第2章 第42話 磁鉄鉱と黒砂
第2章 第42話
磁鉄鉱と黒砂
黒い粒は、同じ黒に見えても、同じものではなかった。
フェルド老師の工房の机には、小皿と紙包みが並んでいる。
川上の黒砂は、水で洗ってから乾かした試料だった。橋下の黒砂も同じように洗ったが、細かな粉が多く混じっている。市場排水口の黒い粉だけは別である。竹串を入れた後の試料で、油膜の名残がある。
遠目には、どれも黒い。
けれど光を斜めから当てると、艶のある黒、赤みを帯びた黒、煤のように鈍い黒、金属のような光を返す黒がある。色だけでは、まとめられなかった。
フェルド老師は、布で包んだ黒い石を机に置いた。
「昨日も使った磁鉄鉱だ」
「橋下の黒粒と、市場排水口の黒い粉に、少し動くものがありました」
「あれは予備試験だ。今日は、どの試料の、どの粒が、どんな条件で動いたかを分けて残す」
ソーマは頷き、条件の紙束を開いた。
磁鉄鉱。黒色。表面は粗い。試料へ粉が付くのを避けるため、清潔な薄布で包む。磁鉄鉱に近づけて動く粒があるかを見る。動いても、粒の名前は決めない。
昔読んだ知識では、磁鉄鉱は鉄を含む鉱物の一つだった。だが、目の前の黒粒が磁鉄鉱に反応したからといって、それが何であるかまでは分からない。今日分けるのは、名前ではなく、磁鉄鉱を近づけた時の動きだった。
「まず、何を書く」
「採取場所と、試料の状態です。それから、磁鉄鉱との距離と動かす回数。動いたかどうかは観察に書きます」
「よい」
ソーマは白い紙を小さな板の上に置き、中央へ川上の黒粒を三つ並べた。紙の端には、粒を置いた位置と磁鉄鉱を動かす線を書き込む。
条件の紙束には、こう記した。
川上試料。水洗い後、乾燥。丸みのある黒粒三つ。白紙の中央に置く。布で包んだ磁鉄鉱を紙の下、指一本分の距離に保つ。左から右へ一度だけ、ゆっくり動かす。紙と試料には触れない。
磁鉄鉱を紙の下から動かすと、一粒がわずかに向きを変えた。もう一粒は動かない。残る一粒は紙の繊維に引っかかっているらしく、動いたかどうか判じにくい。
ソーマは、土魔術を使う前にも条件を書き加えた。
ソーマが土魔術を弱く使用。手は紙から指二本分の距離。粒に触れず、動かさない。磁鉄鉱を動かした時の向きの変化だけを確かめる。
意識を細く向けると、先ほど向きを変えた一粒だけが、ごく小さく揺れたように感じる。
観察の紙束へ書いた。
川上試料。三粒中一粒に、目視および土魔術で向きの変化を確認。一粒は目視できる変化なし。一粒は紙繊維の影響があり、判定保留。
次は橋下の黒砂だった。
黒い粒のほかに、細かな粉、赤黒い粒、薄い屑が混じっている。まずは状態を変えず、少量だけ白紙に広げた。
橋下試料。一回目。水洗い後、乾燥。粒と細粉が混在。白紙の中央に広げる。川上試料と同じ磁鉄鉱、同じ距離、同じ一往復で試す。
磁鉄鉱を動かした途端、細かな粉まで揺れた。
粒が磁鉄鉱に反応したのか。手の動きで起きた風や、紙のわずかな振動に粉が流されたのか。ソーマには区別できない。
「失敗です」
「なぜだ」
「細粉が混じりすぎています。動いた粒だけを見られません。まず、粒と粉を分けるべきでした」
「それも記録しろ」
観察の紙束に書く。
橋下試料、一回目。細粉全体が揺れた。磁鉄鉱への反応と、風または紙の振動による移動を区別できない。判定不能。
ソーマは橋下の黒砂を、粗い粒と細かな粉の二つに分けた。竹串で拾える粒を別の紙へ移し、残った粉は元の皿に戻す。これは重さで分けたのではない。粒の大きさと扱いやすさで分けただけだった。
続けて条件を書く。
橋下試料、粗粒分画。竹串で拾える粒のみを使用。細粉は除外。紙の中央に粒を五つ置く。布で包んだ磁鉄鉱を紙の下、指一本分の距離で一往復させる。
今度は、二粒が紙の上を追うように動いた。
反応したのは、艶のある黒い粒だけではない。赤みを帯びた粒の一つも動いた。逆に、濃い黒色でも、まったく動かない粒がある。
