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一皿の記憶 -ダレカ と ナニカ-  作者: ユ・サド・クアザ


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7/7

7皿目『たっくん と インスタントラーメン』

 「なぁ、ユカリ。」

 この人はたっくん。


 「今夜、後輩達と飲むからさ。ほら、ユーキとかヒロとか、この間ユカリも会ったじゃん?」

 二つ年上の私の彼氏。 


 「だからさ、な?3万で良いからさ。」

 言葉を選ばずにハッキリ言うのであれば、クズ男だ。


-----


 思い返せば、学年が上がる度に生き難くなっていった。

 無邪気だった小学生時代も、5年生になれば色気づいた女どものせいで、だんだんと私の居場所はなくなっていった。

 小学校のメンバーがほとんどそのまま持ち上がりで進学する中学の3年間、居心地の良い場所なんてどこにもなかった。

 

 成績。

 部活。

 推し。

 趣味。

 髪型。

 センス。

 化粧品。

 アクセ。

 SNS。

 親ガチャ。

 彼氏。

 骨格。

 唇の形。

 胸の大きさ。


 果ては、生理の日の過ごし方まで。

 何もかもが順位を付ける手段だった気がする。


 私は私のままで居たかった。

 ただ、それだけなのに、学校に居る間はそれが許されなかった。


 だから、周囲に求められる人物像を演じるしかなかった。

 ・・・学校でだけじゃない。

 家にいる間も、両親が望む物分かりの良い娘を演じていた。

 

 中学3年の時の夏休み。

 自宅から行こうと思えば歩いてでも行く事のできる、日本一の歓楽街にちょっとした憧れを抱いた。


 私は生まれて初めて悪い事をした。

 夜中にこっそりと家を抜け出した事。

 誰にも言わず、一人でこっそりとその場所へ向かった事。

 テレビでも見た事のない世界にあっけにとられながら、無防備に街を歩いた事。

 声を掛けてきた人に、何も考えず無邪気についていった事。

 5分前に出会った男性から急に体を触られて、気持ち悪いからやめて欲しいと思ったのに何も言えなかった事。

 交番の前を通りがかったところで警察官に呼び止められ、そのまま補導された事。

 

 自宅に連絡が行き、血相を変えて飛んできた両親に連れ戻される。

 ほとんどヒステリーのように喚いている母親からは顔の形が変わるくらい平手打ちをされた。

 父親からは何も言われなかった。代わりに舌打ちだけを残し、以後口をきくこともなくなった。


 そのどれもが初めてで、そのどれもが新鮮だった。


 それから中学卒業までは大人しく過ごしたつもりでも、補導が契機となったのか私の進学先は私立ではなく公立の高校に変わってしまった。


 高校への進学を機に人間関係は変化するものと考えていたが、同じ中学出身の生徒がそれなりに居た。

 それなりに居るという事は、それは私の居心地にも影響したという事だ。


 周囲に求められる人物像の基準は中学の時と大差はない。 

 私は相変わらず。

 アニメに傾倒しているクラスメイトが羨ましかった。

 あの子は周りが何を言っても、どう思われていても関係なく見えた。


 でも、私はあの子にはなれない。

 私は私のままで居たかった。


 もしかしたら、誰かにイジメられていた方が楽だったのかもしれない。

 『我が校ではイジメは絶対に許しません!』

 学校説明会の時に、教頭が声高に叫んでいた。

 教頭が言ったように、校内にイジメはない。

 でも、それは解りやすいイジメは存在しないと言うだけ。

 私が住む世界にあるのは、もっともっと陰湿で、もっともっと残酷な、表面的に繕った人間関係だけだった。

 

-----


 夏休みに突入する7月は、クラス中がなんとなく浮かれていた。

 鬱々とした生活にもようやく慣れてきた頃に、私の人生を変える王子様が現れる。

 空手部のエース、タクヤ先輩だ。


 「ねぇユカリ、今日放課後ヒマ?みんなでカラオケ行くんだけどさ!」

 きっかけは同じ中学出身のマリからの誘いだった。


 今思えば合コンの真似事みたいな事だった気がする。

 男女ともに5人ずつ集まってカラオケに行って、一組また一組と夏の都会の夕闇に消えていく。

 気が付けば、部屋に残されたのは私とタクヤ先輩だけ。


 「え?だって俺彼女いっから。」

 私みたいなのと残された先輩に申し訳なくなって、すみませんって謝ったらこう返ってきた。

 そうか、彼女持ちの先輩と陰キャの私はそれぞれ数合わせに利用されたんだ。

  

