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第4章 第129話 黒火派の誘い

第4章 第129話


黒火派の誘い


 公開試験が終わった日の夕方、ソーマは王立錬金院の古い回廊で呼び止められた。


「見事だったよ」


 振り返ると、見覚えのない男が立っていた。


 灰色の髪を後ろへ撫でつけ、古びた濃紺の外套を羽織っている。錬金術師らしい革袋を腰に下げていたが、胸元に錬金院の徽章はなかった。


「今日の試験を見ていたんですか?」


「ああ。最初から最後までな」


 男は薄く笑った。


「だが、もったいない」


「何がですか?」


「力だよ」


 男は、庭の方角を顎で示した。


「あれだけ土の中を読めるというのに、浅い箱の前で手を止める。自分で自分の力に縄を掛けているようなものだ」


 ソーマは黙って男を見た。


「もっと深く読める方法がある」


 男は言った。


「もっと広く、もっと強く。箱の中身などではない。地中の空洞も、埋まった岩も、水の道も読めるようになる」


 ソーマの胸が、わずかに動いた。


 北の街道。


 岩で塞がれた道。


 坑道の崩れそうな場所。


 もし本当に、もっと深い場所を読めるのなら。


 誰かを危険な場所へ入れる前に、もっと多くのことが分かるかもしれない。


「どうやるんですか?」


 思わず尋ねると、男の笑みが深くなった。


「興味はあるようだな」


 ソーマはすぐには答えなかった。


 興味がないと言えば嘘になる。


 公開試験で、湿った土を焼き物と取り違えた。


 もっと深く読めたなら。


 もっと細かく違いを感じられたなら。


 そう思わなかったわけではない。


「あなたは誰ですか?」


 ソーマが尋ねると、男は肩をすくめた。


「名など、今は必要ない」


「必要です」


「慎重だな」


「誰に教わったのか、記録に残せない方法を、使うつもりはありません」


 男の目が、少しだけ細くなった。


「記録、記録か。今日もずいぶん紙を使っていたな」


「必要ですから」


「力を持つ者が、いちいち紙に許しを求める必要があるのか?」


「紙に許しを求めているわけではありません」


 ソーマは答えた。


「何をしたのか、あとから確かめられるようにしているんです」


 男は鼻で笑った。


「そんなことをしているから遅い」


 回廊の窓から、夕日の光が細く差し込んでいた。


「国を守る者には、迷っている時間がない。山道が塞がれた。兵が待っている。荷も止まっている。それでも、お前は紙に『まだ分からない』と書き続けるのか?」


 軍務局で聞いた言葉が、胸の奥へ戻ってきた。


 兵の命にも、時間はない。


 それは正しい。


 だからこそ、男の言葉は簡単には振り払えなかった。


「黒火粉も同じだ」


 男が続けた。


 ソーマは顔を上げた。


「やはり、その話ですか」


「やはり?」


「軍務局から話を聞いています」


「なら早い」


 男は一歩近づいた。


「岩を割る力が必要なのだろう。必要なものを作れない者が、代わりの方法を並べて何になる?」


 声は低かった。


「危険だから作らない。失敗するかもしれないから試さない。それで国を守れると思うか?」


 ソーマは言葉を返せなかった。


 男はそれを迷いと見たのだろう。


「恐れる者は、力を持てない」


 そう言って笑った。


「だが、お前なら持てる。土の中を見る力と、岩を崩す力。その二つがあれば、軍務局もお前を無視できなくなる」


 ソーマは、男の言葉を頭の中で並べた。


 深く読む。


 広く読む。


 岩を崩す。


 軍務局に認められる。


 どれも魅力的に聞こえる。


 けれど、そこには一つ足りないものがあった。


「どこで止めるんですか?」


 男の眉が動いた。


「何?」


「深く読む方法を使うとき、どこまでなら安全なんですか?」


「使ってみなければ分からん」


「失敗したら?」


「次は失敗しなければいい」


「その失敗は、誰が記録するんですか?」


 男の笑みが消えた。


 ソーマは、北門東倉の石碑を思い出していた。


 そこに刻まれた四人の名前。


