第128話 森に響く不協和音
――時間は少し戻って、その日の昼頃。
魔女の仕込んだ『影』が天使に絡みつき、その肉体を地に墜とそうとした瞬間のことだった。
「『探偵』が……『助手』を見捨てて!務まるわけないでしょうがああー!」
叫びが、宝石と反応した。
天音の胸の位置から迸ったその光は深海と同じ色をして、音を伴って周囲に炸裂する。そして魔女の脳裏に、思考が閃いた。
(嘘……あれってまさか人魚の――本物!?)
『人魚の涙』と言われる、この世界の水底で採れる宝石。
しかしそれは世間に出回るほとんどが名前だけの粗悪品で、ほとんどが本来の用途を満たしていないものばかりだった。
だから、あの女を捕まえた時も油断した。
まさかどこか遠い森の中の女が、世界でも数少ない『本物』を手にしているなど思いもよらず――
――声が響く。
とっさに魔女は耳を塞いだが、空気を震わすその声は容赦なく周囲の世界全体を震わせ、そこにある全ての精神を水底に叩きこむ。
(……耳、塞いだ、のにっ……!)
体には水滴一つついていない。しかしこの場の全員が、溺れたと、精神が錯覚する。
そして溺れた精神は、ありふれた空気を求めながらも周囲から息を吸うことを許さない。肺呼吸する生物の本能として、溺れたのなら一度息を止めるのだ。
理性の『吸いたい』と本能の『吸うな』が相反して、全員がその場に倒れ伏す。
しかしそれでも、耳を塞いだことでわずかながら回復の早かった魔女は、足を震わせながらも立ち上がった。ありもしない肺の中の水を吐き捨てて、天を見上げ……
(逃がしてたまるもんですか……どうせこの上空は……!?)
墜ちてくる、龍を見た。
泡を吹いて落下する龍は、龍にしては小柄なサイズ。
――せいぜい《《体長数メートルの、小さな龍》》だった。
「最悪……っ!」
悪態をついて、轟音とともに龍が地に落ちた。
その衝撃で一瞬意識を失ったのか、目を覚まし、長い首を振り回し、怒りに雄たけびを上げる龍。
その気ままな行動一つで、周囲で苦しんでいたエルフは魔女含めて土煙に弾き飛ばされた。
「わ、わああああああっ! 龍だ、龍が落ちてきた!」
「応援を呼べ! 大至急だ、こんな数じゃ……ぎゃああああ!」
怒り狂った龍は目を血走らせ、近くにいた鎧のエルフを片端から踏みつぶし、尾で薙ぎ払い、噛みついて放り投げる。
遅れてやってきた更なる応援も荒れ狂う龍には歯が立たず、鎧がひしゃげる音を響かせて宙に舞うか、土に埋まるだけだった。
「た、助けて、助けて誰かあ!」
地獄絵図に、どこかでエルフの精神が崩壊する。
森を守るため選び抜かれた勇敢な戦士は、小さな龍の前になすすべなくその精神を崩壊させて、木に背を預けてへたり込み、迫りくる牙に何一つ抵抗もできず……
「あっ……あ?」
……食われることは、なかった。
見れば虹色の剣が龍の頭を貫いて、その上には女性が一人、立っている。
「無事?」
「は……はい……」
「そう。片付いたわ。アナタ、報告に戻ってくれる?」
「ああ、は、ほう、ほうこく、報……告?」
「分かるわよね? 精神大丈夫?」
「は、はい、報告、報告に、行きます……」
這うようにその場を逃げ出して、とっくに逃げ出した馬やキョルを追うようにして報告に走る。
「かっは……」
ぺっ、と泥を吐き出して、龍の亡骸の上に座る魔女。
土煙を食らったせいでドレスはところどころ破けて、セッティングした髪もボロボロだったが、何よりその瞳には怒りが宿っていた。
そして虹色の大剣を投げ捨てて、地面に刺さったそれは人の形をとる。
「……不覚だった」
「全くよ!」
精霊王は傅いた体制のまま、動くことはない。
そして 魔女はゴーレムとの接続を切って、土くれの体はボロボロと崩れ落ちた。
――そして夜、今に至る。
「貴様……何をやっていたんだバカ者が! 虜囚を逃がしただと!?」
とある小屋の中で、フルメルンは激怒していた。
