第4章 第116話 古い事故の碑
第4章 第116話
古い事故の碑
翌朝、ソーマたちはもう一度、北門東倉の裏手へ集まった。
草の下から見つかった石板は、朝の霜で白く濡れていた。昨日、ハンナが払った土の跡が残っている。その中央には、風と雨に削られた文字の窪みがあった。
《北門東倉 事故により――》
読めるのは、そこまでだった。
ソーマは石碑の前へしゃがみ込み、掌を膝の上で握った。
石の下に何があるのか。どこまでひびが走っているのか。土魔法を使えば、少しは分かるかもしれない。
だが、昨日の床を思い出した。
読もうとして、押した。
確かめようとして、砂袋を沈ませた。
石碑の文字は、砂袋よりずっと弱い。浅い窪みに余計な力をかければ、残った線まで崩してしまうかもしれない。
ソーマは、掌を石へ伸ばしかけて、途中で止めた。
「使わないのか」
フェルド老師が尋ねた。
「今の僕には、読むだけで終える自信がありません」
正直に答えると、老師は短く頷いた。
「なら、使わん方がいい」
その言葉に、ソーマは少し驚いた。
昨日までの自分なら、何もできないことを悔しいと思っただろう。けれど、できない時に手を引くことも、今日は一つの選択だった。
「何もしないままでは、調べたことにならない気がします」
「違う」
フェルド老師は言った。
「壊さずに残したなら、次に別の者が調べられる。自分だけで答えを取れぬことと、何も残さぬことを一緒にするな」
ソーマは、石碑の削れた文字を見た。
今日読めないことが、明日も読めないとは限らない。自分が急いで傷つけなければ、その可能性は残る。
「読むためにも、加えない力がいる」
フェルド老師は、石碑の横へ細い板を立てた。
板の端には、小さな光札が貼られている。
「俺の光魔術なら、石を動かさずに見え方だけを変えられる。だが、消えた文字を戻せるわけではない」
ソーマは、息を詰めた。
フェルド老師の光魔術は、以前、金色の粒を見る時にも使われた。明るく照らすためではなく、物の表面がどんな光を返すかを見やすくするための弱い光だ。
老師は石碑へ正面から光を当てなかった。地面に近いところから、細い光を横へ流す。
平らな石の面は、淡く白くなった。
浅い溝だけが、細い影として残る。
光の角度が少し変わるたび、読めなかった線のいくつかが浮かんでは消えた。
ハンナは、石碑から文字をどう写すかを悩んでいた。文字を写すなら、薄い紙を濡らして貼り付ければ早いかもしれない。けれど、剥がす時に苔や石の粉まで持っていくおそれがある。
彼女は少し離れた場所に板を置き、見えた線だけを何度も書き直していた。
「この線は、光の影です。石の文字そのものではないかもしれません」
ハンナが言う。
「だから、石を見た時刻と、光の角度も一緒に書きます」
ソーマは、その手元を見た。
何かを残したいと思うほど、人は急いで写したくなる。だが、急いで写せば、元のものを傷つけることがある。記録は、残すための仕事である前に、残っているものを減らさない仕事でもあった。
エリシアは、見えた線と、石碑の実際の窪みを何度も見比べた。オルセインは何も言わず、光が当たる範囲を見守っていた。
「ここは、荷……替え」
ハンナが、ためらいながら言った。
「その次は、事故。あとは……四、でしょうか」
光の影は浅い。四という字なのか、別の傷なのか、まだ決められない。
フェルド老師は光を消した。
「碑から言えるのは、北門東倉で荷替え中の事故があったらしい、までだ」
「四人、というのは」
ソーマが訊くと、老師は首を振った。
「今の段階では、読めん」
分からない線を、分からないままにする。
昨日、床の下で覚えたばかりのことだった。
昼前、オルセインは王立錬金院の書庫から三冊の帳面を運んできた。
一冊は北門東倉の修繕帳。
一冊は運送組合の荷替え帳。
最後の一冊は、王立錬金院が残した短い検分書だった。
古い紙は乾き、頁の端は茶色くなっている。ソーマたちは書庫の大机を囲み、それぞれの年号を照らし合わせた。
石碑の裏にわずかに残っていた年号と、修繕帳の記録が重なった。
二十三年前。
