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プロローグ 謎の書置き

 スーパーでの買い物を終えた霧島遼(きりしま りょう)は自転車を押してアパートの敷地に入った。

 駐輪場へ向かう途中、共用部の郵便受けに目をやると、薄い紙の端が初夏の夕暮れの風に揺れていた。


「催し物のお知らせかな?」


 地域の行事や連絡があると、自治会が各部屋の郵便受けにチラシを入れる。今回もそれだろうと思い、紙を引き抜いた。

 しかし出てきたのは想像より遥かに小さな紙切れだった。


「……いや、流石に小さすぎないか?」


 名刺サイズのその紙には、何やら手書きで書かれているようだった。

 見やすいよう夕暮れの太陽が当たる場所まで移動し、その紙に書かれた内容を確認する。


『牛乳を買って』


 その六文字は、細く整った筆跡で書かれていた。何となく、女性の字のように見える。

 一瞬、誰に向けたもの分からず、なんとなく左手に持つレジ袋の中身を確認する。

 ……あれ?本当に買い忘れてるじゃん。

 この紙を入れた人物が、まだ近くにいるかもしれない。

 辺りを見渡してみると、塀の傍で気配を消すように歩く野良猫と、夕日を背に満面の笑顔で手をブンブン振りながらこちらに向かってくる姉が視界に入る。

 それ以上何も有益な情報がなかったので再び視線を書き置きに戻すと、人生で最も聞き慣れた声が近づいてきた。


「ちょっとー!なーんで見なかったことにしようとするの!?」


「いや、ちょっと考え事をしてて」


「アンタの可愛いお姉ちゃんがファンサしながら帰ってきたのよ?それより大事なことなの?」


「んー、そうかも」


「ちぇー、遼つめたーい」


 わざとらしく唇を尖らせる姉を見て、念のため質問する。


「あのさ、この書き置きって姉さんが書いたやつ?」


「んー?いや、こんな書き置きした覚えはないけど」


「だよね~」


 姉である霧島咲来(きりしま さくら)の文字の書き方とは明らかに違うのは最初から分かっていた。それでも、友人に頼んだ可能性は考えられる。

 しかし身に覚えのなさそうな反応を見るに、どうやらその予想は外れてしまった。

 推理を続けようと書置きに視線を戻すと、少し不機嫌になった姉が無理やり視界に割り込んできた。


「あのさ」


「……何?」


「あたしの好きなアイス、溶けそうなんだけど」


「……、ごめん」


 レジ袋をもう一度見ると、初夏の暖かさでアーモンドチョコアイスの包装が汗だくになっているのが見て取れた。

 これ以上姉の機嫌を悪くさせると面倒なので、一旦書き置きの事は思考の隅に追いやり、姉の機嫌を取りつつ部屋へ向かう事にした。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 晩御飯を作り、姉の学校であった出来事を聞きながら食べた。残った料理を冷蔵庫に入れ、空いた皿を洗う。姉が風呂から上がるのを待っていると、書き置きのことが再び頭に浮かんだ。

 今日スーパーで誰と出会ったか思い返してみるが、レジ打ちの早いパートのおばさんと鮮魚コーナーで割引シールを貼るおじさん等、あまり関わりのない人物しか思い浮かばなかった。

 少なくとも特売の牛乳を、俺が今日買わなきゃいけない事を知っている人も居なかったように思うし、仮に居たとしたら俺に直接言いに来るはずだ。

 考えれば考えるほど謎は深まる。

 そんな風に思考を凝らしていると、いつの間にかモコモコのパジャマを着た風呂上がりの姉が身を寄せてきた。


「なんか今日帰ってきてからずっと考え事してるけど、もしかしてあの書置きの事?」


「まぁ、そうだね」


「ちょっと見せてもらってもいい?」


「はいよ」


 シトラスの香りを漂わせる長い髪を後ろに流しつつ、手渡した書置きの文字を観察する。


「ん~、あたしの知ってる限りだとこの字の書き方する子は居ないかも」


「そっかー」


「でも、少なくとも女の子の字だよ?コレ」


「やっぱりそう思う?」


 俺と同じ推測に姉も辿り着いたようだが、特にそれ以上の考えは思いつかない様子だった。

 ところが、何か別の考えが浮かんできたようで、徐々に表情が険しくなる。


「もしかしてこれ、アンタの事を好きな子が入れてったんじゃない…?」


「……えっ?」


「多分超絶イケメンでモテモテのアンタに少しでも関わりたくて、こういう奥手な事してるんだわ!」


「……ふーん」


 思わず出てしまった適当な返事を意にも介さず、「なんたってこのアタシの弟なんだからそういう事もあり得るわよね……」などと意味の分からない戯言をブツブツと呟きはじめた。

