4-1
「これが? 指輪みたいだな。俺の指にも、同じ色の玉があるぜ。先生からもらったんだ」
「弓を射るからか? 指の保護に、もらったのか」
若汐の親指に鮮やかな水色の指輪が嵌められていた。
なるほど、確かに方士の絡子環と似ている。
それを撫でる若汐の様子に兪倩狼は苦笑いを零していた。
「そんなに嬉しいのか?」
「俺にくれたんだ。先生は、優しいから、俺の事を怒らない。俺の病も治すと言ってくれる。誰よりも優しくて良い先生なんだ……」
「……優しいね、」
兪倩狼は口ごもる。
柔和な印象の青年ではあるが、その本性は不正を働き、罹患者以外の命も蔑ろにするいけ好かない方士だ。兪倩狼は忘れていない。
二人がどういう経緯で出会ったのかは分からない。何か特別な絆が生まれているのかも兪倩狼にはわからなかった。それでも、汝湾を盲信し、優しいというだけでその存在にもたれかかるような若汐の危うさが気になった。
同じ、罹患者としての仲間意識がふっと、芽生えてしまったらしい。
仕方のないやつだと、兪倩狼はぽつりと漏らす。
「俺が感染したのは、十年前だ」
彼のもたれかかる柱が沈んだとき、支えになる杭でも傍にあれば、一緒に沈まずにすむと思ったのだ。
「その日、俺は死んでいて、目が覚めたら、耳と尾が生えていた。こうやって歩いて喋っていられるのは、天が養っているからで、だからまだ生きていられる」
嘘くさい話しだとそっぽを向くか――、
しかし、若汐は案外興味深そうに、重い瞼の下で目を輝かせた。
「じゃあ、俺も、天が養ってくれたらいいな。そうしたら、俺が先生を祀れる」
祀る人間がいると、汝湾が力をつけてしまうのではないか。それは少し厄介だぞと内心汗をかきながらも、だが折角心を開いてくれそうなのに冷たくそんなことは止せと、言えなかった。
「……そのかわり、良い子でいろよ」
若汐の笑みが懐かしむような色に変わっていた。
「兄上のようなことを、言うんだな、お前……」
「七つか八つは年が上だ――、汝湾に会いたくないからもう行く。もし話したいことがあれば、海岸にいるから」
見張りの方士を確認し、闇の中を駆け抜けた。その背中に、素直な若汐の声を聞く。
「――先生の名前、教えてくれてありがとう」
自信なさげに俯く若汐を目尻に留め置き、去り際に、汝湾に傷つけられなければいいと、そう願っていた。
弟妹の姿を若汐に重ねていた。
初夏の雪の中に消えていった、遠いあの日々をどこかで求めている。
兪倩狼は憂鬱さを拭い、駆けていく。
鬱然としがらむような森を抜けると、目の前に突然、黒く渦巻く不気味な海口があらわれた。
瘴気の漂う、古い漁村であった。
今しがた、違反者を乗せた船がゆっくりと沖へ流れていくところだった。
気の荒んだ方士が村の中を煩わしく行き交い、付近の雑木林や、岩礁の影を執拗に荒らし回っている。
この騒ぎはおそらく、脱走者をだしたのだろう。
しかもこの様子ではまだ行方を掴めていないらしい。
騒然とした気配に、間が悪かったと後悔がにじむ。
兪倩狼は早々に家屋の中に忍び込み、天井付近に架けられた梁を跨ぐように腰掛けていた。
壁に寄りかかりながら、しばらくは息をひそめて隠れているしかない。
腕輪に結んだ冬青の花を暇つぶしにくるくると触れる。
蘇ってから一年ごとに結んでいた花だった。今年で十年目。冬青の花も十個結んであるはずだった。それが、一つ、どこかで落としたようだ。何度指先で数えても九つしかない。
ないからと言って、特別困るものでもなかった。ただ、竹かごの編み目から、まるで砂が零れ落ちていくようにとりとめのない歳月を見失わないためにつけていただけなのだから。
百個目の花が結ばれるまでは、まだ人間らしく時間に縛られていたいと、そう思う。
その暗澹とした思考が砕かれるように、不意に潜んでいた家屋の戸が開かれた。
慎重な靴音が、ゆっくりと室内に入ってくる。
方士か――、
梁は高く天井も暗くかげっているのだから、身じろぎさえしなければ気づかれない。
脱走者を探しに来ただけなら、隠れるようなところもない家屋に長居することもないだろう。
おそらくすぐに出て行くだろう。
その予想に反して、方士の持つ燭が部屋中を舐めるように掲げられた。影という影を照らして探そうというのだ。
随分、几帳面なやつ――、
男は天井に潜む兪倩狼など気づきもせず不用心にも部屋の中央まで進み出ていた。
もし凶悪な脱走者なら、今すぐ飛びかかって制圧しているぞ。
その愚かさを上から見おろして、くく、と喉を鳴らして笑う。
融通の利かない、面白みのない面構えに違いない。その方士の目が少し上に向けられた。
兪倩狼からは彼の顔がよくみえる。
その容貌を目にした途端、予期せず、氷霜のたばしりに灼かれていた。その胸の痛みを覚えていたのだ。
――こいつ
燭の灯りに照らされた美しい髪の色が、蝋燭の明かりではなく、一本一本が美しく自ら光り輝く松花色なのだと、ようやく気づく。そして金の睫に縁取られた、海の色の瞳。
研ぎ澄まされた冷たい顔立ち。
異国の風貌が混ざった、美しい男。
「……夏羚、」
危うく声を上げかけて、咄嗟にのみ込む。
しかしすぐに、彼を驚かすには絶好の機会ではないかと頬が高揚していく。
さっと指に巻き取った蜘蛛の巣は生糸の輝きを帯びていた。夏羚は部屋の中をじっくり見回し、天井に潜む気配には気づいていないようだ。
しめた――、
面目を晴らす機会は他にない。
すかさず背後に飛び降りた。
指に絡めた糸はひたりと夏羚の首に巻き付いていた。
喉元にそっと爪の先を押し当てて、まだ兪倩狼と気づいていないその方士に、なんて言ってやろうかと浮かれる。
屈伸でもさせるか。
転がれと、言ってみるのもいい。
つま先を立て、耳元に近づこうと伸び上がったとき、
「……兪、……兪倩狼――」
名前を囁く夏羚の、その微かな声に心がとけていく。
蕾が小さな音をたてて花開くような、優しい声。
そのあまりに肌のさざ波を立てる声に、兪倩狼はわけが分からず飛び退いた。
「き、気づいて……」
掠れた声に唾をのむ。




