこれで良い。自分の意志は明確だ。

 クレアはというと、アネットが彼の提案を断っている理由を掴みかねているようだった。彼は彼なりにありえそうな答えを考えついては、アネットの説得を試みている。

「アネット。これはみんな、本来はお前のものなんだ。不当に奪われていたものを取り返すだけなんだよ」

 彼がそんなことを言ってくれるなんて……。

「父上の全き子は、お前だ。コンスタンスや俺ではない。これはお前の当然の権利だ」

 まるで子どもに優しく言い聞かせるように、彼はそう囁きかけている。それがとても耳に心地良くて、我を忘れそうになる。

「全部お前のものだ」

 不意に泣きたくなった。子どものように誰かに守られていることを実感した瞬間だった。

「こういう事は、お前の自尊心を傷つけるものではない筈だ」

 彼のその一言は、過去のさまざまなことを思い起こさせる。アネットは苦く笑った。

 自尊心?

 そんなもの、定義すら忘れた。

 不当に奪われたもの?

 そうだ。今まで不当に奪われたものは多かった。目標、自由、希望、幸福……。自分が無力で対抗することも叶わなかった。断腸の思いでそれを認めてからは、意志を殺して生きてきた。

「いいえ。自尊心とかそういうのはどうでもいいわ。今までさんざん傷つけられすぎて、自尊心や矜持なんてものはないの」

アネットは力なく笑った。

「あのね、クレア。自尊心や矜恃の前に……人はまず腹を満たさなきゃ生きていけないのよ。飢えて死にそうな人は、なりふり構ってなんかいられない。…………わたしがちょうど、それだったの。生きていくのに精一杯で」

 伏せがちに愁いを帯びた目で告げられた彼女の言葉は、クレアの胸中をひどく抉った。

 アネットはクレアが心から沈痛な思いをしてくれていることを汲み取った。

「ごめんね。あなたを責めているわけじゃないの。それどころか、感謝しているの」

「……………………………」

 アネットは膝の上に重ねてあった両手を組み替えた。

「ありがとう。今までわたしを守ってくれて。助けてくれて。これを認めるのに、こんなに長い時間がかかってしまったのだけど、許して。わたしは愚鈍で、こういうのに気づくのがとても遅いのよ。奥さまとコンスタンスに気づかれないように助けてくれたの、知ってるわ」

 クレアが徐々に瞠目する。ハッとしたその顔は、今までの秘密をばらされた子どものようだった。

「愚かにもわたしは自分勝手な理由で、あなたの誠意を無視していた」

 その目が、揺れている。彼の動揺が、彼の目の中から覗かれた。

「気づいていたの。思えば三年前に嘘の告白を言わされた時も、あなたを酷いやり方で拒んでしまった時も、わたしがコンスタンスとその男友達に襲われかけた時も、灰かぶりになった時も、掃除をしていて転ばされた時も、食事を抜かれた時も……あとは何かしら。あまりにも多すぎて挙げきれないけれど。本当にあなたは陰からわたしを救ってくれた」

「アネット、俺は……」

「クレア」

 あのね、こんなに胸がいっぱいになって何も考えられなくなるのは初めてなの。

 これはあなたに言えないけれど。

「わたしはもう十分に、それ以上に恵まれているの。だからもう気に病まなくていいのよ。わたしのために、あなたが享けるべき恵沢を拒まないで。爵位はこの国では男子のものだから、どうせどうにもならなかったけど……財産はわたしのために割こうとしてくれたのよね? でも、それは要らないわ。それはもうあなたのものよ。あなたの好きに使って」

 そして、アネットはクレアに花が綻ぶような笑みを向けた。

 クレアはますます瞠目する。心なしか耳が赤くなっているような気がする。

「………………解った」

 随分と長い沈黙の後、彼はポツリとそう答えた。アネットは鷹揚に頷く。

「この話はもう終わり?」

「いや、もう一つ。これに繋がる形ではあるけど」

 クレアは視線を若干逸らした。

「先程も言ったが、母はもう俺が何をしようと干渉できない。今の俺は法的に公認された成年だし、これでも歴とした家長だから」

 彼は少しだけ悪戯っぽく笑った。

「無論、コンスタンスははなから相手にならない」

「ふふ。何を言いたいの?」

 アネットもつられて思わず笑ってしまった。

 彼は珍しく緊張でもしているのか、深呼吸を一つした。


「アネット。お前さえ許してくれるなら、初めからやり直したい」

「初めから、やり直したい?」



 君と初めて会った日。

 その日をここへ。




ご覧くださり、ありがとうございました。

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