その条項、殿下がお忘れのようですので確認いたします
王城の大広間には、初夏の夜会にふさわしく、白百合の香が焚かれていた。楽団の弦の音が高い天井に反響し、磨き上げられた床にシャンデリアの光が幾重にも映り込んでいる。
招待客の誰もが、着飾った笑顔で言葉を交わしていた。マリエルもまた、いつも通りの静かな微笑みを浮かべ、扇を片手に壁際近くに立っていた。ここ最近、ヴィルヘルムとの距離を感じてはいたが、口に出したことは一度もなかった。何かが起きたとしても、慌てず対処できるように——それだけを、ずっと心に留めてきた。
「マリエル」
名を呼ばれ、マリエルは足を止めた。
声の主は、第二王子ヴィルヘルムだった。広間の中央、人の輪が自然と割れてできた空間に、彼は立っていた。楽団の音がふと途切れ、談笑の声が波のように引いていく。集まった視線が、いっせいにマリエルへ向いた。
「婚約を解消する」
隣には、聖女リーゼが戸惑ったように立っている。何も知らされていなかったのか、彼女自身も落ち着かない様子で、ヴィルヘルムの袖をそっと引いていた。
「理由を、伺ってもよろしいでしょうか」
マリエルは、驚いた素振りも見せず、静かにそう尋ねた。
「……リーゼと共に歩む道を選んだ。それだけだ」
「承知いたしました」
その返答の速さに、ヴィルヘルムはわずかに気圧されたような顔をした。周囲の貴族たちが、扇の陰でひそひそと囁き交わす。「大人しく地味な令嬢」——そう言われ続けてきたマリエルの評判を、ヴィルヘルムもよく知っていたはずだった。取り乱すはずがない、と高を括っていたのかもしれない。
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「なお、持参金の返還は不要とする。これまで贈った品々も、王家の所有物として扱わせてもらう」
ヴィルヘルムは、そう続けた。まるで、既に決定した事項であるかのような口ぶりだった。
周囲がざわめいた。持参金の返還を免除させ、贈答品まで没収するというのは、あまりに一方的な条件だった。だが、王子の言葉に真っ向から異を唱えられる者は、この場にいなかった。
マリエルは、しばらく沈黙した後、静かに口を開いた。
「恐れながら、王室婚約規定の第七条をご確認いただけますでしょうか」
「……規定?」
ヴィルヘルムが、怪訝そうに眉をひそめた。
「王室と貴族間の婚約に関する規定は、婚約成立時に双方が確認し、署名するものと定められております。第七条には、婚約解消時の取り決めが明記されております」
マリエルは、淀みなく続けた。
「『正当な理由なき一方的解消の場合、持参金は全額返還するものとし、加えて婚約期間中の公務従事に対し、相応の補償を行うものとする』」
「そんな条項、聞いたことがない」
「婚約成立の際、双方の家門の代表が確認し、署名した書類にございます。控えは、王室文書館と、私の実家の両方に保管されているはずです」
ヴィルヘルムの顔に、初めて動揺の色が浮かんだ。
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「正当な理由なら、ある」
ヴィルヘルムが、苛立ちを滲ませながら言い返した。
「お前は、婚約者としての務めを怠っていた。夜会にもろくに顔を出さず、私との時間よりも、書斎に籠っている方が多かったと聞いている」
「恐れながら、規定に定める『正当な理由』とは、婚約者側の不貞、あるいは重大な公務放棄を指します。夜会への出席頻度は、その定義に含まれておりません」
「屁理屈だ」
「屁理屈ではございません。第九条に、正当な理由の定義が明記されております。よろしければ、殿下の記憶違いがないよう、この場で読み上げましょうか」
ヴィルヘルムが、言葉に詰まった。周囲の何人かが、扇の下で小さく息を呑む気配がした。
「そ、それとも、私に何か、規定に該当するような落ち度がございましたでしょうか。もしあるのでしたら、具体的にお聞かせください」
マリエルは、静かに、しかしはっきりと問いを重ねた。ヴィルヘルムは、何も答えられなかった。
「殿下……」
リーゼが、小さな声で口を挟んだ。
「私、書斎にいらっしゃるマリエル様のこと、何度かお見かけしたことがございます。いつも分厚い本を、熱心に読んでいらっしゃいました。あれは……お務めを怠っていらしたわけでは、ないのでは」
