第1話 壁の向こうの彼女
最初に感じたのは、胸の痛みだった。
心臓を丸ごと抉り取られたと錯覚するほどの……強烈な痛み。
だが、それは一瞬のことで、すぐに傷を塞がれるような感覚があった。
次いで意識に届いたのは、濃密な緑の匂い。
そして、全身の感覚。
自分が目覚めたのだと知ったのは、その段階になってからだった。
ゆっくりと瞼を上げると、太陽の光が目に入って来た。
ここはどこだ……?
真っ先にその疑問を抱いた俺ことセシル=タリオは、身を起こして辺りを見渡した。
視界を埋め尽くす、数多の木々……つまりは森の中。
知らない間に見知らぬ土地に放り込まれて、頭はパニック寸前だったが、じっとしていても仕方がない。
1つ嘆息して立ち上がり、軽くストレッチして体を解しつつ、調子を確かめる。
まずは、ここがどこで、どうして連れて来られた――としか考えられない――のかを、知らなければならないな。
俺には……そう、大切な家族がいるんだ。
優しくて料理が上手い母さんと、寡黙で厳しいところもあるが、俺のことをいつも考えてくれている父さん。
万が一、2人に何かあったら……いや、今は考えるべきじゃない。
深呼吸して覚悟を固め、適当な方向に向かって足を踏み出した。
それから、どれくらい経っただろう。
ようやく、森の出口が見えて来た。
その先は見覚えのない草原だったので、どちらにせよ家に帰るにはまだ掛かりそうだが、延々と森を彷徨うよりはマシだと思う。
ところが――
「……! これは……」
森を出ようとした俺を阻んだのは、壁。
物理的なものじゃない。
魔力で作り出された、不可視の壁だ。
取っ掛かりなどないので、登るのも不可能。
ひとまず、壁に沿って進んでみるしかないか……。
あと1歩で森を出られると言うのに、足止めされていることを歯痒く思いながら、歩みを再開させる。
どこかで壁が途切れているのを期待していたが、そんな俺の願いは呆気なく潰えた。
「どうなっているんだ……?」
壁伝いの先にあったのは、またしても不可視の壁だった。
ただし、その奥に広がっているのは森じゃない。
街だ。
石畳が整然と敷き詰められ、石造りと木造の建物が点在している、初めて見る街。
森よりは情報が得られそうだが、魔力の壁が邪魔をしている。
くそ、すぐそこにあるのに……。
無意識に、壁に向かって拳を振り上げていた。
駄目だ、焦ったところで事態は好転しない。
自分に言い聞かせた俺は、軽く息をついた。
すると、まるでそれを合図としたかのように、俺の非日常は本格的に始まる。
『グゥゥゥゥゥッ……!』
低い唸り声を上げて、木々の陰から現れたのは、3体の黒い狼。
フォレスト・ウルフ……。
脅威が迫っていると言うのに、目が覚めてから初めて馴染みのある存在に出会えて、肩の力が抜けてしまった。
などと思いつつ気を引き締め、半身になって足を前後に軽く開き、腰を落とす。
左手は前にゆらりと出し、右拳は腰の辺りに据えた。
先ほどとは違う意味で、脱力する。
異常な環境であっても、身に付けた力は変わらない。
それを、今から証明してやろう。
数瞬瞑目し、すぐに目を開けた。
それだけで周囲の気配が整理され、敵の位置――厳密に言うと魔力の位置――が手に取るようにわかる。
感覚を確認しつつ、鋭く狼たちを見やると、そのうちの1体が跳び掛かって来た。
勇敢だと言えなくもないが……相手の実力を見誤ったな。
