終章
数日後。
山田君と一緒に街を歩いていると、彼が「あっ」と声を上げた。
「どうしたの?」
「ほら、前を歩いている女の子がいるだろう。彼女がこの前相談にきたクラスメイトだよ」
「へえ……」
長い黒髪がゆらゆらと揺れている。佇まいが美しく、歩き姿ですら映えている。なるほど、後ろ姿だけですぐにわかっちゃうんだ、なんて言おうと思ったけれど、とても印象的な後ろ姿だ。これは誰でも覚えてしまうし、街中で見つけるだけで誰なのかわかってしまうかもしれない。
「榎戸川さん」
山田君が何の気なしに声を掛けると、彼女はすっと振り向いた。
美人だった。わかっていたけど……後ろ姿で美人だってわかっていた。なんというか、居た堪れない。
彼女は立ち止まり、私たちは彼女に追いつく。
「あら、山田君じゃない。そちらは?」
「田島莉麻子さん。僕と同じ『探偵小説愛好会』に入っているんだ。莉麻子さん、この人は榎戸川蘭子さん」
「えどがわらんこ?」
「ふふ、乱歩先生に似ているでしょう?」
「あ、いえ、そんなことは。ええと、初めまして。田島莉麻子です」
ぺこりとお辞儀して顔を上げると、彼女――榎戸川蘭子さんは、じろじろと私を観察するように見つめた。なんですか、と言葉にする前に、その視線には疑い深いような、それでいてなんとなく関心するかのような、不思議な瞳をしていた。その視線の奥に引きずり込まれるみたいな、それくらには綺麗な目をしていて、彼女はどこか現実離れしている心地もした。
「あなたも愛好会なの。なるほど」
「え、榎戸川さん?」
「蘭子でいいわよ」
「蘭子さん」
「はい、莉麻子さん」
彼女は微笑んだ。初対面にして名前で呼び合うのは、気恥ずかしい。それにしては彼女は臆さない威圧感があり、ふふふと微笑んでみせる表情も、場違いと言えども妖艶だ。なんというか、こんな人が山田君の同級生にいて、クラスメイトで、この前のことを彼に相談してきたのか。ちょっと想像を越えていた。私も気圧されどぎまぎしてしまう。
「榎戸川さん、ちょうどよかった。この前君が僕に話してくれた事件、愛好会の皆で推理してみたよ」
「あら。ということは、莉麻子さんも?」
「うん」
「それはどうもありがとう。そうね、話を聴かせていただくわ。そこの喫茶店に入りましょうか」
蘭子さんは近くの喫茶店『カフェ・ディアマン』を指さした。
■
「まあ、概ね期待通りね」
蘭子さんはコーヒーを置くと、澄ました顔でそう言った。
「期待通り?」
「なかなか面白い解決だったなあということよ」
榎戸川さんは色白の美人で、きっとクラスでも目を引く存在だろう。山田君とは交流がなかったとは話は聞いているけど、どちらかといえば高嶺の花で、山田君のような人にとってはほとんど関わり合う機会すらなかったのではないか、そんな風にさえ感じる。私も彼女と同じクラスだったら、きっと眩しくて自分から近寄ろうだなんて思わないだろう。それくらい、とても存在感のある子だ。
「特に山田君と安語先生という方の推理。よくここまで組み上げたものね」
「組み上げた? 榎戸川さん、君が幼い頃に祖母の友人から聞いたという話の終盤が思い出せないと言うから、僕たちがその解決を考えてみたんじゃないか。面白いとか期待通りだとか言う前に、まずその中に、君が聞いた解決があったのかどうかが重要なんじゃないのかい? それとも、もしかしてなかったの?」
「なかったというより、元々ないわよ」
「はい?」
「そんな事件、起こっていないわ。全部私の創作よ」
私と山田君の声が重なった。
創作って、どういう意味?
「実は私、推理小説や探偵小説が好きなの。そしたら、安語先生が愛好会なんてものをやってらっしゃるそうじゃない? だから入ろうと思ったのだけど、もしその愛好会の皆様の程度が低かったら、入るに値しないかなって……それで、自前の探偵小説のようなものを考えて、さも解決の部分を忘れたふりして、会員の山田君に相談したの」
「ってことは、嘘だったってこと?」私が問う。「刑部様も、野沢も小梅も?」
「そう、私が考えたの」
「試すためってことかあ。なんだ……」
彼女たちが突然、本当の意味で架空の存在だと知ると、妙な気持ちになる。喪失感というか、空間がぽっかり空いたような、そんな気持ちに。動機などを考える時に、いろいろと彼女たちの気持ちに感情移入したり、そういう人間がいるものとして考えていたからだろうか。山田君は驚きを落ち着けながら、榎戸川さんに質問する。
「でも榎戸川さん。君の中でも一応、答えは用意してあったんだろう?」
「ええ。一応、山田君の推理が答えだったわ」
「あ、そうなの?」
山田君の推理が、榎戸川さんの用意した答えだった。
ということは、やっぱり安語先生はまた犯人をはずしている!