その一言に、ヴィルヘルムがぎょっとした顔でリーゼを見た。援護のつもりで放った言葉が、かえって彼の立場をさらに狭めていた。
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「……ならば、王命として処理する」
ヴィルヘルムが、苦し紛れのように声を張った。
「私が第二王子として、特例を認める。規定より、王家の意向が優先されるのは当然のことだろう」
「恐れながら、王室婚約規定の第十二条に、特例の適用条件が定められております」
マリエルは、間を置かずに答えた。
「特例による規定の適用除外は、国王陛下の直筆による裁可がなければ成立いたしません。第二王子殿下のご意向のみでは、規定を覆すことはできないはずでございます」
「そんな……」
「もし陛下の裁可状をお持ちでしたら、この場でお示しいただけますでしょうか。あれば、私に異存はございません」
ヴィルヘルムは、何も持っていなかった。会場が、しんと静まり返った。誰かが小さく息を呑む音だけが響いた。
「殿下は、陛下のご意向すら確かめずに、この場を設けられたのですか」
少し離れた場所から、初老の侯爵夫人の声が響いた。咎めるというより、呆れたような響きだった。近くにいた数人が、扇の陰でこくりと頷く。
「わ、私は……」
ヴィルヘルムの声が、初めてはっきりと上ずった。額に、うっすらと汗が滲んでいる。誰もその先を待たなかった。囁きの対象が、マリエルからヴィルヘルムへと、完全に移っていくのが分かった。
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その時、王妃の使いを受けて、王室法務官アルノーが会場に呼ばれた。
「規定の確認を、正式に行っていただけますか」
マリエルが、落ち着いた声でそう頼むと、アルノーは資料を手に、静かに頷いた。
「第七条、および第九条について、確認いたします」
アルノーは、持参してきた規定書を読み上げた。マリエルが述べた内容と、一字一句違わなかった。
「正確な引用です。これほど詳細に規定を把握されている方は、私も久しぶりに見ました」
その言葉に、会場の空気が、明らかに変わっていった。
「殿下、恐れながら申し上げます」
アルノーが、静かに続けた。
「婚約期間中の公務従事の記録も、確認が必要かと存じます。マリエル様は、この三年間、殿下に代わって地方視察や慈善活動を務めておられた記録が、複数残っております」
「……それが、何だと言うんだ」
「規定に照らせば、それらは婚約者としての正当な職務であり、対価なき解消の場合、相応の補償が必要となります。具体的には、地方視察が七回、慈善活動への代理出席が十二回。いずれも殿下のご都合がつかない際の代理として、記録に残っております」
マリエルが、静かに付け加えた。
「日付と行き先は、こちらの手控えに全て記してございます。ご確認いただければ、記憶違いはないかと」
ヴィルヘルムの顔から、みるみる血の気が引いていった。持参金の返還どころか、これまでの労務に対する補償まで、王家側が負担する立場に追い込まれていた。
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「そ、それは……お前が勝手に代理を買って出ただけだろう」
ヴィルヘルムが、なおも食い下がった。だが、その声にはもう、先ほどまでの勢いがなかった。
「殿下からのご依頼状は、いずれも私の手元に残っております。『マリエルに一任する』とのお言葉も添えて」
マリエルは、淡々とそう返した。
少し離れた場所にいた壮年の伯爵が、堪えかねたように口を開いた。
「殿下。マリエル嬢は、規定に基づいた事実をお話しになっているだけかと存じますが」
周囲の何人かが、小さく頷いた。囁きの対象が、マリエルからヴィルヘルムへと、はっきりと移っていくのが分かった。
リーゼが、青ざめた顔でヴィルヘルムの袖を引いた。
「殿下……このお話、私、存じませんでした」
その一言に、ヴィルヘルムはさらに追い詰められた顔をした。
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「殿下」
マリエルは、最後に一度だけ、まっすぐにヴィルヘルムを見た。
「私は、規定通りの手続きをお願いしているだけです。特別なことは、何も求めておりません」