黒いから同じものではない。
磁鉄鉱に動かされたからといって、同じ名前にもできない。
ソーマは紙札を二枚用意した。
橋下・粗粒分画・磁鉄鉱接近で動きあり。
橋下・粗粒分画・目視できる動きなし。
ここで、土魔術による沈み感を使うことにした。
だが、フェルド老師が先に言う。
「沈み感と、動いたかどうかを一つの欄に混ぜるな」
「はい」
ソーマは比較の条件を別に書いた。
橋下・粗粒分画から、丸みと大きさが近い粒を選ぶ。磁鉄鉱接近で動きありの粒二つ、目視できる動きなしの粒二つを使う。紙の上で別々に置く。ソーマが土魔術を弱く使用。手は紙から指二本分の距離。粒に触れず、砂時計の砂が四分の一落ちる間、各粒を一回ずつ感じる。
動かなかった黒粒の一つにも、沈み込むような手応えがあった。
けれど、それだけで中身は決められない。粒の形も、表面の傷も、完全にはそろわないからだ。
観察の紙束へ書く。
橋下・粗粒分画。磁鉄鉱接近で目視できる動きなしの粒の一部に、沈み込むような手応えあり。
解釈の紙束には、こう残す。
磁鉄鉱への目視反応と、土魔術による沈み感は一致しない場合がある。粒の名称と実際の重さは未確認。
胸の奥に、新しい疑問が生まれた。
磁鉄鉱に動かされず、沈み込むように感じる黒粒。
それは何なのだろう。
昔読んだ知識には、黒砂へ混じる鉱物の名がいくつかあった。だが、この世界で同じ名が通じるとは限らない。今、書けるのは、橋下で採れた、磁鉄鉱への目視反応がなく、沈み感のあった黒粒ということだけだった。
市場排水口の試料は、さらに扱いが難しかった。
これは、川上や橋下の試料と同じ条件ではない。竹串を入れた後で、油膜が残り、前日の予備試験にも使っている。油が粒を紙へ貼り付ければ、磁鉄鉱に動かされるはずの粒も動かないかもしれない。
ソーマは、条件の紙束に大きく書いた。
市場排水口試料。竹串操作後。油膜残留。前日の予備試験後。川上・橋下試料との直接比較はしない。磁鉄鉱接近で動きが見えた場合のみ、候補として分ける。動きが見えない粒は、反応なしと決めず判定保留にする。
布で包んだ磁鉄鉱を紙の下から近づけると、油膜の端にあった黒い粉の一部がずれた。
しかし、その粉が磁鉄鉱に引かれたのか、油膜ごと動いたのかは分からない。
ソーマは、粉を竹串で分けようとして手を止めた。
昨日、同じように竹串を入れて試料の初期状態を失った。ここでまた触れれば、さらに判断が難しくなる。
「このままにします」
「理由は」
「動いた粉と動かない粉を、今の状態で無理に分けると混ぜます。ここでは『動きあり候補、油膜残留』と『判定保留、油膜残留』に分けるだけにします」
フェルド老師は頷いた。
「汚れた試料を、きれいな試料のふりをさせるな」
「はい」
市場排水口の小皿には、二枚の札が付いた。
市場排水口・動きあり候補・油膜残留・前日予備試験後。
市場排水口・判定保留・油膜残留・前日予備試験後。
分類が増えると、皿も紙札も増えていく。机の上は、すぐに狭くなった。
ユーリが戸口から覗き込み、顔をしかめる。
「黒砂を分けるだけで、そんなに皿がいるのか」
「まだ足りないくらい」
「黒いのは、黒いのでまとめたら駄目なのか?」
「黒いのは、色の話だけだから」
ソーマは紙札を見回した。
「採れた場所も、洗ったかどうかも、磁鉄鉱を近づけた時にどう動いたかも違う。油で動けない粒もある」
ユーリは肩をすくめた。
「聞いてるだけで面倒だな」
「でも、分けないと、あとで何を見たのか分からなくなる」
午後には、土魔術による沈み感を比べる練習をした。
使うのは、橋下・粗粒分画・動きありの黒粒、橋下・粗粒分画・動きなしの黒粒、川上の灰色の砂粒、そして金候補一である。金候補一は、前日に押圧と弱い加熱を行った後の試料だった。市場排水口の試料は、油膜の影響を分けられないため外した。
ソーマは条件を書いた。
