第一話 ボーカル、バンドやめるってよ
最初に帰ると言ったのはヒロキだった。
「もう今日いいんじゃない?」
ドラムの向こうで、ヒロキがスティックを膝に置く。
「まだ一時間ある」
俺が言うと、ヒロキは壁の時計を見た。
「一時間もある」
「意味変えるなよ」
誰も笑わなかった。
スタジオの空気が最悪だったからだ。
「だから、あそこで入るのやめてって言ったでしょ」
シズクがベースを抱えたままレンを見る。
「分かってるって」
「分かってないから毎回やるんじゃん」
「毎回じゃねえよ」
「今日二回目」
「数えてんの?」
「数えるでしょ」
また始まった。
最近は、だいたいこうなる。
「とりあえず一回通そう」
俺は言った。
二人ともこっちを見ない。
「次のライブ近いし」
「俺はできるよ」
レンがマイクを持ち直す。
「シズクが止めなきゃ」
「は?」
「レン」
「何」
「余計なこと言うなって」
俺が言うと、レンは肩をすくめた。
シズクは何も言わずにシールドを抜いた。
「帰る」
「シズク」
「無理」
ケースにベースをしまう。
「今やってもちゃんと弾けない」
「次のスタジオいつ取れるか分かんないぞ」
「知らない」
ドアが閉まる。
ヒロキが立ち上がった。
「じゃあ俺も帰る」
「待てよ」
「三人でやる?」
「……」
「やらないでしょ」
正しい。
腹が立つくらい正しい。
「おつかれ」
ヒロキも出ていった。
残ったのは俺とレンだった。
「……何なんだよ」
俺が言う。
「俺に言うなよ」
「お前ら二人の問題だろ」
「もう別れてんだけど」
「別れたなら普通にしろよ」
「してる」
「どこが」
レンはマイクをスタンドに戻した。
「アキさ」
「何」
「無理に続けなくてもよくない?」
一瞬、意味が分からなかった。
「何が」
「バンド」
「……は?」
「いや、今すぐ解散とかじゃなくて」
「じゃあ言うなよ」
「でもこのままもきついだろ」
「だから直せばいいじゃん」
「そういうとこだよな」
「何が」
「アキって、ずっと同じでいようとするよな」
意味が分からない。
バンドなんだから。
四人で始めたんだから。
四人で続ければいい。
それの何がおかしい。
◇
雨音クラブは、俺が作った。
高校を卒業して少し経った頃。
曲はあった。
ギターも弾けた。
でも歌うやつがいなかった。
ライブハウスで見かけたレンに声をかけた。
顔がよくて、声が目立って、人前に立つのがうまかった。
シズクはレンが連れてきた。
ヒロキは俺の知り合いだった。
最初から何か大きな目標があったわけじゃない。
四人で音を出したら。
思ったよりよかった。
それだけだった。
最初のライブは客が十人もいなかった。
終電近くの地下鉄に、四人で機材を抱えて乗った。
初めて知らない客が俺たちの曲を口ずさんでくれた日は、帰り道でコンビニの缶コーヒーを四本買った。
そういうのを。
俺は全部、まだ覚えている。
思い出にしたいわけじゃない。
まだ続いているんだから。
だから。
終わらせる理由が分からなかった。
◇
スタジオを出たあと。
真っすぐ帰る気になれなかった。
適当に歩いているうちに、小さな神社の前に出た。
「……こんなのあったっけ」
住宅街の中。
鳥居も小さい。
境内に人はいない。
何となく入った。
別に信心深くはない。
困った時だけ神頼みするタイプでもない。
たぶん。
でもその日は。
何でもいいから、何かに頼りたかった。
財布から百円を出す。
賽銭箱へ投げた。
その時。
「あ」
ポケットに入れていた菓子まで落ちた。
個包装の、小さいやつ。
百円と一緒に。
「うわ」
覗く。
取れない。
「……まあいいか」
手を合わせる。
レンとシズクのこと。
次のライブのこと。
さっきのレンの言葉。
いろいろ浮かんだ。
でも。
結局。
「解散しませんように」
それだけだった。
「頼むから。マジで」
少し考えて。
賽銭箱を見る。
「菓子もやるから」
誰に言っているのか分からないまま、神社を出た。
◇
翌朝。
スマホの通知で目が覚めた。
雨音クラブのグループチャット。
レン。
『俺、バンドやめるわ』
「……は?」
何度読んでも同じだった。
「何なんだよ」
昨日。
百円入れた。
菓子までやった。
「全然叶ってねえじゃん」
「まだ一日しか経っておらんぞ」
知らない声がした。
「……え?」
部屋の中。
ベッドの横。
女の子が立っていた。
白っぽい長い髪。
見たことのない服。
見たことのない顔。
俺と同じくらいか、少し下に見える。
「誰」
「昨日の菓子、もうないのか?」
「は?」
「赤い袋のやつじゃ」
「いや待て。誰」
女は少し考えた。
「ミョン」
「……ミョン?」
妙な名前だな、と思った。
その時は。
まだ。
その名前がどういう意味なのかなんて、知るはずもなかった。




