第三話 霧はまだ何も教えない
SCENE 1 朝の窓、同じ部屋
朝の鐘で、透は目を覚ました。
高いところで金属が一度だけ鳴る。その音が木の梁に触れ、白い壁を伝って、まだ眠気の残る部屋に細く落ちてくる。目を開けた透の視界に入ったのは、昨夜より少しだけ見慣れてきた天井と、向かいのベッドと、窓いっぱいの白だった。
霧が濃い。
窓の向こうに中庭があるはずなのに、今日はほとんど見えない。いつもなら見える欄干の影も、植え込みの先の通路も、白い膜の向こうへ押しやられていた。窓ガラスのすぐ外に明るさだけがある。景色の輪郭は、その奥へ引っ込んでいる。
透は上体を起こし、しばらくその白を見た。
昨日までなら、ここで見えるもの全部に意味がある気がして、もう少しじっと見ていたかもしれない。だが今日は、まず部屋の空気のほうが先に意識に入ってきた。まだ少し冷えていること、昨夜干しておいたタオルがちゃんと乾いていること、向かいのベッドの毛布が動いたこと。こういうものを先に拾えるようになったのは、学院に来てからかもしれない。
向かいのベッドから、毛布をかぶったままの声がした。
「……見えねえな」
日向湊が顔だけ出して、窓のほうを見ていた。髪は寝ぐせで見事に跳ねている。けれど目はもう半分起きていて、寝起きの顔のくせに周囲をちゃんと拾っている感じがある。
「見えないな」
透が返すと、湊は毛布を肩まで下ろして、枕元から眼鏡を探した。
「昨日の夜からちょっと濃かったけど、朝になったらもっと詰まった感じする」
「詰まった感じって何だよ」
「分かんないけど、そんな感じ。外の音も、近いのと遠いのがいつもより混ざって聞こえるし」
湊はそう言って眼鏡をかけ、ベッドの上で胡座をかいた。
透はその言い方を、いまは前ほど不思議に思わない。湊は最初から説明がうまいタイプではない。先に感覚で言って、必要ならあとから言葉を探す。たぶん本人にとっても、そのほうが自然なのだ。透は逆に、自分の中で筋が通らないと言いにくい。だから、最初は少し噛み合わないかもしれないと思っていた。だが実際に同じ部屋で二晩過ごしてみると、その違いは案外悪くない。
湊はベッドから降りると、窓の前まで行ってカーテンを少しだけ開けた。
白さが一段濃くなる。
「うわ、本当に見えない。向こうの棟、影もないな」
「今日は外で授業やるって言ってたよな」
「うん。認識阻害実装」
湊がカーテンを戻しながら言う。
「昨日、二年の人たちが話してた。霧が濃い日は授業がやりやすいって」
「やりやすいのか」
「先生にとっては、かな。生徒は大変なやつだと思う」
透はベッドから降り、制服へ手を伸ばした。
学ランへ腕を通し、ボタンを留める。胸ポケットに万年筆を差し込むと、そこだけ少しだけ重くなる。その重みが、今では落ち着く。まだ完全に自分のものだとは言えない。でも、持っていると呼吸が整う。持っていないとたぶん気になる。昨日の授業で、先生たちがいろいろな言い方をしていたことを思い出す。手すり、逃がし口、避難口。言葉は違っても、言っていることは同じだった。感覚が強く働きすぎたとき、自分を支えるための道具だということだ。
三度目の鐘が鳴った。
今度はさっきより少し長い。
湊が慌てて立ち上がる。
「やばい。これ以上のんびりしてると、味噌汁の鍋が空になる」
透が思わず笑う。
「そこを気にするのかよ」
「朝の味噌汁は大事だろ」
「否定はしない」
「だろ」
湊はそう言ってネクタイを結び、上着を羽織った。結び方はあまり丁寧ではないが、妙に手慣れている。家で自分でやっていた人間の動きだ、と透は思った。
「相良」
「何」
「今日はちゃんと食えよ」
透は少しだけ眉を上げた。
「何で」
「昨日、おまえ昼も夜も少なかったから」
「見てたのか」
「同じ部屋のやつが何食ったかくらい分かるだろ。あんまり食わないやつは、あとで顔に出るし」
その言い方に余計な気遣いがないのがありがたかった。心配していることを、わざわざ大げさにしない。透は短く頷いた。
「今日は食う」
「ならいい」
二人は鞄を持って部屋を出た。
