第二章 「おかえりの灯り」
午前九時。
開店と同時に、店内へ次々とお客様が入ってくる。
「いらっしゃいませ。」
遥は穏やかな笑顔で頭を下げた。
大型書店の文芸書コーナー。
新刊の平台には朝一番で届いた小説が並び、平日の午前中にもかかわらず、多くのお客様が足を止めていた。
「上乃園さん、この新刊、追加お願いできる?」
店長の声に、遥はすぐ頷く。
「はい。」
台車へ段ボールを載せ、本を丁寧に棚へ並べていく。
一冊一冊、背表紙がきれいに揃うように。
少しでも手に取りやすいように。
そんな小さな気配りが、遥は好きだった。
◇
「すみません。」
年配の女性が声を掛ける。
「優しい気持ちになれる小説を探しているんですが……。」
遥は少し考え、棚から一冊の本を取り出した。
「こちらはいかがでしょうか。」
「読後感がとても温かい作品です。」
女性は本を受け取り、表紙を見つめる。
「ありがとう。」
「読んでみます。」
その笑顔を見送りながら、遥も自然と笑みを浮かべた。
(本を届ける仕事って、やっぱり好き。)
◇
一方、その頃。
「こんにちは!」
駅前の雑貨店では、葵が元気よくお客様を迎えていた。
「この風鈴、涼しそうね。」
「ありがとうございます。」
「今、一番人気なんですよ。」
店内には夏らしい雑貨が並び、ガラス細工が光を受けてきらきらと輝いている。
「神原さん、このディスプレイすごくいいね。」
店長が感心したように言う。
「本当ですか?」
「お客様も立ち止まって見てくれてるよ。」
葵は少し照れながら笑った。
「ありがとうございます!」
その笑顔に、お客様までつられて笑顔になる。
そんな明るさが、葵らしかった。
◇
午後六時。
先に仕事を終えた遥は、帰り道にスーパーへ立ち寄る。
「今日は何にしようかな。」
野菜売り場を見ながら考える。
(昨日、お肉だったから今日は魚かな。)
かごへ鮭を入れ、豆腐と味噌、それから葵が好きなプリンを二つ。
「これ見たら喜ぶかな。」
そんなことを考えながら歩く時間も、遥は好きだった。
◇
マンションへ戻る。
玄関の鍵を開けると、静かな部屋が迎えてくれた。
「ただいま。」
返事はまだない。
時計を見る。
「あと三十分くらいかな。」
エプロンを身につけると、手際よく夕飯の準備を始めた。
炊飯器のスイッチを入れ、味噌汁を火にかける。
鮭を焼く香ばしい匂いが、部屋いっぱいに広がっていく。
◇
午後七時過ぎ。
玄関の鍵が回る音がした。
「ただいまー。」
少し疲れた、それでも明るい声。
遥はキッチンから顔を出した。
「おかえり。」
その一言だけで、葵の表情がふっと柔らかくなる。
葵は靴を脱ぎながら、少しだけいたずらっぽく笑った。
「ねえ、今日も頑張ったご褒美、もらっていい?」
遥は一瞬きょとんとしたあと、すぐに意味を理解して、ほんのり頬を染める。
「……いいよ。」
葵は一歩近づき、そっと遥の頬に手を添えた。
そして、軽く唇を重ねる。
ほんの一瞬の、優しいキス。
離れたあと、葵は満足そうに笑った。
「これで元気出た。」
遥は照れながらも、小さく笑う。
「……お疲れさま。」
「今日もお疲れさま。」
バッグを置いた葵は、エプロン姿の遥を見て微笑んだ。
「今日は鮭?」
「正解。」
「匂いで分かった。」
二人は顔を見合わせて笑う。
◇
夕飯を食べながら、お互いの一日を話す。
「今日ね。」
葵が味噌汁を飲みながら話し始める。
「小さい子が風鈴を見て、『夏の音がする!』って言ったの。」
「かわいい。」
「すごく癒やされた。」
今度は遥が話す。
「私、お客様に本をおすすめしたらね。」
「『読んでみます』って言ってもらえた。」
「遥らしい。」
葵は嬉しそうに笑う。
「絶対、その人もいい本に出会えたよ。」
その言葉に、遥も少し照れながら笑った。
◇
食後。
ソファへ並んで座り、テレビでは旅番組が流れている。
窓の外では夜風がカーテンを揺らしていた。
しばらくして、葵がごろんと横になり、自然な動きで遥の膝に頭を乗せる。
「ちょっとだけ、このままでいい?」
遥は少し驚きながらも、優しく頷いた。
「……うん。」
葵は安心したように目を細める。
遥はそっと髪を撫でる。
指先に触れる柔らかな感触と、穏やかな呼吸。
それだけで、胸の奥がじんわりと温かくなる。
「こうしてるとさ。」
葵が小さく呟く。
「すごく落ち着く。」
「……私も。」
静かな時間が、ゆっくりと流れていく。
◇
「そういえば。」
葵が思い出したように言う。
「今度の日曜日、二人とも休みだったよね。」
「うん。」
「どこか行く?」
遥は少し考える。
「……本屋巡り。」
「それ、仕事の日もしてるでしょ。」
「じゃあ。」
少し笑って続けた。
「雑貨屋巡り。」
「それも私の仕事。」
二人は思わず吹き出した。
「じゃあ、お互い仕事を忘れて遊ぼう。」
「賛成。」
そんな他愛ない約束が、また一つ増える。
◇
夜十時。
食器を洗い終え、部屋の灯りを少し落とす。
明日も仕事。
早く眠らなければならない。
それでも、こうして一日の終わりを一緒に過ごせる時間が、何より心地よかった。
「今日も一日、お疲れさま。」
葵が穏やかに言う。
遥は小さく頷き、優しく笑う。
「うん。」
「明日も頑張ろう。」
◇
寝室。
二人は同じベッドに並んで横になる。
電気を消すと、部屋は静かな暗闇に包まれた。
けれど、その中で、互いの気配だけははっきりと感じられる。
葵がそっと近づき、遥の腕に自分の腕を絡める。
「ねえ。」
「ん?」
「もうちょっと、近くてもいい?」
遥は少しだけ息を呑み、それから小さく頷いた。
「……いいよ。」
葵は嬉しそうに笑い、さらに距離を詰める。
肩が触れ、体温が重なる。
そのまま、額を軽く寄せる。
くすぐったいような、でも離れたくない距離。
葵はいたずらっぽく、もう一度だけ唇を重ねた。
今度は少しだけ長く。
離れたあとも、互いの呼吸が近くにある。
「おやすみ。」
「……おやすみ。」
そのまま、自然と抱き寄せ合うようにして目を閉じる。
忙しい毎日。
変わらない日常。
それでも、その日常は二人で過ごすからこそ、かけがえのない宝物だった。
(第三章へ続く)




