第1章 第21話 欠けた皿
第1章 第21話
欠けた皿
欠けた皿は、廃棄用の木箱の底に伏せて置かれていた。
縁は三日月形に欠け、白い焼き肌が露出している。古い脂と灰のにおいが染みついた厨房の片隅で、その皿はほかの陶片に紛れていた。
けれどソーマは、そこから目を離せなかった。
皿は、土だった。
水に触れても泥へ戻らず、指で押しても形を失わない。火で焼かれた土。乾いた土板が水滴でやわらかく戻るのを見たばかりのソーマには、それがまるで別の世界のものに見えた。
《鷹のくちばし亭》の裏口は、今日も働いていた。
沈み場の布は朝のうちにリナが引き上げ、トマが枝柵に絡んだ葉を取り、グレッグは浅鉢の油膜を古布で吸わせている。点検板は壁に掛かり、白い補修材の縁には細いひびこそあるが、大きな崩れはない。
ソーマは数日に一度、その様子を見に来る。
以前のように、毎日すべてを見なければ不安でたまらないことは少なくなった。宿の人たちが自分たちで見て、自分たちで直している。それはうれしいことだった。
けれど少しだけ、手を離れた寂しさもあった。
そんなとき、厨房の木箱で欠けた皿を見つけた。
「それ、捨てるやつだよ」
リナが言った。手には洗い終えた匙を持っている。
「割れてるし、縁で手を切るから」
「これは、火で焼いた土ですか」
「たぶん? 皿は皿だよ」
リナにとっては当たり前のものだった。客へ料理を出すための器。欠ければ危ない。洗いにくい。だから捨てる。
けれどソーマにとっては違った。
乾かしただけの土は水に弱い。
白石を混ぜた補修材も、完全ではない。
だがこの皿は、水に触れ続けても皿であり続ける。
土が、器になっている。
その事実が、胸の奥を静かに揺らした。
観察。
皿の表面は硬く、薄く滑らかだった。外側にはわずかなざらつきがある。縁の欠けた断面には細かな粒が見え、内側と外側で色が少し違った。表面は灰白色、断面は少し赤みを帯びている。
ソーマは指で軽く叩いた。
庭の土板とは違う、硬く乾いた音がした。
「これを直せますか」
ソーマが尋ねると、リナは目を丸くした。
「皿を?」
「はい。欠けたところを埋めるだけでも」
「うーん。直しても料理には使わないと思う。欠けたところからまた割れるし」
その言葉はもっともだった。
人の口に触れる器だ。中途半端に補修して、欠けが落ちれば危ない。洗っている最中に割れて手を切るかもしれない。宿の商売に使うものとしては、信用できない。
根拠のない「かもしれない」を、仕事へ持ち込まない。
オルグの言葉を思い出す。
「では、実験用に使ってもいいですか。食器としては使いません」
「お父さんに聞いてくる」
しばらくして、グレッグがやって来た。
「欠け皿を持っていくのか」
「はい。直せるか試したいです。ただし、客用には使いません」
「なら構わん。どうせ捨てるもんだ」
グレッグはそう言ってから、ソーマの顔を見た。
「だが、手を切るなよ」
「はい」
宿の廃棄箱には、その皿と同じ色合いの陶片がいくつか残っていた。縁の色と裏のざらつきが同じで、割れたときに一緒に出たものらしい。
ソーマは皿本体と陶片を布で包み、屋敷へ持ち帰った。
庭の練習場に並べると、ただの廃棄物だったものが急に試料のようになった。
ただし、欠けた皿そのものには手を加えない。試すのは、同じ皿の陶片だけだ。
庭から、壁際の粘る土と川砂を少量採る。白石の練り物は使わない。食器に近いものへ危険な材料を使うつもりはなかったし、今回は焼かれた土への補修材がどう変わるかを見る試験だった。