「でも」
私はそう零した。山田君も、小さく微笑んだ。
「素直に喜べないね。今回は安語先生の勝ちだよ。榎戸川さんの用意した答えが例え僕が導いた答えと合致していたとしても、安語先生の推理の方がはるかに面白い。今回の事件が全て創作で、その答えが無数にあるとすれば、安語先生の考え出した結論が僕には正解に思えるよ」
「そうね」
榎戸川さんはとても満足したように言った。
「とても面白い解決だったわ」
私も平野さんも山田君も、きっと今回は安語先生の勝だと確信している。それが創作者の榎戸川さんの用意した答えと違っていて、いつものように安語先生が犯人を外していたとしても、安語先生はむしろ新しい答えと解決を生み出したのだ。榎戸川さんの考えと創作、彼女の解決を凌駕する、別の解決。私たちは完璧に負けたのである。
榎戸川さんはしばらく間を置くと、穏やかに言った。
「あなたたちは皆、推理小説や探偵小説が好きなのね」
「うん。皆、大好きだよ」
私は続ける。
「蘭子さんも入ってくれるの? 愛好会」
「入るわ、莉麻子さん」
「嬉しいな。女の子の会員、ちょっとはいるんだけど、最近はあんまり来なくて」
不敵に、妖しく、美しく微笑んだ。
「試すようなことをしてごめんなさい。私も、犯人の当てあいっこみたいなこと、してみたかったのよ」
蘭子さんは冷たい話し方をして、どことなく、心ここに在らずといった印象があった。けれど、そんな言葉を言ってくれる瞳はきちんと私を見ていて、そして山田君を見ていて、嘘偽りはないのだろうなと思った。愛好会の程度を調べるために、あんな話を創作するなんて、騙された気分というよりも、そこまでするんだなあと驚いた気持ちが強い。そういう話を考えられるというだけでも、愛好会では上手くやっていけると思う。それに、彼女のような人がいると、私も落ち着く。綺麗すぎて恐れ多い感じはなくはない。でも、さっきの言葉は本当だったし、最初は怖気ついていたけど、今は私も自然と話せている。あんまり、女の子の会員がいないのだ。もちろん他に三人ほどいるのだけど、私のように積極的にはやってこない。皆忙しいのだろう。
だから、彼女の入会は素直に嬉しい。
「よろしくお願いするわ。山田君、莉麻子さん」
蘭子さんは、にこやかに微笑んだ。
■
かくて、安語先生、平野さん、山田君、私、という愛好会の常連メンバーに、榎戸川蘭子さんが加わった。平野さんは彼女の登場に驚き、安語先生も感心した様子だった。それは美人だということもあったけれど、何より彼女が創作したということである。安語先生も、わざわざあんな話を考えるとはご苦労なことだ、と原稿片手に言った。蘭子さんはいつも怪しく微笑んでいて、その異質な感じは受け入れられるのかなあ、と思ったけれど、すぐにメンバーに馴染んだ。私も彼女とよく話をするようになり、彼女のような人と友人になれたことを、とても嬉しく思った。
それからしばらくしたある日のことだった。
愛好会の部屋で本を読んでいると、誰かが玄関を叩く音がした。愛好会には私しかいなかったので、仕方なく玄関に出る。そこには一人、女性がいた。着物姿で、大人っぽい雰囲気がとても奥ゆかしい人だった。
「あの、何か……」
「こちらに蘭子さんはいらっしゃいませんか?」
「蘭子さん、ですか? 今はいませんけど、そのうち来られると思います」
「そうですか。いえ、おられないのならいいのです」
「あの」
帰ろうとする女性に、私は声を掛けた。
「蘭子さんに何か御用ですか? もしよければ、彼女に要件を伝えておきますけれど……」
彼女は学校帰りに、そのままここにやってくる。大抵は山田君と一緒だ。私は二人とは学校が違うので、少しだけ時間がずれていて、私が最も早くここにやってくる。先生は今日は出版社、平野さんは山田君と蘭子さんよりちょっと遅くやってくる。だから、私が要件を訊くのが一応確実なのだ。女性はこちらに振り返り、お辞儀をした。
「ありがとうございます。それでは、お願いしようかしら」
「はい」
「お母様がお呼びですので、至急自宅にお戻りください」
「……それだけ、ですか?」
「はい。お願いします」
「あの、お名前を教えてください。誰からの伝言か、蘭子さんに伝えますので」
「そうでしたね」
彼女は静かに告げた。
「私は、蘭子さんの家で女中をやっている、野沢と申します」
<終わり>