ヴィルヘルムは、それ以上何も言い返せなかった。周囲の貴族たちの視線が、いつの間にか、彼の方へと集まっていた。
マリエルは、深く一礼した。
「では、正式な手続きを、法務官殿にお願いいたします。失礼いたします」
踵を返し、会場の出口へ向かう。誰も、その背を止めなかった。
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廊下に出ると、楽団の音が遠のき、静けさが戻ってきた。窓から差し込む月明かりが、石畳の床に長い影を落としている。
マリエルは一度だけ息を吐いた。ドレスの下で、心臓がまだ速く打っているのが分かった。それでも、足取りは乱れなかった。
「見事な知識でした」
声のした方を見ると、アルノーが後を追うように歩み寄ってきた。
「婚約規定を、あそこまで正確に把握されている貴族の方は、そう多くありません」
「婚約が決まった日から、ずっと読み込んでおりました」
「なぜ、そこまで」
マリエルは、少し考えてから答えた。
「十四の頃、遠縁の従姉が、似たような形で婚約を解消されたことがございます。相手の家が持参金も贈答品も返さず、従姉は何一つ取り戻せませんでした。当時の規定を誰も知らず、確かめる術もなかったのです」
「それで」
「悔しさより、恐ろしさの方が勝りました。知らないというだけで、正当なはずのものすら守れなくなる。ならば、自分の身に関わる規定くらいは、誰よりも詳しくなっておこうと決めました」
「感情論だけでは、誰も守ってくれませんから」
アルノーは、その言葉に、静かに頷いた。
「先ほどの第十二条まで即座に挙げられたのには、正直、驚きました。あの条文は、法務局の中でも失念している者が少なくありません」
「殿下がお持ちになるはずの裁可状がないと分かった時点で、正直、少し胸を撫で下ろしました。もし本当に陛下の裁可があったら、私にはもう返す言葉がございませんでしたので」
「あの状況で、勝算のないまま条文を挙げていたと」
「はい。規定にそう書かれている、というだけで。裁可状の有無までは、賭けに近いものでございました」
アルノーが、意外だというように目を見開いた。それから、小さく笑った。
「それでも顔色一つ変えずに仰るのですから、たいしたものです」
「王命による特例は、過去に一度、乱用されかけたことがあると聞き及んでおりましたので。そこだけは、念入りに読み込んでおりました」
「用心深いことです」
「臆病なだけかもしれません」
マリエルは、少しだけ口元を緩めた。
「もしよろしければ、王室法務局でも、規定の整備に力を貸していただけませんか。あなたのような視点は、貴重です」
マリエルは、少し驚いたように瞬きをした。それから、小さく笑った。
「……喜んで」
「明日から、ということでよろしいですか」
「はい」
マリエルは、迷いなく答えた。
「規定書なら、実家の書庫にいくらでもございますので」
廊下の窓から、夜会の灯りが遠く滲んでいた。マリエルは、規定書の控えを胸に抱き、前を向いたまま歩き出した。
◇◇◇
一週間後、ダーウェント侯爵邸に、王室法務局の紋章が入った封書が届いた。
持参金の全額返還、公務従事に対する補償金の支払い、そして贈答品の返還——第七条に基づく手続きが、正式に完了した旨が記されていた。末尾には、アルノーの署名に添えて、一文が加えられていた。
『規定の正確な運用に、深く感謝申し上げます。法務局にて、正式な着任をお待ちしております』
マリエルは、その手紙を静かに畳んだ。窓の外では、初夏の陽が庭の薔薇を照らしている。
もう誰も、彼女を「大人しく地味な令嬢」とは呼ばないだろう。だが、それでいい、とマリエルは思った。評判など、規定の条文ほど確かなものではないのだから。
書斎の扉が開き、父であるダーウェント侯爵が顔を覗かせた。
「王室から、正式な詫び状も届いたそうだな。まさか、お前があそこまで規定を読み込んでいたとは、父も知らなかった」
「お伝えしていませんでしたので」
「なぜ黙っていた」
マリエルは、少し考えてから答えた。
「使う機会など、ないに越したことはないと思っておりましたので」
侯爵は、しばらく娘を見つめてから、静かに笑った。
「法務局への出仕、止めはしない。好きにしなさい」
「はい」
翌朝、マリエルは規定書の束を鞄に詰め、王室法務局へと続く道を、迷いのない足取りで歩き出した。