仮説を立てよう。
焼かれた陶片は、もう縮まない。
あとから付ける土だけが乾けば縮む。その差が、境目の隙間やひびになる。
ならば、土へ砕いた陶片を混ぜれば、縮みを減らせるかもしれない。ただし、砕いた陶片が多すぎれば、補修材はまとまらなくなる。
まずは、乾燥だけを比べる。
配合は三種類にした。
一つ目、粘る土二杯。
二つ目、粘る土二杯、砕いた陶片一杯。
三つ目、粘る土二杯、砕いた陶片一杯、細かな川砂を半杯。
砕いた陶片は、布に包み、小石で叩いて作った。粒は完全にはそろわない。だが大きな欠片は木片で取り除き、三つの配合へ同じくらいの細かさのものを入れる。
それぞれに同じ小匙で水を二杯ずつ加え、木片で二十回混ぜた。水を追加した場合は、滴数を木札に書く。
同じ皿の陶片を三つ選び、補修材を乗せる縁の幅も、厚みもそろえた。木片の端を目安にして、どれも指の爪ほどの厚みにする。
土魔術は、陶片を動かすためには使わない。補修材を陶片の断面の凹凸へ押し込み、内部の粒の偏りを減らすためだけに、弱く使う。
日陰の棚に三つを並べ、同じ布をゆるくかぶせた。
待つ。
翌朝、結果は分かれた。
一つ目、粘る土だけの補修材は、見た目にはなめらかだった。だが端に細い隙間があり、陶片から少し浮き始めている。
二つ目、陶片粉を混ぜたものは、見た目は粗い。けれど隙間は一つ目より少ない。
三つ目、陶片粉と砂を入れたものは、端がぼろりと欠けた。砂を加えたため、補修材の粘りが足りなかったらしい。
夕方まで置くと、一つ目は完全に剥がれた。二つ目は残っていたが、補修材の中心に細いひびがある。三つ目は半分残ったものの、軽く触れると崩れた。
どれも、実際の皿の補修には使えない。
それでも、二つ目には記録する価値があった。
砕いた陶片を混ぜると、乾燥収縮による隙間は減りそうだった。ただし、ひびを防ぐには、粒の細かさや補修材の厚みも考えなければならない。
ソーマは三つの陶片を並べ、断面を見た。
補修材は乾いたが、陶片とは一体化していない。表面に乗っているだけだ。土魔術で押し込んでも、焼かれた陶片と乾いて縮む土との差には勝てなかった。
観察へ戻る。
焼かれた陶片と、新しい土をつなぐには、補修材そのものを火で変える必要があるのかもしれない。
翌日、ソーマはオルグに相談した。
オルグは陶片と補修材を見て、鼻を鳴らした。
「皿を土で直すのは難しい」
「やはり、焼かないと駄目ですか」
「焼いても同じ皿には戻らん。焼いたものと生の土は違う。くっつけたければ、火で補修材を変える必要がある。だが皿ごと焼けば、縮み方の違いで割れることもある」
「低い温度なら」
「低すぎれば土のままだ。高すぎれば皿が割れる」
皿が割れる。
父が言った、土に聞くという言葉を思い出した。
「窯の端を少し借りられますか」
ソーマが尋ねると、オルグは眉を上げた。
「皿ではなく、陶片で試すならな」
「はい。まず陶片で」
「なら、仕事の邪魔にならない日に来い。窯の端だ。温度は低い。何が分かるかは知らん」
「ありがとうございます」
正確な温度は分からない。窯の端に置くため、熱も均一ではない。
だからこそ、配合を比べる三つの試験片は、同じ日に、同じ場所へ並べる必要がある。
ソーマは新しい陶片を三つ用意した。今度は、二つ目の配合を基準にして、補修材の厚みと乾燥時間もそろえる。
一つ目、粘る土二杯。
二つ目、粘る土二杯、砕いた陶片一杯。
三つ目、粘る土二杯、砕いた陶片一杯、細かな川砂を半杯。
