第一章 「いつもの朝」
カーテンの隙間から、柔らかな朝日が差し込む。
窓を少し開けると、初夏の風が白いレースカーテンを静かに揺らした。
目覚まし時計が鳴る三分前。
神原葵はゆっくりと目を開けた。
隣を見る。
まだ眠っている遥が、小さく布団を抱き寄せながら穏やかな寝息を立てていた。
「……まだ寝てる。」
思わず笑みがこぼれる。
同棲を始めて半年。
朝が弱い遥と、少し早起きな自分。
それが二人の生活リズムになっていた。
葵は遥を起こさないように静かにベッドを降り、キッチンへ向かう。
◇
トースターの小さな音が鳴る。
コーヒーの香りが部屋に広がり、フライパンではベーコンが香ばしく焼けていた。
冷蔵庫から卵を取り出し、手際よくスクランブルエッグを作る。
「今日は……。」
冷蔵庫の野菜室をのぞく。
「サラダも作ろうかな。」
包丁の音が、小さなリビングに心地よく響いた。
その頃。
寝室から眠そうな声が聞こえてくる。
「……あおい。」
「おはよう。」
葵は振り返って笑った。
「おはよう、遥。」
寝癖のついた髪をそのままに、遥は目をこすりながらリビングへやって来る。
まだ完全には目が覚めていないらしく、ふらふらと歩き、そのまま葵の隣へ立った。
「まだ眠い?」
「……少し。」
「顔洗っておいで。」
「うん……。」
返事はしたものの、遥はその場を動かない。
「遥?」
「……あと一分。」
眠そうな顔のまま、葵の肩へそっと寄りかかる。
そのまま、ぎゅっと腕にしがみついた。
「……あおい、あったかい。」
「もう、寝ぼけてるでしょ。」
「……んー……もうちょっとだけ。」
頬をすり寄せるようにして、甘えるように体重を預けてくる。
普段はしっかりしている遥の、朝だけの無防備な姿。
葵は少しだけ驚きながらも、優しく頭を撫でた。
「ほんとにあと一分だけね。」
「……うん。」
小さく返事をして、遥は目を閉じる。
そのまま静かに呼吸を整えながら、葵に寄り添っていた。
「今日は仕事じゃなかったら、そのまま寝かせてあげるんだけど。」
「……休みたい。」
「だめ。」
「ですよね。」
少しだけ名残惜しそうに体を離し、遥はふにゃっと笑った。
二人は顔を見合わせて笑った。
◇
朝食を囲む時間も、二人にとって大切な習慣だった。
「いただきます。」
食器が軽く触れ合う音。
テレビでは朝のニュースが流れている。
「今日は新刊の入荷が多いんだ。」
遥がコーヒーを飲みながら言う。
「だから朝から棚替え。」
「忙しそうだね。」
「うん。でも楽しみ。」
本の話をする時の遥は、高校生の頃と変わらない。
自然と笑顔になり、少しだけ早口になる。
そんな姿を見るたびに、葵は嬉しくなった。
「葵は?」
「今日は夏物コーナーを少し変える予定。」
「店長さん、また任せてくれたの?」
「そう。」
「七月になるから、ガラスの風鈴とか涼しそうな雑貨を前に出そうと思って。」
「絶対いい。」
遥は嬉しそうに頷く。
「見に行きたいな。」
「仕事帰りに寄ってよ。」
「うん。」
そんな何気ない約束が、自然と交わされる。
◇
朝食を終えると、遥は食器を流しへ運んだ。
「今日は私が洗う。」
「じゃあ私は洗濯物干してくるね。」
言葉にしなくても役割が決まっている。
同棲を始めた頃は、
「どっちがやる?」
「私やるよ。」
そんなやり取りを毎日のようにしていた。
今では、自然と体が動く。
それが少しだけ嬉しかった。
◇
身支度を終え、玄関へ向かう。
仕事用のバッグを肩に掛けると、遥がふと立ち止まった。
「ん?」
「どうしたの?」
「……忘れ物ないかなって。」
葵は少し笑いながら、玄関の棚を指さした。
「社員証。」
「あ。」
遥は照れくさそうに笑って社員証を首へ掛ける。
「助かった。」
「半年経ってもそこは変わらないね。」
「……否定できない。」
二人で笑い合う。
靴を履き終えたところで、遥が少しだけ躊躇うように葵を見た。
「……あの。」
「ん?」
葵が首を傾げると、遥は一歩近づいてきた。
「いってきますの……その。」
言い切る前に、葵はくすっと笑って、そっと遥の頬に手を添える。
「はい、どうぞ。」
軽く背伸びをして、唇を重ねた。
ほんの一瞬の、やわらかなキス。
離れたあと、遥は少しだけ照れたように笑う。
「……これで頑張れる。」
「単純。」
「いいの。」
葵も笑って頷いた。
◇
マンションのエントランスを出ると、朝の空気が頬を撫でた。
駅までは徒歩十分。
途中までは同じ道だ。
高校時代は制服姿で歩いた道とは違う。
今は仕事用の服に身を包み、それぞれの職場へ向かっている。
信号待ちで並んで立つ。
ふと遥が空を見上げた。
「今日、いい天気だね。」
「洗濯物もちゃんと乾きそう。」
「帰ったら取り込まないと。」
「今日は私が早いからやっておくよ。」
「ありがとう。」
その一言が、自然に出てくる。
それだけで十分だった。
◇
駅前で道が分かれる。
右へ行けば書店。
左へ行けば雑貨店。
毎朝繰り返す、小さな分かれ道。
「じゃあ。」
葵が笑う。
「今日も一日、頑張ろう。」
「うん。」
遥も笑顔で頷く。
「行ってきます。」
「行ってらっしゃい。」
二人はそれぞれの道を歩き始める。
数歩進んだところで、遥が振り返った。
葵も同じように振り返る。
目が合うと、どちらからともなく手を振った。
高校生の頃から変わらない、小さな習慣。
それだけで、不思議と一日頑張れる気がする。
仕事は忙しい。
疲れる日もある。
思うようにいかない日だってある。
それでも帰る場所には、「おかえり」と迎えてくれる人がいる。
その当たり前が、二人にとって何より大切な幸せだった。
(第二章へ続く)