寄宿舎の廊下も、今日は白かった。窓の向こうに見えるはずの渡り廊下の先が、途中から霧に溶けている。明るいのに遠くが見えない。透は少しだけその景色へ目を向けたが、すぐに歩き出した。
朝だ。まず朝食を食べて、一限へ向かう。その順番を先に守るほうが、今日の自分には大事な気がした。
SCENE 2 食堂の朝、先生の予告
寄宿舎の食堂に入った瞬間、透はようやく現実に戻ってきた気がした。
味噌汁の湯気、焼き魚の匂い、だし巻き卵の甘い香り、炊きたてのご飯の熱。大きな窓の外は真っ白なのに、食堂の中だけはちゃんと生活の色がある。建物そのものは大理石と木でできた洋館なのに、朝食はきっちり和食だ。その組み合わせが、いまでは少しおかしくて、でもしっくりもきている。
長いテーブルがいくつも並び、上級生も下級生も混ざって座っている。窓際を避ける生徒もいれば、気にせず座る生徒もいる。まだ理由は全部わからない。でも、同じ霧の日でも、平気な人とそうでない人がいるのは見ていれば分かった。
透と湊がいつもの壁際の席へ向かうと、もう真壁雫が座っていた。
今日もきっちりしている。背筋が伸び、眼鏡の位置もぶれず、トレイの上の茶碗と汁椀も気持ちいいくらい揃っている。真面目という言葉だけでは少し足りない。何事も、まず整えてから入りたい人間の雰囲気がある。
「おはようございます」
真壁が先に言った。
「おはよう」
透と湊が返す。
その隣には一ノ瀬栞もいた。小柄で、短い髪。表情の動きは少ないが、寝起きが悪そうな感じはない。椀を持ったまま、少しだけ顔を近づけている。
「どうした?」
湊が聞く。
「今日は生姜が強い」
一ノ瀬は椀から顔を離さずに言った。
湊が「へえ」と声を漏らす。
「昨日より?」
「うん。昨日の朝はこんなじゃなかった」
それだけ言って、一ノ瀬は味噌汁を飲んだ。
湊が透へ顔を向けて、小さく笑う。
「やっぱ、こういうのは毎回ちょっとびびる」
「俺も」
透も素直に頷いた。
驚く、というより、まだ身体が慣れていない感じに近い。相手にとっては普通の感想なのに、自分にとってはまだ“能力の話”として聞こえてしまう。そのズレに、毎回少しだけ戸惑う。
真壁が窓際の席をちらりと見た。
「でも、上級生はだいぶ落ち着いて見えますね」
透もそちらを見る。
窓のすぐそばの席で、本を開いたまま朝食を取っている三年生の女子がいた。外は白い霧なのに、視線も呼吸も乱れていない。いちいち窓の外を気にもしない。こういう日の見え方に、もう引っ張られないのだろう。
「慣れるのかな」
透が言うと、真壁は少し考えてから答えた。
「慣れる、というより、自分に何が起きるか分かっているんでしょうね。昨日の授業でも、先生方が何度も言っていましたし」
「何を」
湊が聞く。
「全員が同じように不安定なわけではない、ってことです」
その言い方は、少し自分にも言い聞かせているようだった。
湊が焼き魚をほぐしながら真壁を見た。
「真壁って、ほんと昨日の授業の話とかよく覚えてるよな」
真壁は少しだけ首を傾げた。
「覚えておいたほうが楽なので」
「楽?」
「はい。あとで混ざらないので」
その答え方に、透は少しだけ納得する。真壁は何でも完璧にやりたいわけじゃないのだろう。分からないまま積み重なるのが嫌なのだ。だから先に揃える。先に書く。先に整理する。そのほうが自分が落ち着くから。
湊は「なるほどな」と頷きながら、ご飯を口に運んだ。
「俺は逆だわ。分かんなくても、ひとまず食えるし寝れる」
「それはそれですごいと思います」
真壁が真顔で返した。
湊が一瞬きょとんとしたあと、吹き出す。
「今の褒められたのか?」
「たぶん」
透も少し笑った。
そのとき、食堂の奥の扉が開いた。
入ってきたのは白峰燈一先生だった。
灰色のスーツ、細い黒のタイ、無駄のない立ち姿。大声を出さなくても、その場の空気が少しだけ先生のほうを向く。昨日から感じていたが、この人は教師として目立つというより、“視線の集め方を知っている人”だ。
「一年生」
先生は入口近くで止まった。
「今日は南庭で授業をします。食事はほどほどに。寒いので、上着はそのままで構いません」
そこまで言って、窓の外を一度見る。
