ほんとうは
シァルの白い寝衣が、春の夜風に、しどけなくひるがえる。
月のひかりに輝く肌に息をのんだセィムは、あわてて目をふせた。
「待たせて、すまない」
髪からしたたる雫をはらいながら謝るセィムから、シァルが目をそらす。
シァルの耳が、ほんのり朱い。
「いや、急かしたようで、すまなかったね」
微笑んだシァルが、浴室から出たばかりのセィムの手をひいた。
開け放たれた窓から吹きこむ風が、シァルの寝台の白い天蓋を舞いあげる。
「話があるんだ」
重く、硬い声に、セィムは背を正した。
「はい」
とても言いにくそうに、シァルの空の瞳が、さまよった。
「……セィムにとっては衝撃かもしれないが……聞いてほしい」
「はい」
セィムは、顔をあげる。
『国務院で万年窓口業務しかできない理由がよくわかった』
『こんなにつまらない人だと思わなかった』
『もう飽きた』
『役立たず』
吐き捨てるようにシァルが言うさまを想像するだけで、胃が裂けたように軋んだ。
それでもセィムは顔をあげる。
──どんな言葉を投げつけられても、受けとめよう。
シァルならやさしい言葉を使ってくれそうな気もしたが、最後に甘えてはならないと真っすぐシァルを見あげる。
「聞かせて」
ためらうように、シァルは目を伏せた。
形のよい唇が、しずかに開かれる。
「…………俺、は…………」
『もう別れたい』
『お終いにしたい』
やさしいシァルは、言えないのだろうか。
自分をえぐることになるとわかっているのに、セィムは穴が開いているだろう胃の悲鳴を聞きながら、両の口角を15度、やわらかにあげる。
シァルがほめてくれた穏やかな微笑みで、ささやいた。
「だいじょうぶだから。聞かせて、シァル」
ぎゅっと強く目を閉じたシァルが、セィムの手をにぎる。
いつも自信にあふれる指が、ふるえてる。
「……俺、は……抱かれ……たい……んだ」
………え……?
ぽかんとしたセィムに、シァルの空の瞳が泣きだしそうに揺れる。
「セィムも俺を強いとか、頼りがいがあるとか、もしかしたら思ってくれたのかもしれない。……でも俺は、国務院の窓口で微笑んでくれるセィムを見たとき、思ったんだ。こんな風にやさしく笑って、あまやかしてもらえたら……抱いてくれたら、どんなにしあわせだろうって。……だから……」
ふるえた声が、消えてゆく。
「…………きもち、わる、い……?」
絞りだすように紡がれた声に、叫んでいた。
「そんなわけないだろう──!」
びっくりしたように目を見開くシァルを、セィムも茫然と見つめてしまう。
「……別れたい、んじゃ、ない、の……?」
おそるおそる絞りだした、ほんとうは絶対に口にしたくなかった問いに、シァルは目をむいた。
「まさか、そんなどうして──!」
悲鳴だった。
びっくりしたセィムも、泣きそうだ。
「いやだって、話があるっていうから……」
真っ赤なシァルが叫ぶ。
「性癖の話だ──!」
………たしかに。
びっくりしすぎて泣きそうになってしまった目をぬぐったセィムは、熱い頬で、そうっと唇を開いた。
「あ、あの、シァルは、俺に、してほしい?」
耳まで真っ赤になったシァルが、はずかしそうに赤い耳で、こくりとうなずく。
「……きもち、わるい……?」
空の瞳が、頼りなげに揺れる。
「そんなわけないだろう!それ二度と言ったらだめだから!」
シァルに声を荒げたのは、はじめてだ。
びくりとふるえたシァルが、セィムを茫然と見つめる。
「で、でも──」
まだ『きもちわるい』言いそうなシァルに、セィムは息をのむ。
──……あぁ、おなじだ。
シァルが『どうしてそんなに卑下する?』眉をしかめたわけが、わかった気がした。
セィムは16年、新人が担当する窓口業務を続けた。
カィザ選王立学院という、カィザ選王国で最高の学府を卒業しておきながら、誰でもできる業務しかさせてもらえなかったことは、セィムの自信を、自負を、叩き潰した。
すべてが、灰に落ちるほど。
評価されることが、信じられない。
シァルが隣で賛辞されているのを聞くと、よけいに自分が潰れてゆく気がした。
──自分には、何もできない。
それはセィムの首を、ひそやかに、けれど確実に、締め続けた。
生きることが、灰に染まるほど。
シァルも、もしかしたら、同じなのかもしれない。
誰からも崇拝され、頼りにされ、力強さを求められる。
どれだけ多くの人に『抱いてほしい』言われてきたのだろう。
ほんとうは『抱いてほしい』『あまえたい』シァルは、そのたび、ずっと、ずっと、叩き潰されてきたんだ。
ほんとうの自分を『きもちわるい』思い決めてしまうほどに。
誰にも、自分のほんとうを告げられず、ほんとうの願いを押しこめて。
生きてゆくことが、灰に染まるほどに。
救国の英傑と、16年窓口業務のセィムが、同じだなんて、ありえないと思っていたけれど。
でも、きっと、同じだ。
セィムは、自分に価値があることを、信じられない。
シァルは、『抱いてほしい』自分が、愛されることを、信じられない。
涙が、あふれた。
「せ、セィム……?やっぱり、きもちわる──」
シァルの言葉を遮るように、セィムは叫んでいた。
「言ったら、二度と、ちゅうしてあげない!」
見開かれた空の瞳が、揺れる。
ぐ、と詰まったシァルは、もごもご、うなずいた。
「……わ、わかった」
うなずくシァルの耳が赤い。
──シァルは、俺に、ちゅうされたいんだ。
俺に、抱かれたいと思ってくれるんだ。
思った瞬間、発火した。