 利用されたと言っても、先輩には彼女が居る。

 それに比べると私は頭数をそろえる為だけの都合の良い女に過ぎない。

 私はとてもみじめな気分になってぽろぽろと一人静かに涙をこぼした。

 

 その時、先輩はそっとティッシュを差し出してくれた。

 「とりあえず、金払ってここ出ね?」

 涙をぬぐい呼吸が落ち着いた頃合いを見計らってそう言ったタクヤ先輩が、とても大人に見えた。

 

 カラオケ店を出てからは、特に何も話さなかった。

 ただ、気遣われた事がとても嬉しくて、幼い頃父親の手を握った時と同じような感覚で先輩の手を握った。

 「や、だから、彼女いるって」

 そう言われても、私はその手を離さなかった。


 別れ際、私は勇気を振り絞って連絡先の交換を申し出た。

 夏休みの間も、夏休みが終わった後も、他愛もないメッセージのやり取りは続いた。


 たった、それだけ。

 本当にそれだけだったのに、何故か学校での私の居心地は格段に良い物に変わっていった。


 学内で一番モテる男子と頻繁にメッセージを送り合っている。

 この事実は、この世界に生きる人間にとって、ありとあらゆる想像を膨らますには格好の材料だったに違いない。

 それが解ったら、居心地の変化にも納得がいった。


 卒業を控えた2月、先輩は私の事を好きだと言ってくれた。

 だけど、先輩は彼女と別れる事はなかった。

 それどころか、その彼女と言うのが複数人居る事も耳に入ってきていた。

 それでも、私は好きだと言ってもらえた事が嬉しかった。


 卒業した後もやり取りは続く。

 先輩に彼女が居るのも、その彼女が何人かいるのも変わらなかった。

 そして、変わらず私の事を好きだと言ってくれた。


-----


 そうこうしているうちに、今度は自分が卒業を迎える。

 進学はしなかったのではなく、出来なかった。

 両親が、一度道を踏み外した私と言う存在に期待を寄せる事をやめたからだ。


 卒業後は地元にある小さな老人ホームに就職が決まっていた。

 仕事はとても地味だ。

 入社説明会で、お年寄りと触れ合う事のすばらしさをキラキラとした目で説明してくれた先輩社員。

 ところがいざ現場に入ってみれば、その人もスーパーに並ぶ魚のような目をしていた。

 

 職場での人間関係は複雑だった。

 中学・高校でのヒエラルキーは、形とスケールを変えて似たようなものが存在している。

 上を見るとてっぺんは見えない。

 下は・・・私の位置からは下の方が解りやすいけど、それでもずっとずっと深い。

 

 ねちっこい喋り方をするオバさん。

 入社一年目の私に対して執拗にマウントを取らねばやっていけない程、可哀想な人だ。

 頭のてっぺんから足の先まで値踏みするジジイ。

 ただの通勤用の普段着に、その洋服可愛いね、なんて言われて私が喜ぶと思うのか。

 じぃっとした目で胸とお尻しか見てない偉い人。

 オジさんの割に見た目は良いし、話し方も穏やかなのに。視線で私を撫でるな。

 つまらない自分語りと俺って凄いしか言わない兄ちゃん。

 そんなに凄い人はこんな所で年寄りの世話を仕事にはしてないと思う。

 説明会ではキラキラした姿が印象的だった先輩も、業務上最低限の発言しかしていない。

 