 何をしようとしたのか。


 どこまで分かっていたのか。


 何が分からなかったのか。


 それらが十分に残されなかったからこそ、同じ場所でまた誰かが同じことをするかもしれない。


「細かい記録など、力を広げる邪魔になる」


 男は言った。


「優れた術者なら、自分の感覚を信じればいい」


「僕は、自分の感覚だけでは足りないと分かりました」


 ソーマは答えた。


「今日も間違えましたから」


「たった一度の失敗だ」


「だから残しました」


「恥を晒しただけだ」


「違います」


 ソーマは、今度は迷わなかった。


「次に同じ反応があったとき、湿った土かもしれないと考えられます」


 男は黙った。


「記録に残せない力を、人の近くで使うつもりはありません」


 ソーマは続けた。


「僕にしか分からない方法なら、僕がいなくなったあとに誰も止められなくなります」


 男の顔に、初めて明らかな不快の色が浮かんだ。


「ずいぶん小さくまとまったものだな」


「そうかもしれません」


「力を持っているのに、使わないのか」


「使います」


 ソーマは答えた。


「でも、使ったことを誰かが確かめられる形で使います」


 しばらく沈黙が続いた。


 やがて男は、小さく笑った。


 先ほどまでとは違う、冷たい笑いだった。


「その慎重さが、いつまで守ってくれるかな」


「どういう意味ですか?」


「必要になれば、国は力を選ぶ」


 男は背を向けた。


「十日後、軍務局に何を持って行くのか楽しみにしているよ」


「待ってください」


 ソーマが呼び止めた。


「あなたは、黒火粉を作っているんですか?」


 男は振り返らなかった。


「作れる者はいる」


 それだけを残して、古い回廊の奥へ消えていった。


 ソーマは、しばらくその場から動けなかった。


 男の言葉が胸に残っている。


 もっと深く読めれば。


 もっと早く答えられれば。


 もっと強い力があれば。


 それはすべて、ソーマ自身も考えたことのある言葉だった。


 だからこそ、怖かった。


 まったく理解できない考えなら、簡単に拒める。


 けれど、少し分かってしまう考えは、簡単には消えてくれない。


 ソーマは鞄から帳面を取り出した。


 いつもの三つの欄を書く。


 《何を確かめるか》


 《どこで止まるか》


 《変えてはいけないものは何か》


 その下へ、もう一つ書き加えた。


 《なぜ急ぎたくなったか》


 少し考えてから書く。


 《もっと深く読めれば、人を待たせずに済むと思った》


 さらに、その下へ続けた。


 《力を認めてもらえると思った》


 書いてから、ソーマは手を止めた。


 少し恥ずかしかった。


 誰かを助けたいだけではない。


 自分の力が役に立つと認めてほしい気持ちもあった。


 それを消してしまえば、次に同じ誘いを受けたとき、自分がなぜ揺れたのか分からなくなる。


 だから、消さなかった。


 工房へ戻ると、エリシアがすぐにソーマの顔を見た。


「何かありましたか?」


「知らない錬金術師に会いました」


 ソーマは答えた。


 セラとハンナも手を止める。


 フェルド老師は、奥の机から顔を上げた。


「何を言われた」


 ソーマは、回廊での話を最初から説明した。


 深く土を読む方法があると言われたこと。


 黒火粉について尋ねられたこと。


 記録など邪魔だと言われたこと。


 そして、十日後の軍務局への返事を知っていたこと。


 フェルド老師の表情が変わった。


「老師?」


「そいつは、どんな男だった」


 ソーマは外見を説明した。


 灰色の髪。


 濃紺の外套。


 錬金院の徽章はない。


 腰には錬金術師の道具袋。


 老師はしばらく考え込んだ。


「黒火派かもしれんな」


「黒火派?」


 ハンナが聞き返した。


「正式な組織名ではない」


 フェルド老師は言った。


「火や圧力を使う錬金術を重んじる者たちを、そう呼ぶことがある。採石や軍務に役立つ術を研究してきた連中だ」


「悪い人たちなんですか?」


 セラが尋ねた。


「そう簡単な話ではない」


 老師は首を振った。