その年の冬、北門東倉は一度閉鎖されている。壁と屋根の修繕が行われ、荷替え場の床板も取り替えられた。
そして、運送組合の帳には、同じ月の欄に四人の名前と弔慰金の印があった。
ソーマは、そこを何度も見た。
石碑の文字だけでは、四人と断定できなかった。
けれど帳面には、確かに四つの名前が残っている。
「石碑と帳面を合わせれば、四人が亡くなったことは記せます」
ハンナが言った。
「ただし、帳面には事故の原因が書かれていません」
「検分書には」
エリシアが、最後の一冊を開いた。
紙面に残っていた文は、短かった。
《北門東倉における荷替え作業中の事故。原因は特定できず。保管物の詳細は別紙へ》
「別紙がありません」
オルセインが言った。
「書庫にも、保管庫にも残っていない」
ソーマは、紙を見つめた。
原因は特定できず。
保管物の詳細は別紙へ。
だが、その別紙はない。
書いてあることと、書いてないことの境目が、紙の上にはっきり残っていた。
「帳面を三つに分けましょう」
ソーマは言った。
自分の記録帳を開く。
左の頁に《確認できたこと》と書いた。
北門東倉で荷替え中の事故があったこと。二十三年前であること。四人の死亡と、その名が帳面に残っていること。事故の後、倉庫が修繕されたこと。
右の頁には《未確認のこと》と書いた。
事故の直接の原因。扱われていた物。別紙がどこへ行ったのか。誰が最終の報告を決めたのか。
そして、もう一枚の紙に《自分たちの考え》と書いた。
「考えも残すのか」
ハンナが尋ねる。
「残します。でも、確認したことと同じところには書きません」
ソーマは答えた。
「分けておけば、後で誰かが読んだ時に、事実と僕たちの推測を混ぜずに済みます」
エリシアが、頷いた。
「感情も、ここへ書くのですか」
ソーマは少し考えた。
四人の名前を見た時に感じた重さを、ただの推測の欄へ置くのは違う気がした。
「感情は、別の欄にします」
そう言ってから、ソーマは小さく付け加えた。
「忘れないための欄です。でも、原因を決めるためには使いません」
ハンナは、新しい紙の下に小さく線を引いた。
《忘れてはいけないこと》
そこには、四人の名前だけを写した。
運送組合の帳には、名前の横に短い印が添えられていた。荷役に出た日。家へ渡された弔慰金。受け取った家族の印。
数字だけなら、四人だった。
帳面を一行ずつ追えば、それぞれに帰る家があったことが分かる。誰かが判を押し、金を受け取った。翌月から、その人の名前は荷役の欄に現れなくなった。
ソーマは、紙の上の名前を見たまま、しばらく筆を動かせなかった。
前世で読んだ事故の記事には、死者数だけが大きく書かれていることがあった。技術の話を追っていると、いつの間にか、その数を条件の一つのように扱ってしまう。
だが、ここでは違う。
石碑を立てた人は、四という数字だけを残さなかった。
削れた文字の下に、名を刻んだ。
「この欄は、報告書へ写さなくてもいいんですか」
ハンナが尋ねた。
「写します」
ソーマは言った。
「原因を決めるための欄ではないです。でも、誰のために規範を作るのかを忘れないために、必要です」
ハンナは頷き、名前の右に余計な説明を加えなかった。
分からない人生を、分かったように書かない。
それもまた、記録の守るべき線だった。
午後になっても、フェルド老師は窓際から動かなかった。
検分書の署名欄には、若い頃のフェルドの名がある。
ソーマがそれに気づくと、老師は目を伏せた。
「当時、俺は王立錬金院にいた」
誰にともなく、老師は言った。
「事故のあとに呼ばれ、倉庫を見た。床の傷、崩れた棚、残った荷札を調べた」
「この検分書は、老師が」
「現場の観察を書いたのは俺だ。提出する文を整えたのは、上の者だった」
フェルド老師の指が、窓枠の上で止まった。
「別紙には、もっと多くのことを書いた」
書庫が静かになる。
「何が書かれていたんですか」
ソーマは尋ねた。だが、すぐに聞くべきではなかったと思った。
フェルド老師は、長く息を吐いた。
「覚えている」
低い声だった。