前回と同じ小匙で量り、同じ回数だけ混ぜた。補修材の厚みも、木片を当ててそろえる。陶片は日陰の棚で二日乾かし、窯へ持っていく前にも、補修材の裏側に濃い湿りが残っていないか確かめた。
窯場の日、オルグは三つの陶片を窯の端へ並べた。どれも同じ高さ、同じくらい火口から離れた位置に置く。
「乾きが足りないと爆ぜる」
オルグが言った。
「中の水が逃げられずに割れる。顔を近づけるな」
「はい」
外が乾いて見えても、内側が乾いているとは限らない。
泥団子で学んだことだった。
火の匂い、薪のはぜる音、窯の口から漏れる赤い光。ソーマは焼かれた土がどう変わるのか、その先を見たい気持ちを押さえた。
近づかない。
触らない。
待つ。
十分に冷めてから取り出すと、三つの補修材はどれも少し赤みを帯び、乾燥前より硬くなっていた。
だが、結果は同じではない。
一つ目、粘る土だけの補修材は、焼いたあとに大きく縮み、陶片との境目に隙間ができた。
二つ目、陶片粉を混ぜたものは、補修材自体は最も硬く残った。境目の隙間も一つ目より小さい。けれど、陶片と一体にはなっていない。
三つ目、砂まで混ぜたものは、大きなひびこそ少なかったが、端の一部が陶片から浮いた。補修材の粘りが足りず、断面へ入り込めなかったらしい。
ソーマは、三つの陶片へ同じ小匙で水を一杯ずつ落とした。
補修材そのものは、乾いた土のようには崩れない。
だが、しばらく置くと、どの陶片でも境目から水が染み込んだ。
器としては使えない。
試験片としては、価値がある。
配合だけでなく、粒の大きさ、乾燥、厚み、焼く位置が関わる。今日の試験で分かったのは、その一部だけだった。
ソーマは木板に書き続けた。
粘る土だけ。縮む。隙間が大きい。
陶片粉入り。縮みにくい。補修材は硬い。境目は残る。
陶片粉と砂。ひびは少ない。端が浮く。
薄く乾かす。
焼くと、水で崩れにくくなる。
境目に水が入る。
数日後、リナが屋敷へ来た。
ソーマは、欠け皿そのものにはまだ手をつけていなかった。陶片試験を並べていると、リナは少し残念そうな顔をした。
「皿、直らない?」
「食器としては、まだ無理です」
「そっか」
「でも、土を焼くと、水で崩れにくくなることは分かりました」
リナは試験片を覗き込んだ。
「これ、硬いね」
「はい。窯で焼くと、少し変わります」
「じゃあ、いつか皿も作れる?」
その問いは、胸の奥へまっすぐ届いた。
皿を直すことから始めた試験は、土を器にするという問いを、前よりはっきり見せてくれた。
水を受けても崩れず、人の手に持たれ、食卓に置かれるものを作ること。
ソーマは欠けた皿を見た。
まだ遠い。
器を作るには、形に向く土を探し、粒を見て、成形し、乾かし、焼く必要がある。補修すらまともにできない今の自分には、足りないことばかりだ。
だが、問いは消えなかった。
「いつか、試します」
ソーマは言った。
リナは笑った。
「じゃあ、最初の皿は宿で使う」
「使えるものができれば」
「またそういう言い方する」
「危ないものは出せません」
「分かってる。でも、いつかね」
その「いつか」は、ソーマの中で小さく光った。
夜、彼は記録紙の最後に一行を書いた。
補修は難しい。だが、土は火で水に崩れにくくなる。
その下に、少し迷ってからもう一行。
器を作るには、まず器に向く土を探さなければならない。
胸の奥に、新しい関心が静かに根を下ろした。
土は、足元を支えるだけではない。
手の中で器にもなるのかもしれない。
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




