動機なし 1
その日、ローラが席に着いてほどなく、隣に一人の青年が腰を下ろした。
灰色がかった金髪に、端正な横顔。貴族というよりは軍人か官吏のような、無駄のない気配を纏っている。腕にかけた外套も美しい仕立てで一級品だ。
しかし、男の眼差しは明確に疲れ切っていた。目の下にはくまがあり、薄く皺のついた首を隠すシャツの襟は少しよれて、指先もささくれている。足を肩幅に開いて座り、手を膝の上に置き、ぼうっとステージの横の階段を見ていた。
開演まで、まだ少し時間がある。
ローラは扇子を閉じ、青年に視線を向けた。
「初めての演目ですか?」
青年は驚いたように瞬きをし、それから小さく笑った。
「ええ。気晴らしが必要だと上司に勧められて……正直、芝居を見る余裕があるとは思えなかったのですが」
低く落ち着いた声だった。
ローラはゆったりとして尋ねた。
「余裕がない、というのは、お仕事で?」
「まあ、そんなようなところで」
「警官はさぞ気苦労も多いことでしょうね」
男はギクッとしてローラを見た。
「何故、私が警官だと?」
「たやすいことですわ」
ローラは紫のドレスの裾を整えながら、柔らかく返事をした。
「その首と手についた跡。襟元の階級章を外されたときについた革の跡ですね。指先のささくれは、制服の手袋を外すときにひかかるのでしょう。手の甲は荒れていないのに、指先ばかりがささくれています。手は労働者風なのに、外套は一流なのも、貴族ではありません。それに背筋が真っ直ぐすぎますね」
「これは驚きました」
男は居住まいを正して、ローラを見据えた。
「しかし、それなりの躾がされている人間は、誰しも姿勢は良いと思うのですが」
「ええ。ですが、貴方のように規律的に手を膝に置きはしませんわ。定規ではかったかのように真っ直ぐ。そのような姿勢は遊興ではなく、訓練をしてきた者の身体ですわね。それに貴方はステージではなく、階段をみていらしたわ。出入り口を確認する癖は抜けないのですね」
青年はしばらく逡巡し、それからぽつりとこぼした。
「まるで探偵ですね。貴方は何者です?」
「あら。ただのレディですわ。それに紳士ならば、ご自分から名乗るのは筋ではなくて?」
「いや、これは失礼しました。僕はエドガー・クロイツェストと申します。下級貴族の血筋で、おっしゃるとおり警察の人間です。たまたま人がいなかったというのと、貴族出身というのが重なって、若輩者ではありますが警部をしております」
「まあ。素晴らしいことですわね。私は……菫の妖精です」
「は?」
「真顔でおっしゃるなんて酷いですね」
「あ、ああ、これは失礼」
「いろいろ事情があるんですの。菫の妖精の噂はお聞きになっていないのですか?」
ローラはこの不躾な警官に、カステージア劇場の伝説をかいつまんで教えてやった。
それで、エドガーは自分が幸運を掴んだということがようやく分かったようだった。
「いや。それは……神の導きでしょうか」
ローラはそれほど熱心な宗教家ではないので、にっこり微笑んでいた。
特に何かに傾倒しているわけではない。どちらかというと、東の遠い国にあるというゼーンとかいう思想は好きだ。掃除や洗濯をしっかりやると心が整うという非常に実務的な思想で、ローラはわりと気に入っている。
クロイツェスト警部は金髪を掻き上げて、ため息をついた。
「実は知人が……いや、私の部下が亡くなりました。密室に近い状況で」
「まあ」
「彼の妻は無事でした。争った形跡もなく、動機もまるで分からない。窓の鍵も開いていなかった。現場は寝室でしたが、ベッドサイドにもドアの近くにも何も無かった。引き出しを荒らされたような形跡も何一つ無かったのです」
ローラは微笑みを崩さなかった。
この劇場で、彼女の隣に座った者は、なぜか心の内を語ってしまう。
警官さえ、その限りではなかった。
「物取りではないのですね」
と、ローラは念を押した。
「ええ。金も宝石もそのままでした。男女関係も調べましたが、特に浮気や恨みも出てこなかった。そもそも部下はそうとうな愛妻家でしたから、そんな心配もありませんよ」