「今日の霧は濃い。こういう日は、見えているものの意味が少しずれやすい」
食堂のあちこちで箸を持つ手が少し止まる。
先生はその静けさの中で続けた。
「だから、今日の授業では“見つけること”より、“見つけにいきすぎないこと”をやります」
真壁が小さく目を細めた。
たぶん、言葉をそのまま記憶しているのだろう。
「分かったつもりの人ほど迷います。急がなくていいので、考えながら来てください」
それだけ言って、白峰先生は食堂を出ていった。
湊が味噌汁を飲み干してから言う。
「この先生、毎回ちょっと怖いことを普通に言うよな」
「でも、分かりやすいです」
真壁が言う。
「変にぼかさないので」
透も頷いた。
ぼかさない。
それは鳴瀬先生にも、雨宮先生にも、御厨先生にも少し共通している気がした。言える範囲しか言わない。でも、言うと決めたことは濁さない。その感じが、この学院の先生たちを少し信用できる理由なのかもしれない。
SCENE 3 南庭の授業、四人で見る
南庭に出ると、白がぐっと近づいた。
白い石の小径、低い生垣、冬枯れの芝、回廊の柱。そのどれもが今日の霧の中では途中から曖昧になる。遠くが見えないのではなく、見えなくなり始める距離がいつもより近い。十歩先の輪郭が薄くなり、二十歩先はもう白の中だ。
白峰先生は広場の中央に立っていた。
「認識阻害実装は、派手な技術だと思われがちです」
先生の声は霧に吸われず、ちゃんと届く。
「人を消すとか、景色を隠すとか。もちろんそういう応用もあります。でも、一年生が最初に覚えるのはそこじゃない」
先生はしゃがみ込み、芝の中から小さな真鍮の札を一枚拾い上げた。
「最初に覚えるのは、見えているのに拾わない、ということです」
札を指先で持ち、軽く揺らす。鈍い光が白の中に一瞬だけ浮いた。
「認識阻害は、“見えない”状態を作る技術ではありません。目には入っている。耳にも届いている。でも脳が重要だと思わない。その状態を作る。これが基本です」
真壁が手を挙げる。
「先生。学院の霧も、その働きがあるんですか」
「あります」
先生は答えた。
「ただし、それだけではない。学院の霧は、外から学院を隠すためだけのものじゃありません。中にいる人間にも働く。簡単に言えば、“いま見せていい景色”を先に渡す」
透はその言葉に引っかかった。
いま見せていい景色。
今朝の窓の外の白い遠近感が、頭の中でゆっくり繋がる。見えているのに、順番が少し違う感じ。あれは単なる濃霧ではないのかもしれない。
「では課題です」
先生が紙を開いた。
「四人一組で、南庭に隠してある真鍮の札を探して持ってくる。ただし、能力で奪いに行かないこと。自分がちゃんと戻れる状態を保ったまま探すこと。それが今日の合格条件です」
班分けは昨日と同じだった。
透、湊、真壁、一ノ瀬。
「この四人、固定なんだな」
湊が言う。
「やりやすいので助かります」
真壁が即答する。
「何が」
「役割が見えやすいです。相良くんは視覚、日向くんは聴覚、一ノ瀬さんは嗅覚。私は整理ができます」
湊が笑う。
「自分で言い切るの強いな」
「事実です」
真壁は本当にそう思っているだけらしい。
一ノ瀬は霧の中へ顔を向けたまま、ぽつりと呟いた。
「今日は草の匂いより、石の匂いが近い」
「どういう意味?」
透が聞く。
「いつもより下の匂いが上がってきてる感じ」
それ以上はうまく説明できないようだった。
四人は霧の中へ足を踏み入れた。
数歩進むだけで、元の位置が少し曖昧になる。足元の石畳だけが、自分たちがいまどこにいるのかを教えてくれる。
「どうする?」
湊が小声で聞く。
真壁が手帳を取り出した。
「まず基準を作ります。噴水の音の方向、風向き、回廊の柱の位置。戻るための目印がないと、あとで混ざるので」
「ほんと、そういうのすぐ出てくるな」
湊が言う。
「先に決めたほうが楽です」
「なるほど」
「日向くんは音で位置が取れますか」
「取れると思う。噴水の水の落ちる音と、柱に当たる反響が少し分かる」
「私は匂い見ます」
一ノ瀬が言う。
「真鍮なら、触った手の油っぽい匂いが少しある」