 明後日の方向に思考が飛ばされ始めた姉の姿を見て、これ以上聞いても無駄だと悟り、俺は大人しく風呂に入ることにした。


 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~


 湯船に浸かるという習慣は、とても素晴らしいものだと思う。

 その日の汚れや垢を落とすだけに留まらず、全身で安息効果を享受でき、つい鼻歌が漏れ出てしまう程度に心地よくなってしまった。

 湯船の温もりを抱えたままお風呂から上がり、最近ハマっている乳酸菌飲料を飲もうとリビングに行くと、真剣な表情をした姉がこちらを凝視している。


「え、なに?」


「アンタってさ、ホント無防備よね」


「はぁ……」


 未だに明後日の思考から帰ってきていないようだ。


「いつか遼に彼女ができるのかーって考える度に、あたし不安で不安でしょうがないのよ」


「なんでだよ」


「だってあんた自分がモテるって事自覚してないでしょ?」


「いや、自覚するわけないでしょ」


「なんでよ!」


「なんでもなにも、今まで色恋沙汰とは無縁だったからに決まってるじゃん」


「いーーや!あたしがモテてるんだから遼がモテない道理はないわ!」


「そんなこと言ったってなぁ……」


 自分で言ってて辛くなってきたが、事実俺はこれまで告白イベントとか女の子とデートとか、そういった類の青春とは無縁の生活を送ってきているのだ。

 中学の頃も、姉がモテるなら俺も頑張ればワンチャン……?という思春期特有の考えと勢いで、モテるためにテニス部入ったり身だしなみに気を遣ったりと形から入ってみたものの、結局卒業まで告白とかはされなかった。


「はぁ……、まぁいいわ。どうせそのうち嫌でも自覚するようになるわよ」


「ハイハイ。ってか姉ちゃんこそ、そろそろ彼氏作ればいいじゃん。それこそ一昨日告白してきたって言ってた後輩君とか」


「あのね、仮に相手があたしの事を好きでも、そもそもあたし自身が相手の事を好きじゃないの。だからと言って嫌いってワケじゃないけど、あの子じゃあたしの彼氏になり得ないわ」


「でも、付き合ってみたらそのうち相手を好きになっていく事もあるらしいじゃん?」


「否定はしないわ。実際そういう子もいるし」


 だったら、と言いかけたところで姉は眼前まで距離を詰め寄ってきて、人差し指で俺の額を押しながら念を押すように話し始めた。


「あたしはね、あんたがリア充してる姿を見届けるまでは絶ッ対に彼氏は作らないわ」


「でも何度も言うけどさ、俺には需要がな……」


「需要がないって決めるのは、せめて高校3年間が終わってからにしなさい。たかだか十数年程度の人生経験しか積んでない分際で、自分の需要を決めつけるのはナンセンスよ」


 いや、姉ちゃんも俺と同じくらいの時間しか人生経験ないじゃん。

 とは言い出せない程、いつになく真剣な表情で諭されてしまった。

 確かに姉の言う通りなのかもしれない。

 事実、自分の周りに知り合いの女子が全くいないわけではないし、何より――


「形はどうであれ、ホラ。ここに遼の事をよく見ている女の子が居るじゃない」


 優しい笑顔で俺を見つめてくれる姉を見て、俺も決心ができた。


「そうだよな……。ありがとう、姉ちゃん」


「うん。だから、あたしをもっと――」



「俺、あの書き置きを残してくれた女の子の事を、もっと知ってみようと思う!」



「……は?」


 まるで鳩が豆鉄砲を食らったかのように固まる姉の手から書き置きを取り、晴れやかな気分でリビングを後にする。

 俺は今まで恋愛に対して奥手すぎたんだ。

 この書き置きを残していった子も、きっと奥手に違いないし、何よりも興味が湧いてきた。


「そう考え始めたら、学校が楽しみになってきたな~。明日からどうしよっかな~」


 女の子かどうかさえ分からない相手に思いを馳せながら、俺は浮かれた気分のまま眠りについた。


 この時の俺はまだ、物事の本質に気付いていなかった。

 自分の思いどおりに事が進むほど、青春というものは親切にできていないということを――。




お読みいただきありがとうございます。

次話「クラスメイト」は、9月8日20時に更新予定です!

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