第1章 第8話 藁係のリナ
第1章 第8話
藁係のリナ
藁は、同じ長さには切れなかった。
リナの小さな指が押さえた束は、刃を入れるたびに少しずつ逃げる。短く切ったつもりのものが一本だけ長く残り、揃えたはずの端から細い穂先が飛び出した。乾いた藁の匂いが朝の裏口に広がり、指先にはざらざらした繊維の感触が残る。
けれどリナは、今日はその乱れが気になって仕方なかった。昨日まではただの藁だったものが、いまは壁材のひびを止める役目を持っている。ソーマがそう言ったからだ。そう聞いた瞬間から、床に落ちた屑だった藁は、自分の仕事になった。
《鷹のくちばし亭》の裏口では、朝の洗い物が一段落していた。沈み場の麻布は引き上げられ、泥と野菜屑は畑の端へ運ばれている。壁際の排水溝には細い水が残り、昨日塗った白い補修材は薄く湿っていた。大きな剥がれはない。
だがソーマは、それを成功とは呼ばなかった。
リナはもう、その理由を少し知っている。
今日は見た目ではなく、作り方を揃える日だった。
「長さが、ばらばらです」
ソーマは藁の束を見て言った。責める声ではなかった。それでもリナの胸は少し縮む。
「揃えたつもりだったんだけど」
「分かります。切るときに藁が逃げるので、揃えるのは難しいです」
「じゃあ、だめ?」
「だめではありません。ただ、どれくらい長さが違うと悪くなるか、まだ分かりません」
また、分からない。
けれど以前より、その言葉は嫌ではなかった。ソーマの「分からない」は、投げ出すための言葉ではない。これから条件を見極めるための言葉だと、リナは知り始めていた。
ソーマは木板を取り出した。炭で長い線、中くらいの線、短い線が引いてある。昨日の水の地図とは違う、藁を切る長さの目印だった。
「この線に合わせて切ります」
「板を汚していいの?」
「父上から、古いものをもらいました」
「いいなあ。実験用の板」
リナは言ってから、自分でも少し驚いた。
宿の仕事は毎日ある。水を汲み、布を洗い、鍋を運び、客の忘れ物を片付ける。どれも大事だが、名前がつくことは少ない。けれど「藁係」と言われた昨日から、自分の手元に小さな役割が生まれた気がしていた。
「欲しいですか」と、ソーマが尋ねる。
「うん。わたしも、自分の印をつけたい」
「では、あとで小さい板を探しましょう」
「本当に?」
「リナさんが記録するなら、僕だけより間違いに気づけると思います」
リナは返事をしようとして、うまく声が出なかった。
ただ手伝ってと言われたのではない。自分の目が必要だと、ソーマは当たり前のように言った。胸のあたりが、湯気に触れたように温かくなる。
ソーマはもう次の材料を見ていた。人の顔より、土や藁や水の動きを見ている時間の方が長い。けれど、何かをまっすぐ見る横顔を、リナは嫌いではなかった。
「リナさん?」
「なに?」
「手、切らないようにしてください」
「分かってる」
慌てて返事をして、リナは藁の束を押さえ直した。
観察。
前回見つけた配合は、白石の練り物、砂、少量の粘土、短い藁だった。薄く塗ればひびは減った。だが同じように作ったつもりでも、藁が長ければ固まり、短すぎれば働かないかもしれない。量が多ければ隙間を作り、少なければひびを止められない。
ソーマが昨日の試験片を木片で軽く押すと、藁が偏ったところには小さな盛り上がりがあり、その脇に細いひびが走っていた。
混合ムラ。
材料がよく混ざっていない場所が、弱い場所になる。
仮説を立てる。
藁は短く揃え、入れる量を少なくし、先に砂と混ぜてから白石の練り物を加えれば偏りにくいのではないか。粘りのある材料へ後から藁を入れると、藁どうしが絡み、団子になる。乾くとその周囲に隙間ができる。
ただし、藁を先に砂と混ぜると軽くて飛びやすい。強い風の日には難しい。作業場所も限られ、厨房の道具を汚すことはできない。使えるのは割れた大鉢、木片、古い板、そしてオルグから預かった少量の消した白石だけだった。
ソーマは作業順を三つに分けた。
一つ目、これまでどおり、全部を一度に混ぜる。
二つ目、砂と藁を先に混ぜ、そのあと白石と粘土を加える。
三つ目、藁を水で軽く湿らせてから混ぜる。
リナは木板の線に合わせ、藁を切った。細い破片が袖に入り込んでくすぐったい。それでも自分の役割だから、手を止めない。
「このくらい?」