透は万年筆を取り出した。
合焦を使えば、たぶんすぐ見つかる。
けれど、それは今日の授業の答えではない。
「俺は反射を見る」
透が言う。
「霧の中でも、真鍮なら少しだけ光り方が違うはずだ」
真壁がすぐに言った。
「無理しないでください」
「しない」
透は答えた。
「今日はそこまで行かない」
「本当に?」
「本当に」
四人は少しずつ進んだ。
透は白の中へ目を凝らす。輪郭ではなく、光だけを見る。濡れた葉、石の縁、回廊のガラス、芝の水滴。その中で、ひとつだけ少し硬い光が混じっていた。
「あそこ」
透が指さす。
「三時方向。低い位置」
真壁がそちらを見て、一歩踏み出しかけた。
その瞬間、透の視界の奥に別の景色が重なった。
石の階段。
南庭にはないはずの古い石段が、霧の向こうへ斜めに伸びている。欠けた角、濡れた石、今の学院とは違う古い作り。その脇を、灰色の作業着の背中が横切った。工具箱を持った誰かだ。
もう少し見れば、はっきりする。
そう思ったとき、胸ポケットの万年筆がじんわり熱を持った。
「相良くん」
真壁の声がした。
「どうしたんですか」
透は瞬きをした。
階段も人影も、まだ薄く残っている。だがその先へ視線を伸ばす前に、湊が袖を軽く引いた。
「やめとけ」
短い声だった。
その一言で、透ははっと我に返る。
「……あった。反射はあそこ」
透は見えていた“別の景色”ではなく、最初に見つけた真鍮の光のほうを指した。
一ノ瀬が息を吸う。
「油の匂い。近い」
湊が少しずれて立つ。
「そのままだと生垣にぶつかる。半歩右」
真壁がしゃがみ込み、葉をそっとよけた。そこに小さな真鍮の札が隠れていた。
「ありました」
四人とも息を吐く。
そのとき、白峰先生の声がすぐ近くで聞こえた。
「早いですね」
いつの間にか先生が立っていた。
「うまくいきましたか」
真壁が札を見せる。
「見つけました」
先生は受け取りながら、透を見た。
「相良くんは、途中で何か見た?」
先生の言い方は否定も驚きもない。だから透も、少しだけ答えやすかった。
「……南庭じゃない景色が一瞬。階段と、人影です」
白峰先生はしばらく透を見て、それから静かに言った。
「深い霧の日は、そういうことがあります」
「本当にあるんですか」
湊が聞く。
「あります。ただし、見えたもの全部が、いまの自分に必要な情報とは限らない」
先生は四人を順に見た。
「今日は誰も踏み込みすぎなかった。それで十分です。認識阻害実装の最初の授業としては、かなりいい」
真壁が少しだけ肩の力を抜く。
一ノ瀬は霧のほうを見たまま、静かに息を吐いた。
透はもう一度だけ白い向こうを見る。
階段も、人影も、もうなかった。
けれど、なかったことにもできなかった。
SCENE 4 午後、学院の古さと夜の音
午後の学院史は、昨日より少しだけ具体的だった。
展示回廊には古い設計図や万年筆の試作品、昔の集合写真が並んでいる。古い紙とインクの匂いが薄く漂い、足音だけがやけに響く。御厨国継先生は、その中を一定の速度で歩きながら話した。
「玻璃宮学院の前身は『観測舎』でした。最初から学校ではありません。避難所に近い場所です。知覚を持ってしまって、普通の暮らしに戻れなくなった者を一度受け止める。そのための場所だった」
先生は古い設計図の前で立ち止まった。
「学院になったのは、守るだけでは足りないと分かったからです。壊れずに生きるには、隠すだけでは足りない。扱い方を学ばせる必要があった」
湊が手を挙げる。
「西棟閉鎖も、その流れの中で起きたことなんですか」
「そうです」
御厨先生は答えた。
「観測災害の詳細は一年のうちは扱いません。ただし一つだけ言えるのは、外から持ち込まれた災害ではなかったということです。学院の内側で起きた」
それだけで十分、重かった。
授業が終わって回廊へ出ると、湊が小さく息を吐いた。
「御厨先生、嘘つかない感じが逆に怖いな」
「分かります」
真壁が頷く。
「言わないところは言わないけど、ごまかしてはいない感じ」
一ノ瀬は西側を見たまま言った。
「まだ古い匂いが残ってる」
放課後、透たちは図書室へ向かった。
