さあ
「終業まで待ってるね、セィム」
シァルの指が、セィムの手に、そっと重なった。
ほんのすこし、ふれてくれる。
それだけなのに、こんなにも鼓動が跳ねて、瞳はうるんだ。
吐息まで、熱くなる。
『捨てないで』
すがりたくなる唇を、噛みしめる。
「待たせて、ごめんね」
『別れたくなくて、ごめんね』
言えないから、そっと、シァルの指をにぎる。
……まだ、ゆるされるだろうか。
おそるおそる見あげるシァルの空の瞳が、透きとおる。
「待ってる」
やさしく手を握りかえしてくれたシァルが、微笑んだ。
髪と目の色を変えて目立たなくするという魔道具眼鏡を装着したシァルと一緒に、セィムは夕暮れの選王都を歩く。
昼の熱を失くした風が吹きぬけて、闇色に変わったシァルの髪を揺らした。
すれ違う人たちが、振りかえる。
「わあ、かっこいーね!」
「すごい」
ささやかれる言葉は、いつだってシァルへの賛辞だ。
誰もがシァルに息をのみ、うっとり見惚れ、振りかえって見送る。
隣を歩くセィムに、刺すような視線が降りそそぐ。
わかっている。
今までが、夢まぼろしだった。
痛いほど、わかっている。
幾度も、幾度も言い聞かせるのに──……息が、できない。
涙があふれそうで、セィムは鼻をすすった。
「寒い?はやく帰ろう」
『はやく別れよう』に聞こえた。
穿孔の開いた気がする激痛の胃で、セィムは両の口角を15度、やわらかにあげる。
あなたに告げる返事は、いつだって
「はい」
冬が戻ってきたかのような冷たい夜だった。
闇につつまれた邸に、魔道具の明かりが燈る。
「話を、聞く」
死刑宣告を粛々と受けるように告げたセィムに、シァルは瞳をそらした。
「……ああ、うん。ご飯を食べて、入浴を終えてからにしよう。手伝うよ」
──今すぐ、別れなくていい。
まだもう少しだけ、シァルの傍にいられる。
もう一度、自分がつくったご飯を、シァルが食べてくれる。
張りつめた緊張がほどけて、崩れ落ちそうになる膝に力をこめた。
泣きたいくらいうれしくて、嗚咽がこぼれないよう、セィムは唇を噛む。
「セィムのご飯が、いちばんおいしい」
シァルが笑ってくれる。
それだけで、天上へとのぼる気がするのに、もう、お別れだ。
食事の用意を手伝ってくれることも、一緒にご飯を食べることも、シァルの使ったあとの浴室を使わせてもらうことも、何もかもがきっと、最後だ。
あたたかい湯気に包まれた湯船で、セィムは泣いた。
涙は後から後からきりもなく流れ落ちて、どれだけシァルを慕っていたのかを知る。
あたりまえだ。
救国の英傑だ。
……いや、ちがう。
手を繋いで、はにかむように笑ってくれるシァルが、剣さばきは見えぬほどなのに、おぼつかない手つきで包丁をにぎるシァルの眉間のしわが、セィムにあわせて縮めてくれる歩幅が、頬にふれた、とろけそうにやわらかな唇が……あぁ、そうだ、見せてくれたシァルのすべてが、こんなにも、いとおしい。
「セィム?だいじょうぶか?」
心配そうなシァルの声が扉越しに聞こえて、湯船に沈みそうだったセィムは派手な水音をたてて立ちあがった。
「だ、大丈夫だ!もう出る」
涙をかき消すように頭から水をかぶる。
顔をぬぐったセィムは、頬を叩いた。
──さあ、聞こう。
どんなひどい言葉も、受け容れよう。
その衝撃も、悲痛も、なにもかもシァルがくれるなら
きっと、いつか、よろこびに変わるから。