振り下ろされた爪をバックステップで躱し、無防備な顎を思い切り蹴り上げる。
頭部を吹き飛ばされたフォレスト・ウルフは、塵となって消えた。
残りの2体から驚いた気配が漂って来たが、退く気はなさそうだ。
俺としても、訳のわからないことの連続で、鬱憤が溜まっている。
悪いが、発散させてもらうぞ。
内心で方針を固めて、今度は自分から打って出た。
最短距離を走り、最も近くにいた1体に肉薄する。
対する狼も、臆することなく噛み付いて来たが……温い。
寸前で急停止した俺に届くことはなく、空振りに終わった。
「ふッ……!」
踏み込むと同時に繰り出された右拳が顔面を捉え、四散させる。
そして、消え行くモンスターを見届けることもなく振り返り、後ろ蹴りを放った。
魔力を隠していない相手なら、今の俺に死角などない。
背後から迫っていた1体の胴を、蹴り抜く。
最後の狼も塵となり、辺りに静寂が戻って来た。
念の為に新手を警戒したが、その心配はなさそうだ。
構えを解いて、大して荒れてもいない呼吸を整える。
体力的にも消耗の度合いは少ないとは言え、せめて野宿出来る場所を確保しなければならない。
そう考えた、そのときだった。
「大したものですね」
その声が聞こえたのは。
瞠目して、弾かれたように振り向く。
魔力の壁の向こう側、石畳の上に佇んでいたのは、1人の少女。
歳は俺と同じくらいで、恐らく20歳には達していないだろう。
小柄で華奢だが、それに反して女性らしさを感じさせる、美しい肢体。
濡れ羽色の艶やかなロングヘアーを、一房だけ編み込んでいる。
アメジストのような紫の瞳には、強い意志が宿っているように見えた。
黒と紫を基調としたゴスロリ風ドレスを身に纏い、黒いタイツを履いている。
腰に装備しているのは、陽光を反射する細剣。
物静かな印象だが、花飾りの付いた白いカチューシャが、非常に可愛らしい。
はっきり言おう、魅力的だ。
だが、そんなことに関係なく、俺は彼女から目を離してはいけない気がした。
何を考えているのかわからないが、相手もこちらをジッと見ている。
微妙に、いたたまれない……。
それはそうと、彼女はここがどこか知っているんだろうか。
遅まきながらその考えに至り、問い掛けようとしたが、先に口を開いたのは少女だった。
「フォレスト・ウルフは大した強さではないですが、異能も使わずに3体を圧倒するのは並ではありません。今のが全力にも見えませんでしたし、称賛に値します」
表情は落ち着いたまま、手放しで褒めてくれた少女。
嬉しくない訳じゃないが……勘違いしているかもしれないな。
わざわざ訂正する必要は、ないのかもしれない。
それでもなんとなく、彼女には伝えておきたいと思った。
「有難う。ただ、俺は異能を使わなかったんじゃなくて、持っていないだけだ」
「……そうでしたか。まぁ、異能者は1000人に1人と言われていますから、不思議ではありません」
「確かに。そう言うキミは、異能者なのか?」
「はい」
「そうか……。正直、羨ましいな」
思わず、苦笑がこぼれる。
初対面の相手に、何を言っているんだろうな。
自身の魔力を消費して、様々な超常の力を行使する――それが異能。
生まれついての能力じゃなく、何らかの大きな出来事を切っ掛けに、後天的に発現すると言うのが有力な説だ。
家族を守る為に実力を磨いて来た俺にとっては、喉から手が出るほど欲しいもの。
しかし、一向に手応えはない。
縋っているからだろうか……?
