第3章 第81話 目盛りのない筒
第3章 第81話 目盛りのない筒
水の量を確かめるには、その硝子筒は頼りなかった。
朝の光を受け、細い筒は淡く青く光っている。透明なので水面は見える。けれど、横からのぞけば筒の腹はわずかにゆがみ、底も平らではない。口の厚みまで場所によって違っていた。
まっすぐな筒に、等しい間隔で線が刻まれていれば、量れるように見える。
だが、この筒では、同じ高さまで水を入れても同じ量になるとは限らない。
ソーマは筒を作業台へ置き、その脇に昨日の水差しを並べた。水差しにある太い三本の線では、少なめと基準、その間を比べられない。
だからといって、この硝子筒をすぐ正しい測定器と呼ぶわけにもいかなかった。
「これで、水の量が分かるの?」
ナーシャが筒をのぞき込む。
「分かるようにしたい」
「今は?」
「今は、量をそろえる練習をするための筒?」
ユーリが小さく笑った。
「名前が長いな」
「水量筒一号、でいいと思います」
セラが答えた。
フェルデは、硝子筒を光へ透かした。
「何を作る」
「正確な目盛りまでは求めません。同じ人が、同じ水を、同じように入れたときに、だいたい同じ高さを読めるための仮の印です」
「それで昨日の水差しより細かくなるのか」
「なるかどうかを、先に確かめます」
ソーマは記録紙の表題に書いた。
水量筒一号。仮目盛りの作成。
水の扱いを比べる前に、水を同じように取れるか確かめる。昨日フェルデが言った順序を、ソーマは守りたかった。
机の端には、朝に同じ桶から汲んだ水がある。その水を、リゼットが洗い場で使う小さな注ぎ椀へ入れる。椀の内側には、今日のために一本だけ仮の線が引かれていた。
その線まで入れた水が、本当にどれだけなのかは分からない。
ただ、同じ椀を同じ線まで使い、同じ人がゆっくり注ぐなら、何度も同じ程度の水を入れられるかもしれない。
それが今日、確かめたいことだった。
「最初から、筒に線を刻まないんですか」
セラが尋ねる。
「刻んだら、間違っていても直しにくい。まずは台の横に印をする」
ソーマは硝子筒を、木の台に立てた。筒が傾かないよう、台のくぼみに合わせる。台の横へ細い紙片を貼り、水面の高さが来たところに鉛筆で印を付ける。
紙片なら、位置が悪ければ貼り替えられる。
「筒はここから動かさない」
メイナが台を押さえながら言った。
「傾けば、見える高さが変わるから」
「はい。読む人も、今日はソーマにします」
「目の高さは?」
「台に立った印のところ。横から見ます」
水面は、筒の壁の近くで少し持ち上がり、中央が低く見える。ソーマはナーシャに、筒の正面からではなく横に立ってもらった。
「真ん中の低いところを、この高さで見る」
「上から見ちゃだめ?」
「上からだと、違う高さに見える」
「水、見え方まで変えるの」
「水が変えるというより、見る人が変えてしまう」
ナーシャは真剣な顔で、台の横の印を見た。
最初の注ぎは、失敗だった。
リゼットが椀の線まで水を入れ、慎重に筒へ注いだ。ソーマが水面を読んで紙片へ印を付けようとしたとき、筒の外側に細い滴が残っているのが見えた。
椀の口から伝った水だった。
「入った量が減ってるかも」
ソーマが言う。
少ない水滴でも、仮目盛りを作る最初の操作なら見逃せない。今日は材料を使っていない。やり直すなら今だった。
ソーマは紙片の印へ一本線を引き、失敗した理由を書き添えた。
注ぎ口に滴。基準として使わない。
消すのではなく、使わないと残す。
「最初からやり直すの?」
ユーリが言った。
「この印を、後で間違って使わないために」
「面倒だな」
「面倒だけど、今ならやり直せる」
材料を混ぜた後で分かるより、水だけで分かる方がずっとましだ。ソーマはそう思った。
二度目からは、注ぐ人と動きも決めた。
椀を持つのはリゼット。
椀の線まで水を入れる。
筒の口の少し上で止め、外側へ触れない。