真壁が「資料を確認しておきたい」と言い出したのがきっかけだったが、透も湊も断る気はなかった。
図書室は静かだった。高い書架、緑のランプ、大きな窓。外の霧は少し薄くなっていたが、回廊の向こうはまだ白い。
「こういうところ、なんか落ち着くな」
湊が背表紙を眺めながら言う。
「日向くん、図書室好きなんですか」
真壁が聞く。
「静かなときは好き。音が少ないから。人が少なければなおいい」
「私は、情報がまとまっているので好きです」
「おまえ、ほんと一貫してるな」
透は窓の外へ視線を向けた。
そのとき、灰色の影が横切った。
灰色の作業着。工具箱。校舎の角を曲がる後ろ姿。
「……いた」
透が思わず声を漏らす。
湊がすぐ隣へ来る。
「どこ」
「窓の外」
もうそこには誰もいない。
白い回廊と濡れた芝だけがある。
真壁が静かに言う。
「同じ人影ですか」
「たぶん」
「なら、偶然の見間違いで片づけないほうがよさそうですね」
一ノ瀬が壁際から言った。
「油の匂い、した」
「工具箱っぽい?」
湊が聞く。
「うん。古い金属の匂い」
四人のあいだに短い沈黙が落ちる。
面白半分ではない。
でも怖がりすぎてもいない。
いまはまだ、それが何か分からないからだ。
夜。消灯前。
透は机で万年筆を拭いていた。湊はベッドの上で真壁から借りたノートを写している。
「真壁の字、全然ぶれないな」
「またそれ言ってる」
透が呆れて言うと、湊が笑った。
「だって本当だろ」
そのとき、遠くでカン、と小さな金属音がした。
二人とも同時に顔を上げる。
昨日も聞いた。
昼間、頭のどこかで待っていた音だ。
「西のほうだ」
湊が立ち上がる。
透も靴を履いた。
「また行くのか」
「様子だけ」
「危ないやつの言い方だな」
「分かってる。でも気になるだろ」
透も頷いた。
廊下へ出る。
渡り廊下の先は白くぼやけている。ランプの明かりが床へ落ち、その向こうから霧が静かに流れ込んでいた。
湊が手すりに触れ、耳を澄ます。
「誰かいる。足音は一つ」
「同じやつか」
「たぶん」
透の胸ポケットの万年筆が、じわりと熱を持つ。
白い先に人影が浮かぶ。灰色の作業着。工具箱。
「いた」
透が言った瞬間、その影は旧西棟のほうへ流れて霧に溶けた。
二人は走る。
角を曲がる。
誰もいない。
鎖はかかったまま。
床も乾いている。
その瞬間、止まった古時計がひとつだけ鳴った。
ゴウン、と腹に響く古い音。
同時に霧がこちらへ寄ってきた。風はないのに、白い靄だけが床を這うように近づく。
透の視界の奥で、また別の景色が立ち上がった。古い廊下、割れた窓、濡れた石壁。その奥に立つ誰かの顔の輪郭が、こちらを見ようとする。
あと一歩だけ視線を伸ばせば、見える。
その瞬間、湊が透の腕を掴んだ。
「相良」
短い声だった。
同時に、横から鋭い声が飛ぶ。
「そこで止まりなさい」
鳴瀬先生だった。
先生は霧の中をまっすぐ歩いてきて、二人の前に立つ。手には開いた万年筆。ニブの先から銀色のインクが一滴だけ落ち、床に触れた瞬間、寄ってきていた霧がぴたりと止まった。
「部屋へ戻れと言ったはずだ」
怒鳴ってはいない。
でも十分に怖い。
「すみません」
二人は頭を下げる。
鳴瀬先生は透の胸元を見た。
「ペン、熱いな」
透ははっとする。
たしかに、布越しでも分かるくらい熱を持っていた。
「旧西棟の霧は、今の一年が触っていい濃さじゃない」
先生はそう言ってから、少しだけ声を落とした。
「見えたものがあっても、いまは取りに行くな。抱えきれない情報は、その場では終わらない。あとで効く」
透には、その意味が分かる気がした。
鳴瀬先生は最後に言った。
「……でも、止まれたのは正解だ。そこは忘れるな」
二人は頷いた。
部屋へ戻る途中、湊が小さく言う。
「怒られたな」
「怒られた」
「でも最後、ちょっとだけ認められたな」
「ちょっとだけな」
二人とも少し笑う。
ベッドに入っても、透はすぐには眠れなかった。窓の外はまだ白い。霧は何も教えない顔をして学院を包んでいる。でも、その奥に何かがあることだけは、もう見ないふりができなかった。