一応は豪奢な調度品が満ちた小屋の中、小さな机に、椅子が三つ。そのうちの一つに無遠慮に腰かけた魔女が、つまらなそうに言葉を返す。
「逃がした、じゃなくて逃げられた、だって言ってるでしょ。第一、こっちだってあのエサをゴミクズみたいな天使と同じところに収監するなんて聞いてないわよ」
「貴様の土人形と契約できるなどと誰が知るか! 適当に放り込んでおけば死ぬとしか聞いてないぞ!? だからあの檻を教えたのだ! 私の檻から虜囚が逃げたなどと……父上が聞いたら何と言うか!」
まあそりゃそうでしょうね、と魔女はどこか他人事のように聞いていた。
その様子を見て性根を察したのか、
「貴様まさか、この期に及んで土人形で逃げる気ではあるまいな」
「逆に聞くけど、何で私が出てこなきゃいけないのよ。私はこうして安全圏から遊ばせてもらうって言ってあるでしょ?」
「こっちを危険にさらしておいてよく回る口だな……!」
「油断したのは貴方でしょ? こっちは言われた通りに動いてただけなのにその言い草はないじゃない」
「お前のお遊びが無かったら逃げることはなかったろうが! いらん趣味に走った償いはしてもらうぞ、このことはティルティナとも話はつけてある!」
「あらなんだ、もう気づいてたの?」
「バカにするな、貴様らのつながりなどとっくに知っていた。第一、貴様こそその程度は承知の上だろう」
「まあね」
魔女の考え方として、何か不都合があれば殺せばいいのだから、危険な橋を渡ることにためらいはない。相手が王族だろうが何だろうが、殺して逃げれば終わりなのだ。
この世界に、逃げる彼女を追える存在などいないのだから。
「別に最初から、片方だけに協力するとは一言も言ってないわよ?」
「そういうと思ったさ、快楽主義者め」
「光栄ね」
そう言って、ワインを口にする魔女。当然毒などが入っているわけもない。この男にとって、まだまだ自分は存在価値がある……否、自分がいなければ王権が手に入らないことくらいは理解しているのだから。
(ほんっと気楽なのって最高。王位だか王権だか知らないけど、よくやるわよね)
部屋をうろうろしてはみっともなく慌てる自称『王位継承者』を見て、魔女は次の手を考える。と、そこへ扉をノックする音がして、
「お兄様? 相談があるの、入るわね」
返事も待たずに、ティルティナがやってきた。
「なんだこんな時に!」
「こんな時だからこそ、よ。私は私が保証した虜囚を逃がした、お兄様は自分の檻で預かった虜囚を逃がした、責任は同じで良いと思わない?」
「……何が言いたい」
「共同戦線よ。あの小娘を捕まえる。ここにいる面々が、早い者勝ちでね」
「なん……だと?」
「あら、早い者勝ちなの?」
意外な提案に、魔女の声が色めきたつ。
どっちに付こうかくらいは考えていたが、まさか一番面白い提案が降って来るとは思っていなかった。
「その方があなたは燃えるでしょう? もう今更誰が何を考えて用がどうでもいいわ、とにかく今はお父様がヘソを曲げたらそれでおしまい。だったら、みんなで早いうちにお片付けするのが筋ではなくて?」
「仕方ないな。では期限は明朝、獲物はあの人間か」
「念を押させてもらうけど……本当に好きにしていいのよね?」
「ええ構わないわ。少しくらい痛んでいても、『逃げようとした罰』で何とかする。でもお父様に口利きできるのは誰かってことくらいは覚えておいてね? 今だって、どうにか被害の大きさはごまかしてここに来てるんだから」
「貸し一つ、と言いたいのか?」
「好きに判断すればいいわ」
それを最後に言葉は途切れて、魔女はその場から姿を消し、ティルティナは階段を上って外へ出た。
満月の月明かりは昼間ほどではないにしろ街灯もない森を照らし、すぐに監視の視線を感じて姿を消す。
残ったフルメルンは隠し小屋から一本の剣とマント、そして数種の薬瓶と薬草を取り出し、それを数本飲み干して、浮遊の魔法で空を飛んだ。