束を差し出すと、ソーマは木板の線に合わせて見た。
「だいたい同じです」
「だいたい?」
「完全に同じにはできません」
「でも、さっきはばらばらって言った」
「ばらばらを減らします。なくすのは難しいです」
リナは少し考えて、頷いた。
「じゃあ、ばらばらを減らす係」
「はい」
ソーマが真面目に頷くので、リナは笑いそうになった。
実験。
一つ目は、これまでどおりに混ぜた。白石の練り物に砂と粘土を加え、最後に藁を入れる。木片で混ぜると、藁はすぐにまとまり、白い泥の中に毛玉のような塊を作った。
「これ、昨日も見た」
「はい。ムラがあります」
二つ目では、乾いた砂に藁を先に混ぜた。藁は砂の中に散り、そこへ白石の練り物と粘土を加える。混ぜ始めると、一つ目より均一に見えた。
ソーマの表情が少し明るくなり、リナはなぜか自分まで嬉しくなった。
三つ目では、藁を軽く湿らせてから入れる。飛びにくくはなったが、今度は藁どうしがくっつき、小さな束になった。
「濡らしたらだめ?」
「濡らしすぎたかもしれません」
「わたし、水つけすぎた?」
「いえ。僕が水の量を決めていませんでした」
ソーマは三つ目の木板に炭で印をつけた。湿らせすぎ。束になる。
自分の失敗が、怒られるものではなく、板に残るものになった。少し恥ずかしい。けれど、消されないことは嫌ではなかった。
試験片を薄く塗る。一つ目は藁の塊のところが盛り上がり、表面が乱れた。二つ目は最も均一に広がり、木片で一度ならすだけで形が整う。三つ目は湿った藁の束が表面から飛び出し、その周囲へ白石の練り物が集まった。
ここでソーマが失敗した。
二つ目がうまく見えたため、同じ方法で少し大きな試験片を作ろうとした。実際の溝に近い大きさで試したかったのだ。だが大鉢の中で量を増やすと、混ぜ方が変わった。底には砂が残り、上の方だけ白石が多くなる。
板に塗ると、端はざらざらし、中央は白く柔らかい。
「こっちとこっち、色が違う」
リナがすぐに気づいた。
ソーマは手を止めた。小さな量では混ざっていたのに、量を増やすとムラが出た。木片の長さも足りず、鉢の底まで届いていない。
小試験から量を増やしたときの失敗だった。
前世でも何度も見た。小さな試験でうまくいった配合が、大きくすると混ざらない。熱が逃げない。沈む。固まる。設備が追いつかない。こんな小さな大鉢でも、同じことが起きる。
「……これは、失敗です」
「使えない?」
「このままでは使えません。混ざっていません」
「でも、わたし気づいたよ。色が違うって。全部だめになる前に分かったんじゃない?」
ソーマは顔を上げた。
その通りだった。リナが気づかなければ、そのまま塗り、明日になってまた割れや剥がれを見たかもしれない。
朝、自分で言った言葉が戻ってくる。リナが記録すれば、自分だけより間違いに気づける。
「ありがとうございます。リナさんが見てくれて助かりました」
リナは藁を持ったまま目を丸くし、耳の先まで赤くなった。
「べ、別に。色が違っただけだし」
「それが大事です」
自分は役に立てた。その事実は、リナの胸に小さく、秘密のように残った。
修正。
大きく混ぜる前に、混ぜる順序だけでなく、混ぜ方も決める必要がある。ソーマは大鉢の中身を捨てず、木片で断面を見るようにかき分けた。底に砂が溜まり、上には白石の多い柔らかい層がある。藁は中央に多く、端に少ない。
人が変わっても同じように作るには、手順を決めるしかない。
標準化。
ここで必要なのは難しい規格書ではない。リナや宿の人が見ても分かる、短い手順だ。
ソーマは木板に絵を描いた。
一、乾いた砂を広げる。
二、短い藁をふりかけ、先に混ぜる。
三、白石の練り物を三回に分けて入れる。一度に入れない。
四、粘土を少し加える。
五、鉢の底から返すように混ぜる。
六、色が同じか見る。
七、塗ったら撫ですぎない。
「何回、混ぜるの?」
「まず十回にしてみます。足りなければ変えます」
「じゃあ、わたし数える」
「お願いします」
再実験では、リナが藁をふり、ソーマが砂と合わせる。白石の練り物を少しずつ入れ、リナが声に出して数えた。
「一、二、三……」
十まで数えたところで色を見る。まだ白い塊が残っていた。
「足りないです」
「じゃあ、あと五回?」
「はい」
「十一、十二、十三、十四、十五」
今度は色の差が減った。底を返すと、まだ少し砂が残っている。さらに五回。