大きさと丸みが近い粒を各二つ選ぶ。試料の由来と操作履歴を紙札で確認する。紙の上に一粒ずつ置く。土魔術は弱く使用。手は紙から指二本分の距離。触れず、動かさず、砂時計の砂が四分の一落ちる間に一粒ずつ感じる。紙札を伏せ、順番を替えて二回行う。
最初の一回で、ソーマは大きめの川上の砂粒を、金候補一だと思った。
見た目の大きさに引かれたのだ。
失敗を記録してから、二回目に移る。
今度は、金候補一に鈍く深い沈み感があった。橋下の動きありの黒粒には、やや硬く詰まったような手応えがある。動きなしの黒粒にも、同じような手応えを持つものと、弱いものがあった。
ただし、二回の試行だけでは足りない。言葉もまだ曖昧だった。
ソーマは観察の紙束に書いた。
土魔術による沈み感。金候補一は、比較した川上の砂粒より鈍く深い手応え。橋下・動きあり黒粒には、硬く詰まるような手応えがある。橋下・動きなし黒粒にも差があるように感じる。二回の試行のみ。再現性未確認。
フェルド老師は、その行を消せとは言わなかった。
「感覚の記録は、最初は粗い。だが、同じ条件で何度も書けば、あとで比べられる」
「この言葉だけでは、証拠になりません」
「なら次は、その言葉と別の観察が重なるかを見ろ。お前の指先だけで、人を説得しようとするな」
ソーマは頷いた。
自分にだけ分かる感覚は、まだ答えではない。それでも、次に何を観察するかを決める手がかりにはなる。
日が傾く頃、机には紙包みが並んでいた。
川上・水洗い後乾燥・磁鉄鉱接近で動きあり。
川上・水洗い後乾燥・目視できる動きなし。
川上・水洗い後乾燥・紙繊維の影響により判定保留。
橋下・一回目・細粉混在のため判定不能。
橋下・粗粒分画・磁鉄鉱接近で動きあり。
橋下・粗粒分画・目視できる動きなし・土魔術による沈み感あり。
市場排水口・動きあり候補・油膜残留・前日予備試験後。
市場排水口・判定保留・油膜残留・前日予備試験後。
名前は長い。
けれど、短い名前で違うものを一つにするより、ずっとましだった。
ソーマは最後に、布で包んだ磁鉄鉱を眺めた。これは鉱物であり、粒を動かす道具でもある。そして、扱いを誤れば、試料を汚したり、見えていない動きを見えたものと思わせたりもする。
便利な道具は、中立ではない。
使い方を間違えれば、観察を壊す。
工房を出る前、フェルド老師は橋下の小皿を指した。
「次は、これを見ろ」
「橋下で採れた、動きなしの黒粒ですか」
「そうだ。磁鉄鉱に動かされた粒だけを見ていれば、残った粒を見落とす。道具に反応しないものを、ないものとするな」
ソーマは小皿を見つめた。
磁鉄鉱に動く粒を見つけたことで、進んだ気がしていた。だが、その隣には、動かなかった粒が残っている。
そこにも、まだ分からない違いがある。
外へ出ると、ラウゼンの夕風が少し冷たかった。ユーリが大きく伸びをし、ソーマの抱えた紙包みを見て言った。
「黒い砂が増えたな」
「砂は増えてない。札が増えた」
「分けたら減るんじゃないのか」
「分からないことは増えた」
ユーリはしばらく考え、それから肩をすくめた。
「錬金術って、やっぱり面倒だな」
「うん」
ソーマは紙包みを抱え直した。
「でも、少しずつ見えてきた」
黒砂は、黒いだけではない。
採れた場所が違う。洗い方が違う。磁鉄鉱に動かされる粒があり、動かされない粒がある。油膜のせいで、まだ動きさえ読めない粒もある。
世界は、一つの名前の下に、違うものを隠している。
それを一つずつ分けていく作業は時間がかかる。けれど、ソーマの指先は昨日より、少し多くの違いを感じるようになっていた。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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また次話でお会いしましょう!