「だが、確かめられない記憶を、今ここで事故の原因にする気はない」
フェルド老師は、机の上の検分書へ目を落とした。
「あの時の俺は、危ないかもしれないと書けば、荷替えを止められると思っていた」
「止められなかったのですか」
「止められんかった」
老師は、短く答えた。
「確かではない、と書いた。条件が足りない、と書いた。だが、荷は急ぎだと言われた。確かでない危険より、目の前の不足を優先する者もいた」
ソーマは、昨日、荷役人に急ぎの荷を問われたことを思い出した。
危ないからやめる。
それだけでは、現場で働く人の答えにならないことがある。
だから、外に荷を置く場所を作った。待たせる荷を、放っておかない形にしようとした。
「老師が悪かったわけではありません」
思わず言うと、フェルド老師は苦く笑った。
「誰か一人の悪さで終わるなら、記録はもっと簡単だ。だからこそ、記憶を都合よく使うな。俺を許すためにも、誰かを責めるためにもな」
「老師を疑っているわけではありません」
エリシアが言った。
彼女の声は硬くなかった。
「けれど、記憶だけでは、次の倉庫の規範にはできません。老師が正しいからではなく、次に同じことを調べる人が、老師を知らないかもしれないからです」
フェルド老師は、彼女を見た。
怒った様子はなかった。ただ、疲れたように目を細めた。
「そうだな」
「決裁記録を探します」
エリシアは言った。
「別紙を受け取った者がいたなら、その人の帳面にも何か残っているはずです」
「残っているとは限らん」
「分からないから、探します」
その言葉を聞いて、ソーマは昨日の自分を思い出した。
床の下に何があるか分からないから、力を足してはいけなかった。
記録に何があったか分からないから、記憶だけで埋めてもいけない。
分からないことは、急いで埋めるものではない。
次に確かめる場所として残すものだ。
書庫を出たあと、ソーマは北門東倉の裏へ戻った。
石碑は夕方の光を受け、朝よりも文字が見えにくくなっていた。
彼は少し離れた場所に立った。
土魔法を使いたい気持ちは、まだあった。
石碑の下の土を読めば、基礎が沈んでいるかもしれない。ひびがどこまで続くのか、分かるかもしれない。
だが、今日の目的は、碑を守り、読めるものを読むことだ。
目的の外まで知ろうとして、残ったものを壊してはいけない。
ソーマは石碑へ魔力を伸ばさなかった。
代わりに、昨日、床を調べた場所へ戻る。倉庫の入口から三歩の地点に、ハンナが小さな木札を立ててくれていた。
掌を床へかざす。
ごく薄く魔力を流す。
乾いた土の感触が、指先へ触れる。
その一度で、止めた。
板は鳴らない。
砂袋も沈まない。
分かったことは、昨日と同じだった。床下は乾いているらしい。沈みがあるかどうかは、まだ分からない。
それでいい、とソーマは思った。
分からないことが残ったから、明日、別の方法で確かめられる。
帳面を開き、観察の欄へ短く書く。
《北門東倉事故。四名の死亡を石碑と運送帳で確認。原因、保管物、別紙の所在は未確認》
次に、考えの欄へ書く。
《危険を遠ざける規範は、怖かったという記憶だけでは作れない。確かめられる手順が要る》
そして最後に、忘れてはいけないことの欄へ、四人の名を書いた。
石碑の文字は、まだすべて読めていない。
別紙も、どこにあるか分からない。
けれど、分からないことを隠さずに残す。そのことだけは、今日から始められる。
倉庫の前では、エリシアが新しい記録札を見つめていた。
「ソーマ」
彼女は言った。
「あなたの魔法も、いつか同じように記録しなければなりません。誰かの感覚だけに頼らず、確かめられるものにするために」
ソーマは、木札の立つ床を見た。
読む。
止める。
そして、残す。
土魔法を本当に使える力へ変えるには、まだ覚えるべきことが多かった。
最後まで読んでいただきありがとうございました!
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感想も一つ一つ楽しく読ませていただいています。
また次話でお会いしましょう!