だからと言って、いきなり羨ましがるなんてどうかしている。
きっと、彼女も呆れて――
「異能があろうがなかろうが、貴方が強いことに変わりはありません」
「え?」
「異能の有無は、重要ではないと言っています。むしろ、異能なしでそこまでの力を手に入れたことを、誇るべきです」
どこまでも真っ直ぐな眼差しと、澄んだ声。
刹那の間、時間が止まったかと思った。
ほんの少し、顔を背けながら感謝を伝える。
「……そう言ってくれると、救われるな」
「いえ……。少し、踏み込んだことを言いました。すみません」
「気にしないでくれ。本当に、有難う」
「……どういたしまして」
目を逸らして小声で返事した少女に、別の意味で苦笑を禁じ得ない。
見た目以上に、優しい性格なのかもしれないな。
そう考えながら、なるべくフレンドリーに、笑顔を意識して本題を切り出した。
「ところで、キミはここがどこか知っているか? 俺はさっき目が覚めたんだが、全く心当たりがないんだ」
「わたしも同じです。気付いたときにはここにいたんですけど、前後の記憶がありません。街を出ようとしましたが、魔力の壁に阻まれました」
「なるほど、確かに同じだ。そうなると、もう少し調べてみるしかないか……」
「そうですね」
情報を得られなかったのは残念だが、致し方ない。
少なくとも、自分以外にも同じ境遇の人間がいるとわかっただけでも、収穫だと思おう。
ほとんど無理やり己を鼓舞して、少女に礼を告げようとして――気付いた。
平然としている彼女が、本当は不安を抱えていることに。
根拠はない。
それでも、確信がある。
そう認識したときには、少女を安心させるように自然と微笑が浮かび、勝手に口が動いていた。
「今日も生きている」
「え……?」
「嫌なことがあったときや不安になったときに、自分に言い聞かせるんだ。今日も生きている。それだけでも、凄いことだと。試しに、キミも言ってみたらどうだ?」
「……今日も生きている」
何かをかき抱くかのようにして瞳を閉じ、俺の信条を復唱する少女。
状況は何も変わっていない。
それでも、瞳を開けた彼女の硬さが、先ほどより和らいだように見える。
その姿に、口元が緩むのを自覚しながら、今度は現実的な話に戻した。
「本当は合流したいんだが……この壁がある限り、難しそうだな」
眼前に聳え立つ魔力の壁を、忌々しく思いながら見上げた。
そんな俺の耳朶を、力強い声が打つ。
「嘆いても始まりません。今は、出来ることをしましょう」
「……その通りだ。じゃあ、俺は向こうを――」
見て回る。
そう言いかけた瞬間、少女に影が覆い被さった。
それが路地から出て来た人型モンスター、ゴーレムのものだと知り、絶叫しそうになった。
少女に注意を呼び掛けるべく、必死に口を開く。
しかし、ゴーレムは無慈悲にも、石の拳を振り下ろし――斬り刻まれた。
目を見開いた俺の視界に映ったのは、細剣を振り切った少女。
彼女が無事だとわかっても、呆然と立ち尽くしていると、冷静な声が耳に届いた。
「心配無用です。自分の身は、自分で守れるので。では、失礼します」
淡々と言い置いた少女は、細剣を鞘に納めて歩み去った。
その段階になって硬直が解け、肺の中の空気を全て吐き出す勢いで溜息をつく。
ただものじゃないとは思っていたが、想像以上だったな……。
大袈裟に取り乱したのが、申し訳ないほどだ。
ただ……いくら実力が高くても、俺と違って異能者であろうと、不安を払拭出来るとは限らない。
立ち去る少女の背中を見送ってから、軽く頭を振る。
彼女のことは気になるが、自分のことをしっかりしなければ。
気合いを入れ直し、地面を蹴ったのだが――
「あ……」
数歩で立ち止まった。
そう言えば……名前を聞き忘れていたな。
それどころじゃなかったかもしれないが、不覚だ。
まぁ、そのうちまた会えるだろう。
生きてさえいれば。
胸中で呟いて、足を再稼働させる。
ところが、またしても止まることになった。
ただし、今度は外的要因で。
『プレイヤーの諸君、ごきげんよう。恐らくほとんどの者が、混乱状態だと思われる。詳しい話を聞きたいなら、中央区画に来ると良い。来ないなら来なくても構わないが、その場合は自己責任だと言うことにさせてもらう。では、待っているぞ』
辺りに響き渡った、男性とも女性とも判別出来ない不気味な声。
咄嗟に身構えたが、意味はなさそうだ。
プレイヤーと言うのが俺やあの少女を指しているのなら……行くしかない。
首元をさすりながら決意を固め、どことも知れない中央区画とやらを探すことにした。




