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4-3

「ゆるい?」

 一瞬ではかみ砕けず、呆然と晏渢の言葉を反芻する。

 だが……、と兪倩狼も戸惑い気味に続ける。

「戒律では、人の食べ物を口にしてはいけないとかって、夏から聞いたぜ」

「夏さんは、肉も食べるし、酒も飲むんだよ」

 ため息交じりの晏渢の顔は苦い。

 自分の上司が戒律を守っていないという事実は、晏渢にとってはあまり好ましいことではないようだ。

「……いいのか?」

 ――いいわけがない。

 晏渢の食いかかるような眼差しに責められた。

 ごほんと咳払いをし、晏渢は兪倩狼の真向かいにしゃがみ込む。顔を寄せ、「いいか」とまるで講義でもはじまるようだった。

「方士が人の食べ物を口にしないのは、先祖を穢さないためだ。けど、夏さんがいうには、そんな程度で穢れはしないと。だからその戒律を守る必要性を感じないらしい」

「……方力を、人から接種するのはどうしてだ?」

「食べ物が食べられないからだ。だから美味しいものを食う人間から、力を分けてもらうんだ」

 兪倩狼は「ほう」と納得しながらも、じりじりとかゆいほどの赤面を臀の下に覚えていた。

 ふと、ある事実が浮かび上がる。

 ――まて、

 それをすぐさま打ち消そうとして、覆った顔は真っ赤になっていく。

 肉も酒も口にする。戒律を守っていない規則主義者の夏羚が、わざわざ方力を人の身体から接種した理由は、なんだ――?

 手を触れ、口づけをするために戒律を利用したとでもいうのか。

「……饅頭、もか?」

 唇と、指先の冷たさ。夏羚の首筋の香りを思い出していた。大きく感情を揺さぶるあの笑みの意味を、他に何と言えば良い――

「は? 饅頭?」

「食べるんだろ、饅頭も」

「……好き嫌いはないと思ったから、食べると思うが……、さっきから、なんだ? その質問は」

「――晏渢、」

 空気を破る夏羚の声だった。

「脱走者は警戒線を越えていないらしい。捜索範囲も狭まってきている。汝湾の調査の再開を。ここは私だけで構わない――」

 はからず戻ってきていた夏羚に晏渢の顔付きが変わる。

「夏さん、脱走者の騒ぎで報告が遅れましたが、農村の父老は若発(ルオファー)という男です。息子が二人いました。兄の若盛(ルオション)と、その弟が、若汐(ルオシー)です」

 若汐――、

 父老の息子だったのか。

 晏渢はよく調べるやつだと、兪倩狼の緊張も一瞬で戻る。それなら汝湾が処罰に当たらず報告を偽造したのは、若汐のためだといえる。

「――わかった。引き続き、汝湾の足取りを頼む」

 張り詰めたやり取りだと分かってはいる。だが、兪倩狼は夏羚の声を聞くとどうしようもなく目が上げられなかった。

 聞きたいことは山ほどあるのだ。汝湾を捉えた後、若汐はどうするつもりなのか。なぜ、夏羚がここにいるのか、汝湾の呪いと、監査人がきたときの、紫色の光のこと――、

 しかし、思考は手につかず混乱ばかりが募る。

 この際、全て一旦、脇へ置くことにした。

「では、戻ります」

 晏渢の力強い返事にようやく顔を上げる。

 指示を出す夏羚の、透きとおるような頬や目元には表情一つ過らない。

 けれどその無表情の裏に、戒律を利用した狡猾さを思うと、つい、顔が熱くなってしまう。

 それが、耐えられなかった。

「……似非方士(えせほうし)

 ぽつりと漏らした兪倩狼の声に、夏羚が何か察したようだった。

「――晏渢」

 掴もうと伸ばした手が空を掠めた。

 一瞬早く、晏渢は自身の失態に感づき、まるで呼び止める声など聞こえなかったかのように行ってしまったのだ。

 あの様子では、晏渢は中々戻ってこないだろう。

「……晏渢を、責めるなよ。俺から聞いたんだ」

 空を追う夏羚の目つきは一見、普段と変わらない。けれど兪倩狼は自然と晏渢を擁護していた。

 擁護しながら、聞かずにはいられなかった。

 夏羚は晏渢を引き留めた自分の行動さえおかしいと、少しも思わなかったのだ。

 くつくつと笑いが込み上げる。

「……なぜ、晏渢を問い詰めようと? もしかして、俺に知られたくないことでも、あるのか?」

 戒律を言い訳にして触れた理由を言えよ、と兪倩狼は笑う。

 何を考えている、夏羚。

 その心の呼びかけを見透かしたように、夏羚は視線を逸らした。

「……なぜ、お前がここにいる――兪」

 あ、と、兪倩狼は悔しい。

 今回に限って素直でないのが腹立たしくもあった。

 ち、と舌をならす。

「用事があったんだ。まさか、ここがこんなにごたついているとは、思わなかった」

「――罹患者が逃げた。まだ捕縛はできていない。おそらく村の中にいる。方士はその対応にかり出されてここへ」

「俺じゃないって分かっているなら、帛をはずせよな」

「……耐えられるのか」

「なにを、たえ……?」

 どうして耐える必要があるのかと言葉をつまらせる。

 夏羚の躊躇うような唇に視線をそそぎ、その直後、結びあった吐息を思い出してしまった。

 途端、身体中から火が噴き出したのだと思った。

 それほど強烈な羞恥だった。

「――だめだ。くそ、つけたままでいい」

 夏羚の手だけなのだ。

 あの胸の苦しみを植え付けるのは。

 触れられてしまえば、絶え間なく続く欲求に抗わなければならない。それはもう、我慢できるきがしない。

 次にまた同じように迫られたら、確実に拒絶しきれなくなってしまう。

 そのことに、兪倩狼は気づいてしまった。

「くそ……、かわいげのない、融通の利かない頑固者。憎たらしい似非方士め……」

「……ああ」

 ふっと笑う夏羚の、冷淡でありながら、肯定する声色はやわらかい。

「……認めるなよ」

 反発が、本音でないことも見透かされている。

 肌の赤さと、頼りない顔をみせまいと、兪倩狼は外衣をきつくかき寄せた。

 帛からのびる見えない紐も、いつの間にか縮んでいたらしい。

 ついこの間までは十歩二十歩と離れて引きずられていたはずが、今はたった五歩ほどしか離れていない。

 膚の香りもわかるほどの距離。

 少し蹌踉めいただけで、触れてしまえるほどの距離であった。


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