~早起きは三文の徳(得?) 煙で稼ぐ商人の意地~
「あー、腹減ったなー……。これじゃあ次の便まで体がもたへんわ」
大坂は八軒家の船着場。三十石船の船頭、熊公は、自分の腹の虫の鳴き声に溜息をついた。懐にあるのは、家から持ってきた冷めた握り飯が二つだけ。
「毎日毎日、客を乗せて川を往復して……せめて、景気のええおかずの一つつけてくれりゃあええのにな。……なんや、この鼻腔を刺激する旨そうな匂いわ」
ふと足を止めた熊公の鼻を、醤油と脂の焦げる、たまらん匂いがかすめた。
「はー、鰻か。しばらく口にしてへんなー……。ん? これは……」
熊公の目に飛び込んできたのは、今にも崩れそうな一軒の飯屋であった。
「見るからにボロい店やし、板場に立ってるのもトロそうな親父やな。よし、いっちょ、ここの親父を言いくるめて安う食うたるか!」
熊公はニヤリと不敵な笑みを浮かべると、威勢よく暖簾を割りよった。
「おい大将! この店、えらい煤けてんな。最後に掃除したのはいつや。徳川の家康公が関ヶ原で戦うてた頃か?」
板場の店主は手元の包丁を止めることなく、鼻先で笑って受け流した。
「……そうでんねん」
「そうでんねん、て。おまはん、それじゃあ二百年も掃除してへんいうことやないか!」
「いや旦那、話が噛み合いまへんな。私が言うてるんは、昨日の合戦……もとい、応仁の乱のことですわ」
「応仁の乱! 誰が四百年も遡れ言うた! アホか、この店は室町の世から掃除してへんのか!」
船頭のデカい声が響くのを横目に、店主はトントンと景気よくまな板を叩く。
「旦那、その煤はな、うちが代々積み上げた出汁の結晶ですわ。……おっと、文句を言う前に、その壁いっぺん舌でなめてみなはれ。そこらの安もんの吸物より、よっぽどええ味しまっせ」
「誰が壁なめるか、アホんだら! 船を漕ぐ前に腹壊すわ! ……おまけにこの湯呑見なはれ、茶渋がこびり付いて真っ黒やないか!」
「旦那、それは茶渋やありまへん。うちの長い歴史が生んだコクの層ですわ。そら、茶葉の代金やなくて、その茶渋が醸し出す景色の分も勘定に入れなあきませんな」
「何をぬかしやがる、掃除してへんだけやないか!」
客のいちゃもんを平然と煙に巻くと、店主は生け簀から一匹の鰻をひっ掴んだ。ぬらりと光る黒い背を抑え込み、目打ちを一突き。そこからは職人の時間であった。
江戸は切腹を嫌って背中から開くというが、食い倒れの街ではそんな気取った真似はしない。鋭い包丁が迷いなく鰻の腹を裂く。真っ白な身が鮮やかに開き、手際よく骨が外される。そこに、手応えのある金串を一本、また一本と打ち込んでいく。
真っ赤に熾った備長炭の上へ、串が並ぶ。途端、ジューッ!と威勢のいい音が板場に響いた。鰻の脂が熱い炭に滴り、弾けては青白い煙を上げる。皮目がぷくりと膨らみ、パチ、パチッ音を立てて躍る。蒸さずに直に焼くことで、表面はカリッと香ばしく、中は溢れんばかりの脂で黄金色に輝き出す。
店主は何代も継ぎ足してきた秘伝のタレに、鰻をどっぷりと潜らせた。タレを纏った身を再び炭に翳せば、醤油の焦げるたまらん匂いが、爆発するように店中に広がった。
「……で、大将。そこまで大口叩くなら、その鰻はいくらや?」
熊公が、喉を鳴らしながら聞いてきた。
「一皿、三十二文ですわ」
「げっ、三十二文! 蕎麦が二杯も食えるやないか! 船頭の稼ぎを何や思てんねん。……ほな、そのタレだけならいくらや?」
「タレ……。まあ、タレだけならただですわな。うちは料理の代金をいただいてますさかい」
「ほう、ただか。……よっしゃ。ほな、そのタレだけくれ。それをこの白飯にかけて食うたるわ」
熊公はどこからか、握り飯を突き出してきた。店主はニヤリと口角を上げた。
「へえ、タレだけでっか。よろしい。旦那、そこまで言うなら、うちの秘伝のタレだけで、腰を抜かしてもらいまひょか」
店主はあえて鰻を焼かずに、空の刷毛にたっぷりタレを含ませて、熱々の炭の上に一滴、二滴と垂らした。途端、鰻の脂が混ざった香ばしい煙が、一気に熊公を包み込む。
「旦那、タレを味わうんは口やありまへん。まずは鼻ですわ。さあ、その飯、煙に燻して食べなはれ。それが江戸っ子にはできん、上方のタレの極意や」
やがて、熊公は店主の術中にはまり、煙だけで握り飯を完食してしまった。
「……くそー! 煙だけで飯が食えてもうたわ。……おい親父、なんぼや?」
「へえ。鰻は食べてはりまへんから……そうやな、三文いただきまひょか」
「おい! タレはただや言うたやないか。一銭も払わんぞ!」
「旦那、話を聞いなはれ。タレは確かにただですわ。けどな、その香ばしい煙を出すために、私は夜も明けぬうちから起きて、炭を熾し、何年も継ぎ足してきたタレを一番旨い温度まで温めて待ってたんですわ。早起きして仕込んだ職人の時間代、三文。……安いもんでっしゃろ?」
熊公は一瞬、呆気に取られたように口を開けていたが、やがて短く唸った。
「……応仁の乱から続いてるんか知らんが、えらい高い煙やな。ほらよ、三文!」
船頭は悔しそうに、けれどどこか清々しい顔で三枚の銭を放り投げ、暖簾をくぐっていった。
遠ざかる足音を聞きながら、店主はパタパタと団扇で煙を外へ逃がした。三枚の銭を盆の上で転がし、店主はひとりごちた。
「……ふう。朝早う起きた甲斐があったわ。世間じゃあ徳を積むなんて言いまんが、私に言わせりゃあ……徳ならぬ得やな。早起きは三文の得っちゅうこっちゃ」
店主はニヤリと笑うと、また次の仕込みのために包丁を握り直した。