青年は拳を握りしめた。
「奥方は敬虔な女性で、夫を深く愛していたと……皆が言うんです。聖書を心の支えにするような、華奢でか弱い人だと」
ローラは静かに頷いた。
「状況的に、その奥方が犯人だということは?」
「まさか! 部下は猛犬でも片手で払いのけるような、恰幅のよい男でした。あんなに華奢な奥方なんて、左手でだって押さえつけられますよ。虫一匹殺せないような奥方です。ただ、奥方だけが現場にいました。それだけなのです。奥方は窓から知らないうちに暴漢が侵入したのではないかと主張していますが、足跡も証拠もない。まるで幽霊のようです。前屈みになっていた姿勢から見るに、おそらく心筋梗塞でしょう……ですが、一つだけ、ひかかる点があるんです」
青年は視線を落とし、声をひそめた。
「奥方は祈っていたんですよ」
「祈り?」
「ええ。奥方は部下のことを誰よりも思っていました。敬虔で、従順で、献身的で。部下の好きな酒や、料理をいつもふんだんに用意して帰りを待っていました。知らせを聞いて私が駆けつけたときも、亡くなった部下の隣で指を組み祈っておりました。『汝、殺すなかれ』と、噛みしめるようにね」
それは聖典の一節だった。
「汝、殺すなかれ……」
ローラはしばし瞳を伏せ、扇子の骨を指先でなぞった。
まるで古い祈りを思い出しているかのようだった。
エドガーは待ちきれなくなり、口を開いた。
「いえ、私も納得しているのです。彼は血圧も高かったし、突然の事故だと。ただ、暴漢と妄想し、その相手に説きながら祈る奥方がどうにも悲痛に見えてしまって……本当に、良い奥方なのです。部下はよく自慢をしていました」
「自慢ですか」
「はい。とても美しくて良い妻で、自分は素晴らしい家庭を築いていると。まさにその通りでしたよ。孤児院にまで寄付をする敬虔な女性で、牧師に言い寄られないかなんて冗談を言っていましたよ」
「お子さんは?」
「まだでしたよ。部下は奥さんを愛するあまり、束縛も強かったようです。愛妻家というんでしょうかね」
「なるほど」
ローラは膝上に置いたこぶりのバッグの中から、オペラグラスを出した。
「信仰深い方ほど、言葉を盾にするものですわね」
エドガーは顔を上げた。
「盾、ですか」
「ええ。神の言葉は、人を救います。けれど同時に、人の心を守る檻にもなりますわ。それは救いなのかと言われると、難しいですわね」
「ええと、申し訳ない。僕にはいささか難しいようだ。それはどういう意味なのです?」
ローラは劇場の天井を見上げた。金の天使たちが微笑みながら罪深い人間を見下ろしている。
「奥方は、本当に『殺してはならない』と信じていたのでしょうね」
「ええ。以前から敬虔な宗教家だったようです。孤児院の経理にも関わって、慈善事業も熱心だったと」
「慈善事業というと、奥方も貴族の方ですの?」
「はい。部下も奥方も、私と同じ下級の貴族です。部下も貴族籍ではあったのですが、それほど大きな家柄ではなく、こつこつと仕事をしておりました。だからこそ、日中は家にいられず、奥方が浮気をしていないか要らぬ心配をしていましたよ。部下によると、外出するとなぜかいろんな男に言い寄られるんだそうです。美人過ぎる妻というのも大変だな、となんだか気の毒に思いましたよ」
暫く黙っていたあと、不意にローラはワントーン高い声を出した。
「ところで、そろそろ劇が始まりますわ。今日のは悲劇ですのよ。ヴァンパイアが出てくる話なのですが、今話題の役者、オリヴィエが男装をするらしいのです! 昨日の晩餐からドキドキして胸が苦しかったのですわ。失礼ですけれども、お話は後でも構いませんか?」
「後、といいますと……」
「この劇が終わってからです。オリヴィエの初日は、しっかり目に焼き付けておきませんと!」
「はあ……」
幕があがり、カステージア劇場に拍手が満ちた。
男装の麗人が登場し、ローラは扇子で口元を押さえつつ、器用にオペラグラスを片手で持ち替えた。