 こんな、当たり前の日々が当たり前に続く。

 職場での人間関係の構築に失敗した私には、中学高校の時の私と同様に友達も彼氏もいない。


 家に帰ればため息をつく母親。

 味のしない食事を準備してくれているだけ、感謝しないといけない。

 ブラもパンツもいつも一緒くただけど、洗濯をしてくれているだけ、感謝しないといけない。

 掃除の跡が埃の蓄積で解りやすくなっているけれど、それにも感謝しないといけない。

 雨風凌げるちょっと立派なマンション、6帖の私の部屋。稼ぐ父親、家を守る母親。感謝、感謝だ。


 職場への行き帰りと、夜ベッドで寝に落ちる前のほんの僅かな時間だけが私の物。

 そして、そんな僅かな時間で唯一繋がれる人はタクヤ先輩だけ。


-----


 社会人になって凄いなと感じたのは、中高生の時と同じような日々を過ごしているだけで給料がもらえる事だ。

 "自称、裕福な家庭"に育った私は、お金の有難みを知らない。

 『家に金を入れろ』と言われることもなく、その使い道を知らない私の通帳残高は気が付けば200万円を超えていた。


 世の中にはお金に困る人が居る。

 働いても働いても、日々の生活に追われ、貯金が出来ない人が居る。

 稼いだ以上に使ってしまう人も居れば、何かしらの方法で儲ける人も居る。

 小さいながらも社会の一部として生きる中で、このような情報は耳に入って来た。


 きっかけがなんだったのかよく覚えていない。

 母親の嫌味たっぷりの独り言だったのか、それとも無言でついた大きなため息だったのか。

 ただ、とても些細な何かが私の中の鬱屈をマグマのように噴出されるトリガーになった。


 生まれて初めて私は母親に対して大きな声で怒鳴った。

 私は私。一人の人間。あなたの為に生きている訳ではない。

 そんなような事をぶちまけた。


 明くる日。

 私の分だけ、朝食は準備されていなかった。

 私の分だけ、夕食も準備されていなかった。

 その晩、私は家出をした。


 持ち出したのは貴重品と僅かな着替えとメイク道具だけ。

 翌日は仕事が休みだった事もあり、近所のネットカフェに引きこもった。

 その翌日は、体調不良と嘘をついて欠勤した。

 その翌日は、無断で欠勤した。


 薄暗いブースの中ではスマホの通知ランプだけがチカチカと目立っていた。

 

-----


 ネットカフェでの引きこもり生活はすこぶる快適で、私はお金の続く限りここに居ても良いかと言う気分にもなった。

 日に一回、自動精算機でお金を払えばどこで何をしていても怒られない。

 たまに周りが騒がしかったりもするけど、母親の無言のため息程気にならなかったし、そういう時にはワイヤレスイヤホンと言う強い味方がいる。


 食事も栄養バランスやカロリーが気にならなければ、パソコンの画面から注文が出来た。

 ドリンクバーには色々な飲み物があるし、シャワーもランドリールームもある。

 贅沢さえ言わなければ足りない物はなかった。


 何回目かの清算の時に、手持ちの現金が心細くなっている事に気付いて、コンビニのATMまで足を運んだ。

 日付も曜日も時間も解らない生活を何日かしていたけど、数日ぶりに日の光を浴びて、私はなんだかとてもすがすがしい気分になった。 

 

 心が軽くなった途端、私は無意識のうちに電話をかけていた。 

 繋がらなくても良い、でも繋がって欲しい。     

 しばらく鳴らしても反応が無かったので切ろうかと思ったら、相手の声が聞こえた。


 「もしもし。」

 タクヤ先輩だ。

 メッセージでのやりとりこそ続いていたが、こうして電話で話したことはない。

 かけたは良いが何を話して良いか解らずに困っていたら、また声がした。

 「どうした?んっと、大丈夫?」

 その声を聞いた途端、私の中を占拠していたもう一つの感情が決壊したダムのように溢れ、昼の繁華街には大声で泣き叫ぶ私の声が響いた。


 「ユカリちゃん、大丈夫?」

 電話を切って1時間足らずで、私はタクヤ先輩の前に座っていた。

 ファミリーレストランで話をする。

 私の今までを、これまでの事を全部話した。

 