注いだあと、外側に滴がないかをセラが見る。
ソーマが台の横の紙片で水面を読む。
細かく書きすぎれば、作業そのものが重くなる。
だが、今日の五つの手順は、同じ操作を繰り返すために最低限必要だった。
リゼットが一杯目を注ぐ。
ソーマは台の印の高さまで目を下げ、水面の中央を見た。セラが紙片へ小さな横線を引く。
二杯目。
三杯目。
筒の下の方では、水が少し増えただけで、水面が大きく上がったように見えた。中ほどでは、同じ椀の水を入れても、上がり方がゆるく見える。
「線の間が、そろわない」
ナーシャが言った。
「筒の中の広さが、場所で違うからだと思う」
「じゃあ、線が曲がってるの?」
「線ではなく、筒の方がまっすぐじゃない」
ソーマは、等しい間隔で印を付けなくてよかったと思った。
等しい量を入れたつもりでも、今の注ぎ椀では完全に同じとは言えない。それでも、同じ手順で三度繰り返した高さが大きく外れなければ、この筒は「三本の線だけの水差し」より細かな段階を作る助けになると思う。
午後、ソーマたちは、同じ操作をもう一度行った。
今度は、朝とは少し違う高さに水面が止まった。
大きな差ではない。けれど、ぴたりと同じにもならない。
「筒がだめ?」
ナーシャが言う。
「筒だけのせいにはできない」
ソーマは一杯目と二杯目の印を比べた。
椀へ入れた水面の読み方が違ったのかもしれない。筒の壁に小さな泡が残ったのかもしれない。筒が水平に置けていなかったのかもしれない。
理由は、一つに絞れなかった。
だから、水量筒一号を「水の量を正しく量れる器具」と書くことはやめた。
代わりに、記録にはこう残した。
仮目盛りは、同じ操作を繰り返すための高さの目安になる可能性がある。
注ぎ椀と読む位置を固定しても、印は完全には一致しなかった。
材料試験へ使う前に、同じ線まで水を二度取ったときの差を、さらに確かめる。
フェルデが、その記録を読んだ。
「筒一本のために、一日使ったな」
「はい」
「無駄だったか」
ソーマは硝子筒を見た。
ゆがんだ筒の横で、紙片の印が不揃いに並んでいる。見た目は、きれいな測定器から遠い。
「無駄ではありません。これを使ってよいか、まだ決められないと分かりました」
フェルデは、わずかに口元を動かした。
「それも結果だ」
リゼットは注ぎ椀を拭きながら言った。
「洗い場では、量をそろえたい時、同じ器を同じ場所に置く。ぴたりと同じかより、毎回大きく違わないことが大事な時もある」
「工房の配合なら、どこまで違いを許すかを決める必要があります」
「なら、その決め方も作るんだね」
「はい。今はまだ、許せる差が分かりません」
他の器を試す考えも、ソーマにはあった。
丈夫な陶器。
金属の容器。
透明な硝子以外。
だが、今日はその候補を記録するだけにした。新しい器を次々と増やせば、また何を比べているのか分からなくなる。
まずは、水量筒一号を二度、三度使い、どのくらい同じように使えるかを見る。
それから初めて、昨日の三本線の間にある水量を使った比較へ戻る。
「名前、変えないの?」
ユーリが聞いた。
「水量筒一号のままでいい」
「仮の器なのに?」
「仮だから、番号でいい。次があれば二号にする」
セラは紙片の横へ、札を立てた。
水量筒一号。
仮目盛り。
材料試験には未使用。
同じ操作の再現確認中。
その札を見て、ソーマは少しだけ肩の力を抜いた。
目盛りは、筒に線を付ければ生まれるものではない。
同じ水を、同じように入れようとして、ずれた理由を残していく。その積み重ねがあって初めて、線は次の試験へ渡せる。
筒の中の水面は、わずかに揺れていた。
ソーマはその揺れを、急いで止めようとはしなかった。
まずは揺れることを知る。
水量を決めるための最初の仕事は、そこからだった。
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