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女性は一人きりになった寝室の暖炉の前にいた。
鍵をかけた文机の中から、一冊の黒い革張りの手帳を取り出す。
それは、日記だった。
酷く小さな、しかし丁寧な字で書いてある。
*
――主よ。
今日もまた、私は試されています。
夫に離縁を願い出ることすら、恐ろしくてなりません。
もし私が去ろうとすれば、夫は私の両親にまで手を伸ばすでしょう。
彼はそういう方なのです。
笑顔で祈りを捧げながら、人を脅すことを躊躇わない。
化粧をすることは許されません。
可愛らしい服を着ることも禁じられています。
紙とペンさえも持たせてもらえず、
買い物に出れば浮気を疑われ、夜通し責められます。
私の持ち物はもうこの日記帳くらいです。
これが夫に見つかれば私はきっと信じられないようなことをされるかもしれません。
私は聖女でも殉教者でもありません。
ただ、静かに生きたいだけなのに。
どうすればよいのでしょう。
誰か、私を導いてください。
この牢獄から、どうか解放してください。
主よ。
私の心が、罪深い願いに染まりませんように。
けれど、もしあなたが憐れみをお与えくださるなら、
どうか、この試練に終わりを与えてください。
私はもう、限界です。
*
――主よ。
今日も夫のために食卓を整えました。
夫は肉料理を好みます。
塩気の強い汁物と、脂身を殊のほか愛します。
ですから私は、
安価で脂の多い肉を選び、練り固めて団子にし、
燻製の香りの強い腸詰や、塩漬けの薄切り肉、
保存の効く加工肉をたくさん買い込みました。
戸棚には、甘い菓子や酒を山のように積み、
冷蔵室には冷たい果実水と砂糖水を絶やしません。
彼は食卓に座っているだけでいいのです。
何かしたがっても、疲れていらっしゃるからと止めています。
身体に負担をかけてはいけませんもの。
私は妻です。
夫を労わり、望むものを与えるのが務め。
だから、うんと甘やかして差し上げるのです。
誰よりも、神に愛されるように。
早く、あの人が神に『愛されて』下さるように。
*
――主よ。
今日も帳簿の数字が、酷く重く感じられました。
夫は、孤児院の金を私に扱わせています。
そして、その一部を密かに抜き取らせています。
そんなお金でする贅沢の何が嬉しいでしょう。
けれど、どこかに告げ口することはできません。
「外で口を滑らせたら、どうなるか分かっているな」
そう言われました。
「お前の親も兄弟も、無事では済まない」
彼は笑って言いました。
「お前は俺のものだ。死ぬまで可愛がってやる」
「孤児院のひとつやふたつ、潰れても構わない」
「どうせ死んでも惜しくない命だろう」
「お前の言うことなど誰が信じるか」
「たいして可愛くも無いお前をもらう男などいない」
その言葉を、私は祈りのように聞いていました。
怒鳴る声に逆らうと、さらに長い説教が続くのです。
私は彼を許せません。
けれど、私は信徒です。
『汝、殺すなかれ』
戒めを、破ることはできません。
だから今日も祈ります。
ただ祈ります。
主よ、どうか。
あなたの御心のままに。
ただ――
この試練が、永遠でありませんように。
そう願うことさえも罪でしょうか?
*
――主よ。
今日もまた、私はあなたの沈黙に耳を澄ませています。
夫の怒りは雷のようです。
何か気に障ると、私の身体にその雷が落ちます。
叩かれ、蹴られ、床に跪くことを許されません。
夜は、祈りの時間ではありません。
夫は「妻の務めだ」と言います。
私の拒絶を罪と呼びます。
嵐がやってくる中、私は祈ります。
聖典を握りしめ、声を殺して祈ります。
主よ、見ておられるのでしょうか。
子が授からぬのは、私の罪だと責められます。
私は密かに薬を飲み、身体を閉ざしています。
この地獄に、新しい命を呼ぶことなどできません。
生きるか、終わらせるか。
その二つの道しか見えません。
けれど、戒めが私の喉を締め付けます。
汝、殺すなかれ。
殺してはいけない。
逃げてもいけない。
主よ、どうすればよいのでしょう。
私は恐ろしいのです。
あなたの前に跪いても、震えが止まりません。
どうか、この夜に、終わりを与えてください。
*
――主よ。
あなたは、私の声をお聞き届けくださったのですね。
感謝いたします。
夫の残した財は、借金を返してなお余りがあります。
孤児院の屋根も、子らの冬衣も、すべて整えられるでしょう。
これで、あの子たちを寒さと飢えから守れます。
ありがとうございます。
本当に、ありがとうございます。
これは裁きなのでしょうか。
それとも、私への憐れみなのでしょうか。
主よ。
あなたはすべてをご存じです。
私の祈りも、沈黙も、夜の恐怖も、痛みも、悲しみも、絶望も。
私はこれからも祈り続けます。
あなたのいつまでも共にあります。
あなたを心から愛しています。
いつまでも、御心のままに。
*
女は日記帳を閉じてじっと表紙を見ていたが、やがて暖炉の炎がもえさかると、静かにそれを炭の上に投げ入れた。
紙はパチパチと燃えながら、あたたかな空気となって寝室を満たしていった。
END




