第2章 第63話 黒砂の地図
第2章 第63話 黒砂の地図
地図は、土魔術だけでは作れない。
ソーマは、ラウゼン近郊の川筋を描いた紙の前で、そう自分に言い聞かせた。
朝の川は、薄い霧の向こうで白く光っていた。故郷の小川より広い水面が、緩やかな曲がり角をつくっている。内側には細かな砂がたまり、外側には砂利が顔を出していた。少し離れた橋の下には、町から流れ着いたらしい黒い粉も見える。
紙の地図には、今日観察する場所が丸で囲まれていた。
上流の浅瀬。
曲がり角の内側。
曲がり角の外側。
橋の下。
古い水車跡の近く。
崖下の黒い層は、少し離れた場所から見るだけにする。川へ入る調査はしない。フェルドが最初に決めた範囲だった。
「今日は、川の一部を調査する」
フェルドは地図を押さえながら言った。
「地形の違う場所で、黒砂がどう違うかを比べる。土魔術は、採る場所を決める判断の助けにしろ」
「採った砂と、見たことを一緒に記録します」
同行するのは、ソーマ、フェルド、ユーリ、ロッカの四人だった。ボルツの店から来た荷運びの青年は、採取袋の運搬を頼まれている。
ユーリは風を見て、安全に近づける場所を選ぶ。ロッカは、遠くからでも分かるように地図の番号と同じ色の布札を、地面の硬い場所へ結ぶ。荷運びは、札の付いた小袋を受け取る役だ。
誰が何をするのかを決めてから、ソーマたちは最初の浅瀬へ向かった。
水際へは近づかず、表面の乾いた砂を、木の匙ですくう。袋には番号、川のどちら側か、表面から採ったことを書く。詳しい採取時刻や天気、目で見た様子は、ソーマの台帳に残す。
最初の砂は、白っぽく、粒がやや粗かった。黒い粒は少ない。
ソーマは皿代わりの小さな板へ、砂をひとつまみだけ広げた。指先を近づけ、土魔術を薄く伸ばす。
返ってくるのは、浅い沈み感だった。重い粒がまったくないとは言えない。けれど、昨日の川砂で候補にした粒のような、鈍く続く感触はほとんどない。
比較粒を取り出して、同じように読む。
黒い比較粒。
一番の砂。
灰色の保留粒。
一番の砂。
一番。黒粒は少ない。土魔術では、強い沈み感は少ない。
表面砂を少量採取。工房で洗浄・比較。現地判定黒粒は少ない。
二番、曲がり角の内側は、流れがゆるい。細かな砂の間に、目で見ても黒い粒が多く混じっていた。
ここでは、ソーマの指先にもいくつかの違う感触が返った。硬くまとまったような黒粒。赤みのある粒の抵抗。鈍く沈むように感じる灰色の粒。
だが、ソーマは粒の名前を確定はしない。
昨日、同じような感触の粒を、確かめるべき候補として箱へしまったばかりだ。現地での手応えだけで、鉱物の名を確定させるのは早い。
砂を少量採り、二番の台帳欄へ書く。
細粒の黒砂が目立つ。
沈み感の異なる粒が混じる。種類は未確認。
表面砂を少量採取。洗浄後、比較対象とする。
書き終えると、フェルドが言った。
「いまの感覚は、昨日より安定しているか」
「一粒ずつなら、少し。でも、長く続けると自信がありません」
「なら、次で休む」
ソーマは頷いた。
その言葉を聞いた時、少し前までなら悔しかっただろうと思う。見つけたいものが目の前にあるのに、止まるのは遅く感じる。
けれど、疲れた頭で地図を作成するほうがもっと危ない。
三番の外側には、大きな砂利が集まっていた。
ソーマは最初、指先へ返る強い抵抗にびっくりした。だが、目の前には拳ほどの石がいくつもある。砂利の間に黒い粒もあるものの、皿へ広げると、粒の大きさがばらばらだった。
「これでは、同じように比べられません」
ソーマは言った。
「大きさが違いすぎて、別の安全な方法で確かめたいです」
ロッカが、すぐに地図へ小さな三角の印を書き込んだ。
「再確認、だな」
「うん。黒砂が多い、とは書かない」
それだけで、ソーマの胸は少し軽くなった。分からない地点を、空白のままにしてもいい。
四番の橋下へ向かう前に、一行は岸から離れた木陰で休んだ。ナーシャが持たせてくれた塩気のある飲み物を、皆で少しずつ飲む。
ユーリは川面へ目をやりながら言った。
「午後は風が変わりそうだ。水際の砂も、さっきより動くかもな」
「それも、地図に書く?」
「水面を見ただけで、砂の移り方まで決めないほうがいい」
フェルドが答えた。
「今日は、風が強くなったため水際は見ない、と残せばいい。条件を書くのは、全部を説明するためではない。後で、見なかった理由を忘れないためだ」
