あなたに愛を。(2)
まさか。
そんなことは。
こんなところにいるはずがない。
あの方がこんなところにいてはいけないのだ。
政局は未だ安定とは程遠く、改革の旗印が都を離れるわけには行かないはずだ。
「アスラン様」
アセナの呟きに、男性は振り返った。
太陽を背にし表情ははっきりとしないが、かすかに見えるすらりとした顎の線と柔らかな笑顔は、アセナが希う人のもので間違いない。
「遅かったな。もう花は咲いてしまったぞ」
低くかすかに甘い声色が乾いた大地に降り注ぐ慈雨のようにアセナに浸透していく。
――アスラン。
(ううん、ダイヴァ様)
あの時と変わらない、高潔で誇り高い貴人がそこにいた。
アセナは泣き笑いをしながら、
「間に合いませんでしたか……。たった一年に一度のことだというのに。惜しいことをしました」
と決してアスランから目をそらさず言った。
こんなことが言いたいわけではなかったのに出す言葉が見つからない。
アスランは苦笑いをしやれやれと両手を伸ばす。
「咲く姿は見れなくとも、美しいのは変わらない。仕方ないやつだ。来い、アセナ」
アセナは躊躇することなくその胸に飛び込んだ。
懐かしい乳香の香りがする。
ただそれだけでもう何年も会っていないかのような寂寥感が跡形も無く消え去った。
現金なものだと思うけれど、どうしようもない。
ここにいる人がすべてなのだ。
「待ちくたびれました。私のことなどお忘れになられたのかと思っておりました」
「……待たせて悪かった。思った以上に手間取ってしまってな」
「ここに来られても大丈夫なのですか?」
アセナは服の上からも感じるアスランの温もりに浸りながら訊いた。
これまで取り交わしたアスランとの手紙やサヤンの話から、アスランの主導する改革は内外廷ともに難航しているようだった。
早急な改革は軋轢を生み宮殿内は嵐の見舞われたの如く混迷しているらしい。
パシャの政を根底から作り変えるのだ。
三百年積み重なったものを刷新することは簡単ではない。
(私の我がままで迎えに来て欲しいと望んだけれど……)
厳しいということはアセナにも分かっていた。
多忙を極めるアスランが都から遠く離れたクルテガまで来ることなど不可能だと、半ば諦めていたというのに。
きてくれたのだ。
自分のために。
「あぁ。さすがに全部は無理だったが、俺がいなくても進めれる程度には終わらせてきた」
アセナははっと体を離し、驚いたようにアスランの瞳を見つめる。
「本当ですか? とても難しいと聞いておりましたのに」
「まぁカルネウスや岳父殿にはかなり無茶させた。過労で倒れる直前まで追い込んだからな」
副官のカルネウスとエリテル将軍の疲弊した顔が浮かぶ。
優秀がゆえにやりこなしてしまう強さと技能がある彼らだ。
それでも膨大な仕事量は彼らとその部下達だけで到底こなせるものではない。
信じがたいがアスランの自信に溢れた口ぶりから真実であることに間違いないだろう。彼らは望みどおりにやり遂げてしまったのだ。
「俺の部下達は賢帝に仕えたケマル・デミレルに勝るとも劣らない」
「本当に素晴らしい方々なのですね」
「そうだな。特にカルネウスとエリテルは俺の両翼だ。あの者たちがいてこそ今の俺がいる。二人に無理をさせてまで事を進めたのはな、……アセナ」
アスランはこの上なく優しくアセナの黒髪を撫ぜ唇を寄せる。
「お前とともにこの花を見たかったのだ。この日にな」
「私も……同じです。出会ったこの場所で、アスラン様と過ごしたいと思っておりました」
東風が吹いた日。
子供であったアセナとかつてダイヴァと名乗った青年は出会った。
偶然の出来事であったが、アセナは文明という希望を、またアスランは皇帝として生きる覚悟を与えられた。
二人の運命はあの日にこの場所で始まったのだ。
アスランは立ち上がり、
「そろそろ戻らねばな。今日は護衛もつけていないのだろう? スナイのことだ。痺れを切らして護衛隊を遣わすかもしれんぞ」
「左様でございますね。もっとアスラン様と二人で過ごしたいですけど、面倒なことになる前に戻った方が賢明かもしれません」
ウダに戻ってきてからサヤンは自分の立場を崩すことなく、パシャ皇帝の忠臣として未来の皇后アセナに接していた。
仕事ぶりはケチのつけようが無いほどに完璧であった。
「ただ最近のスナイ隊長は舅と姑が一緒になったかのように口うるさくて。うんざりするほどです」
アスランは大げさに声を立てて笑う。
「人選は間違ってはいなかったようだな。お前に物言いができるのはリボルかスナイだけだからな」
「こうなるとご存知でしたのね。……酷いお方」
「拗ねるな」
アスランははにかむとアセナの手を取り、
「信頼の置ける者にしかお前を任せられん。お前は俺の命と同じ。失うことは許されないのだからな」
崖から突風が吹き上がった。
兵士達のざわめきが風に乗り耳に届く。
待ちきれなくなったサヤンが警備隊を遣わしたのだろう。
「スナイ、アイツは思っていたよりも短気なやつだな。もどるぞ、アセナ」
「はい……。あ、アスラン様」
アセナはアスランの袖を引いた。
――愛しています。誰よりも。
と口にしようとしてアセナは胸の中で留めた。
とても大切な言葉ではあるけれど発するたびに安っぽくなっていく気がしたのだ。
それに、きっとこの方も同じように思ってくれている。
もう言葉は必要ない。
「何だ?」
「ふふ、何でもありません。さぁ参りましょう?」
おかしなやつだとアスランは怪訝そうに眉をしかめ、アセナの手をとると声のするほうへ向っていった。
読んでいただきありがとうございます。
昨年の11月から投稿し始め、9ヶ月。休止期間もありましたが、何とか完結に至ることができました。
好きなことを好きな風に書いていたので、悩みながらの執筆期間でした。
でもここまでたどり着くことが出来、感無量です。
前回の後書きで閑話をどうしようと書きましたが、ここで完結させるのがいいと思いこの形になりました。
ほとんど出来上がっているのでいつか公開できたらなぁと考えています。
最後に、今まで読んでくださり、本当にありがとうございました。
皆様には感謝しかありません。
今後は、とりあえずムーンライトに書いているスピンオフを全年齢版として改稿し、こちらにアップしていこうと思っています。
(公開しました。『滅国の巫女は草原の覇者の腕の中で夢を見る。~異世界後宮譚前夜~』https://ncode.syosetu.com/n6194gj/ 2020.7.20改)
では、またお会いできることを祈って。
『ムーンライトノベルズ版スピンオフ』※R18シーンがあります。
(「滅国の巫女は草原の覇者の腕の中で夢を見る。」 https://novel18.syosetu.com/n9540gf/)
↓よろしければ、こちらもどうぞ。
[連載中]
ゆるゆるご都合異世界恋愛物語です。休止していますが近々再開予定です。
「前世から人生やりなおします!」
https://ncode.syosetu.com/n6147gb/




