タイトル未定2026/06/22 22:06
「伯父貴! 大変だよ。表に、身なりは立派だけど、今にも川に飛び込みそうな顔をしたお侍さんが立ってるんだ。……どうやら商売で大失敗して、もう後がないらしい。……『最後に、死ぬ前に一番旨いもんを食わせてくれ』なんて言ってるんだよ。伯父貴、これに関わったら、うちまで不運に引きずり込まれちゃうよ!」
亀吉が震えながら報告に来ると、伯父貴は包丁を置き、静かに焼き台の炭を熾し始めました。
「……亀。おまはんは、『溺れる者は藁をも掴む』っちゅう言葉を知っとるか」
「知ってるよ。必死な時は、頼りにならないものにまで縋り付くって意味でしょ? つまり、うちみたいな『商売下手の店』に縋るなんて、そのお侍さんもお終いだよ」
伯父貴は、ニヤリと力強く笑いました。
「……アホか。わしはな、頼りにならん『細い藁』やあらへん。……あいつを泥沼から引きずり上げる、『最高に太い、鰻の藁』になってやるんや」
伯父貴は、これ以上ないほど脂の乗った大ぶりの鰻を、魂を込めて焼き上げました。香ばしい匂いが店いっぱいに広がり、絶望していたお侍さんの鼻を突きます。
「……お侍さん。死ぬ前に食うには、この鰻、ちょっとばかり『精』が付きすぎるで。……ひと口食うたら、死ぬのが阿呆らしくなるほどにな」
お侍さんは、震える手で鰻を口に運びました。ひと口、ふた口……。その顔に、じわじわと血の気が戻り、目には力が宿っていきます。
「……大将。……俺は、こんなに力強い味を忘れていたよ。……藁をも掴む思いでここへ来たが、掴んだのは……明日を生きる『柱』だったな」
お侍さんが、腰の刀をぐっと握り直し、店を出ていく背中を見送りながら、亀吉が呟きました。
「……伯父貴。結局、お侍さんが置いていったのは、一銭の金でもなく、ただの『決意の言葉』だけだったね。またタダ飯だよ。やっぱり伯父貴は、藁を掴ませて自分まで流されるバカだよ」
伯父貴は、お侍さんの飲み干した湯呑みを洗いながら、ポツリと独り言を漏らしました。
「……亀。わしも昔、お清が出ていった後、絶望の泥沼で溺れとった。……あの時、わしを救ってくれたんは、お清が残してくれた『この板場』っちゅう一筋の藁やったんや。……だからな、わしはここを動かん。……誰かが溺れそうになった時、いつでも掴める『藁』として、ここで鰻を焼き続けるんや」
「……伯父貴。それじゃあ、また仕入れ代が足りなくなって、僕らが藁を掴む羽目になるのは?」
「……。……それは、わしの『意志』が太いから大丈夫や! 文句あるか!」