ソーマは、その言葉も台帳の端へ短く記した。
午後、風が強まる見込み。水際・水中の確認は行わない。
橋の下には、黒い粉が広く散っていた。車輪の通った跡、誰かが落とした金属の小片、煤のようなものも混じっている。自然の川砂と、人の暮らしから出たものとを、ここで分けるのは難しい。
土魔術を使う前に、ソーマは首を振った。
「ここは比較地点から外します」
「読まないのか」
荷運びの青年が驚いたように聞く。
「黒い粒はあります。でも、川が運んだ砂なのか、町から落ちたものなのか、今のままでは分かりません。混じっている場所を、自然の黒砂が多い場所としては書けないです」
フェルドが、わずかに頷いた。
台帳には、こう残した。
橋下。人工物らしい小片と粉が混じる。
自然由来の砂との比較には用いない。採取せず。別扱い。
黒いものが多いのに、地図には濃い色を付けない。そのことを惜しいとは思わなかった。誰かがこの地図を見て、砂を掘りに来るかもしれない。曖昧な場所を、期待させる印にはできない。
最後に、水車跡の近くへ立ち寄った。
流れが分かれた先には、細かな砂がたまっている。水面のすぐ下に黒い帯が見えたが、風が強く、水の流れも午前より速く見えた。
ソーマは岸から板を出して、乾いた部分の砂だけを少量取った。水中の帯には触れない。
土魔術では、二番の砂に似た沈み感が少しあった。しかし、水際の見え方が変われば、砂の集まり方も変わるかもしれない。
水車跡。乾いた砂に黒粒あり。少量採取。
水際・水中は、風と流れのため観察対象外。別日に再確認。
「結局、はっきりした場所は二番だけですね」
帰り道、ソーマは地図を見ながら言った。
丸を塗れた場所より、再確認の三角や、対象外の斜線のほうが多い。
「はっきりしていないことが、はっきりした」
フェルドの声はいつも通り短い。
「地図の空白は、失敗の跡ではない。次に見る場所の印だ」
「崖下はどうしますか」
ソーマが聞くと、ロッカが遠くの斜面を見た。
赤土の下に灰色の粘土がのぞき、その下は湿って見える。近くまで行かなくても、表面の細いひびと、足元に落ちた新しい土で、崩れやすそうだと分かった。
「今日は近づかない。明日以降に、道から見られる露頭を探す。掘るなら、その前に相談だ」
「土魔術で柔らかく感じたから、では決めません」
ソーマは続けた。
「地面の見た目と、離れた場所からの観察を合わせて、危ないかもしれないと判断しました」
「それでいい」
ロッカが言った。その声には、からかう響きがなかった。
「ソーマは、細かい違いを拾える。だからこそ、危ないと思った時は一人で近づかない。それが一番助かる」
工房へ戻ると、採取袋は作業用の棚へ運ばれた。セラは、札の番号と台帳の番号が一致しているかをソーマと声に出して確かめる。ナーシャは洗浄に使う皿を別の卓上へ並べ、今日の砂はまだ混ぜずに置いた。
袋には、地点番号と採取した場所だけ。
台帳には、採取の事情と、現地で見たこと。
地図には、比較に使える地点、再確認が必要な地点、対象外の地点。
役目を分けると、紙の上はかえって見やすくなった。
ソーマは、二番を薄い黒で塗った。一番は淡い点。三番と水車跡には三角。橋下には斜線。崖下には赤い危険印と、「遠方から観察」と書く。
美しい地図ではなかった。
黒砂の帯がどこから来て、どこまで続くのかも、まだ分からない。けれど、確定の線は一本も引かなかった。
ソーマは、子どもの頃に泥を握っていた自分を少しだけ思い出した。土のことを知りたくて、早く形にしたくて、何度も失敗した。
いまも、答えを急ぎたくなる気持ちは消えていない。
それでも今日は、止まった。採らなかった。保留にした。
そのことが、地図の線を少しだけ確かなものにしている気がした。
フェルドは完成しかけの紙を見て、言った。
「次は、露頭を見る。点を線にしたいなら、砂の集まった先だけでなく、土の見える場所も確かめる」
「鉱石の筋を探すんですか」
「筋があるかもしれない場所を、安全に観察するだけだ」
ソーマは地図の赤い印を見た。
次に必要なのは、もっと強い土魔術ではない。見えていないことを、見えていないまま書けることだ。
そのことを忘れないように、台帳の最後へ一行を書き加えた。
黒砂の地図は、採取と確認を重ねて更新する。今日の線は仮の線。
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