二十回で、ようやく全体が似た色になった。藁も大きな塊になっていない。完全ではないが、最初よりずっとましだった。
「十回じゃ足りなかったね」
「今日は二十回にします」
「明日も二十回?」
「同じ材料なら、たぶん。でも量が変わったら、また見ます」
「面倒だけど、分かりやすい」
「それが大事です」
試験片を塗る。今度は少し大きくしても色のムラは少ない。薄く、表面を撫ですぎず、端を押さえる。リナは藁の飛び出しを見つける係になった。飛び出した藁は無理に押し込まず、大きく出ているものだけ除く。
日なたと日陰に分け、乾燥を見る。
待つあいだ、グレッグが壊れた木箱の側板を切り、リナへ小さな板をくれた。彼女は短い藁の絵と、数字の二十を描く。字は少し歪んでいたが、本人は満足そうだった。
「これ、藁係の板」
「いいと思います」
「ソーマの板より小さいけど」
「持ちやすいです」
リナは板を胸に抱えた。
午後、試験片に最初の変化が出た。手順を決めて混ぜたものは、藁の塊が少ない。ひびは入ったが、細かく止まっている。日なたのものは少し割れやすく、日陰のものは乾きが遅く、まだ評価できない。
水を少し流すと、表面は濡れたが大きく剥がれなかった。
小さな成果だった。
「リナさんの板にも書きますか」
「いいの?」
「リナさんの記録です」
リナは炭を受け取り、少し迷ってから書いた。
二十回。色を見る。藁のかたまり、少ない。
字は不揃いだった。けれど、そこには彼女が見たものが残っている。
「わたし、これなら覚えられる」
「僕も助かります」
「また助かるって言った」
「助かっています」
ソーマがあまりに真面目に言うので、リナは顔を背けた。頬が熱い。厨房の火のせいではないことが、少し恥ずかしかった。
夕方、グレッグが試験片を見に来た。
「今度は前よりましそうだな」
「まだ分かりません」
「分からないのは分かった。で、明日も見るんだろう」
「はい」
「リナもか」
リナは板を抱えたまま頷いた。
「見る。藁係だから」
グレッグは一瞬驚き、それから大きく笑った。
「そうか。なら藁係には、夕飯前に手を洗わせないとな」
「洗うよ!」
リナは頬を膨らませたが、どこか誇らしげだった。
ソーマは静かな安心を覚えた。自分一人で見て、一人で考え、一人で失敗するのではない。リナが藁を切り、ムラを見つけ、数を数え、記録する。グレッグが作業場所を示し、オルグが職人の手順を教える。
技術は、人のあいだに置かれたとき、少し強くなるのかもしれない。
翌朝、手順を決めて作った試験片は、前回より均一に乾いていた。細いひびはあるが、大きな浮きはない。水を流してもすぐには剥がれなかった。
「二十回、よかった?」
「よかったと思います」
「じゃあ、藁は短くして、砂と先に混ぜて、二十回」
「今の量なら、です」
「うん。今の量なら」
彼女はちゃんと付け足した。
けれど、次の問題はすぐに現れた。リナの板を見た宿の下働きの少年が、自分も手伝うと言い出した。グレッグも、補修を少し広げられるなら、忙しい時間には別の者に混ぜさせたいと言う。
人が増える。
手が増えるのは助かる。だが、手が増えれば作り方もばらつく。二十回混ぜるといっても、人によって力も速さも違う。藁の長さ、砂の量、白石の練り物の柔らかさも変わる。
標準化は、二人のあいだだけでは足りない。
ソーマはリナの小さな板を見た。そこには短い藁の絵と、二十の数字がある。
これを、ほかの人にも伝わる形にしなければならない。誰が見ても同じ長さ、同じ量を取れる道具が必要だった。
「藁係、増えるの?」
リナの声には、誇らしさと不安が混じっていた。自分だけの役割が人へ渡ってしまう寂しさ。
「リナさんは、藁係の最初の人です」
「最初?」
「はい。次の人に教える先生役もできます」
リナは板をぎゅっと抱えた。
「じゃあ、ちゃんと書かないと」
「はい」
藁を切る長さ。ひとつまみの量。砂と先に混ぜる順番。二十回という数。色を見ること。撫ですぎないこと。
それらを言葉だけでなく、道具と印にしなければならない。
白い壁材は少し強くなった。けれど今度は、人による違いという目に見えにくいひびが現れ始めていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