「役に立つ技術も多い。鉱山を開き、道を作り、火災の原因を調べた者もいる」


「それなら……」


「だが、結果を急ぐあまり、危険を軽く見る者もいる」


 ソーマは、回廊の男を思い出した。


「記録が邪魔だと言っていました」


「なら、わしはそいつを信用せん」


 フェルド老師は即座に言った。


「強い術を使うことより、失敗の記録を残さないことの方が怖い」


 エリシアも頷いた。


「今日の公開試験で、外れた結果を隠さなかったのと逆ですね」


「はい」


 ソーマは言った。


「だから、記録そのものを守った方がいいと思いました」


「守る?」


「火事や事故が起きても、記録が全部なくならないようにしたいです」


 皆がソーマを見た。


「北門東倉でも、昔の記録がもっと残っていれば、分かったことがあったかもしれません」


 ソーマは続けた。


「失敗を記録して残すことが大事なら、その失敗を書いた紙そのものも守らないといけません」


 フェルド老師はゆっくり頷いた。


「悪くない」


「火に強い箱を作りましょう」


 ハンナが言った。


「一つだけでは駄目かもしれません」


 エリシアが続ける。


「同じ記録を別の場所にも残した方がいいでしょうね」


 ソーマは帳面へ書き加えた。


 《記録を一か所だけに置かない》


 書いた文字を見て、少しだけ胸の重さが軽くなった。


 その夜、ソーマは公開試験の記録と、男に会った記録を別々の紙へ写した。


 男の名前は分からない。


 どこで研究しているのかも分からない。


 本当に深く読む方法を知っているのかも分からない。


 だから、分かったことだけを書く。


 《灰色の髪》


 《濃紺の外套》


 《錬金院の徽章なし》


 《土を深く読む方法があると発言》


 《黒火粉に言及》


 《軍務局への期限を知っていた》


 最後の一行を書いたところで、ソーマは手を止めた。


 なぜ男が十日の期限を知っていたのか。


 軍務局の誰かから聞いたのか。


 それとも、別の場所ですでに話が進んでいるのか。


 分からない。


 だから、その横へ書く。


 《入手経路 未確認》


 以前なら、その空白が気持ち悪かったかもしれない。


 今は違った。


 分からないと書けば、次に確かめることが決まる。


 ソーマはもう一枚の紙を取り出した。


 そこには、自分自身について書いた。


 《深く読む方法に興味を持った》


 《人を待たせずに済むと思った》


 《力を認めてもらえると思った》


 その三つも消さなかった。


 危険なのは、男の言葉だけではない。


 自分がその言葉に惹かれた理由を忘れることも、同じくらい危険なのかもしれない。


 ソーマは帳面を閉じた。


 力を使わないことが正しいわけではない。


 力を使うことが間違いなのでもない。


 大切なのは、誰が使っても止まれる形にできるかどうかだ。


 誰かが「もっと」と言ったとき。


 自分自身が「もっと」と思ったとき。


 そこで一度立ち止まれるものを残しておく。


 札でもいい。


 帳面でもいい。


 誰かの目でもいい。


 ソーマは、机の端に置かれた公開試験の記録を見た。


 当たった結果。


 外れた結果。


 どちらも残っている。


 男は、それを邪魔だと言った。


 けれどソーマには、その邪魔なものこそが必要なのだと思えた。


 翌朝。


 工房の机には、新しい札が一枚置かれていた。


 《記録に残せない力は、人の近くで使わない》


 ソーマはその札を読み返した。


 十日後、軍務局へ持って行く答えは、少しずつ形になり始めていた。


 だが同時に、その答えを待たずに動こうとしている者がいることも、初めて分かった。

最後まで読んでいただきありがとうございました!

面白いと思っていただけたら、ブックマークや☆☆☆☆☆評価をいただけると次回更新の励みになります。

感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。

また次話でお会いしましょう!

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