 2時間後、私はタクヤ先輩の隣に座っていた。

 3時間後、私はタクヤ先輩の手を握っていた。

 4時間後、私はタクヤ先輩の家に向かっていた。


 そして5時間後。

 私はタクヤ先輩の彼女の一人になっていた。


-----


 それからの1週間足らずの期間は、今までの人生で最も充実していたと思う。


 先輩の部屋で寝起きをするようになった私は、先輩が仕事に行っている間にスマホの契約をしにショップへ出向いた。

 聞いたこともないカタカナの単語を並べる店員の説明は半分も解らなかった。

 それでも、自分の名前で何かを契約するのは初めての出来事だったし、大人の仲間入りができたみたいで、ちょっとだけ誇らしかった。


 その万能感に背中を押されて、翌日には不動産屋を訪ねた。

 だけど、そこで待っていたのは昨日とは比べ物にならない現実の壁。

 定期借家、重要事項説明、保証会社……昨日と同じように、聞いたこともない単語を沢山浴びせかけられた私は、完全に撃沈してしまった。


 代わりに、新しいスマホで調べた家具家電付きのアパートの情報を得て、早速契約を進める。

 職場の欄には今は行っていない老人ホームの名前を入力し、収入の証明は通帳の給料の欄を撮って送った。


 先輩はこのまま一緒に住めば良いのにって言ってくれたけど、狭くて汚い部屋に一緒に住むつもりはなかった。

 それに、他の女の影があるところで生活できる程、私は鈍感じゃない。


 慣れない料理にも挑戦した。

 先輩の帰りを待ちながら作る料理は、楽しい気持ちと嬉しい気持ちが混在している。

 スーパーに売ってるカット済みの野菜をレトルトの調味液で味を付けたり、卵をオムレツみたいにしたり。

 簡単なものばかりだったけど、先輩は子犬のように喜んで食べてくれた。


 夜は毎晩愛してくれた。

 私は何をどうして良いか解らず言われるがままだったけど、私が私として求められるのは、ただただ気分が良かった。

 こんな私でもこの世に存在して良いんだ、そんな気持ちになる。

 気持ちが昂って、先輩を"タクヤ"って呼んだらものすごく喜んでくれた。

 ちょっとだけ照れ臭かったけど、その後はタクヤって呼ぶように心がけた。


 朝は起きない。

 揺すろうが叩こうが、ガンとして起きない。

 10時に起こせって言うから起こしたのに起きない。

 途中で、寝顔が可愛いからなんだかもったいなくなって、起こす努力をやめた。


 10時を15分過ぎたところでガバっと起き上がった。

 「・・・っざけんなよ、起こせっつったろ!!!」

 何度も起こしたのに。

 でも、寝起きで怒っても可愛いだけで全然怖くないの。


 その日、タクヤは帰ってこなかった。

 翌日のお昼前に、お酒やタバコの匂いをぷんぷんさせて帰って来たかと思ったら、ベッドへ直行してバタンと倒れこんだ。

 白いシャツの背中には、長くて綺麗な髪の毛が沢山ついている。

 

 次の日、今度は私は帰らなかった。

 タクヤが寝ている間に、置き手紙と今までの家賃代わりの10万円を置いて出てきた。


-----


 担当者から一通りの説明を受け、書類にサインをし、カギを受け取る。

 新居には生活に必要な家電が一通りそろっていた。

    

 駅からは歩いて10分。

 駅前には6階建ての大型スーパーがある。

 食料品から寝具・衣料、雑貨や書籍、ワンちゃんや猫ちゃんまで売っている。

 足りない物は追々買い足していこう。


 新居での生活が少しずつ快適になった頃、親から与えられた方のスマートフォンには夥しい数の連絡が入ってきていた。

 留守番電話もショートメッセージもとてつもない量だ。

 私はその全てに目を通し、その全てを無視した。


 メッセージアプリにはタクヤから数通のメッセージと着信が1回残っている。

 メッセージの内容は実にあっさりしたものだった。ちょっぴり悔しいけれど、仕方ない。


 やる事が無いようで、毎日けっこう忙しい。

 毎日、寝て起きて食べてまた寝るまでの間に、色々なものが足りない事に気が付く。

 でも、少しずつ充実していく我が家での生活は、ネットカフェよりもずっとずっと好きになれそうだ。


 住むところが落ち着いてきたら、次は仕事を探さなければと言う気になった。

 

 スマートフォンで"高卒 未経験"と検索して出てくる求人の数は多い。

 正社員、契約社員、派遣。

 しかし、そのどれもが私にはない物───住民票や緊急連絡先、あるいはパソコンのスキル───を求めてきた。

 

 正社員の仕事は応募の段階で不採用が決まる。

 運よく面接まで進んだ契約社員の仕事も、前職を意味もなく無断で飛び出した私の言葉を見透かしたかの様に、数日後には不採用の連絡が届く。


 節制をしているつもりでも、貯金は徐々に減っていく。

 このままいけば今月中には二桁へ突入してしまいそうで、少々焦りも出てきたが就職活動の成果は芳しくない。 

 いざとなればアルバイトで食いつなごうと思うけど、不器用な私に出来る事などあるのだろうか。


-----

 

 その日は霧雨程度に雨が降っていた。

 夕暮れに差し掛かろうかと言う時間帯に、私はスーパーの買い物袋を提げて家に向かっている。

 

 目の前に、3人で手をつなぐ家族が居た。

 歩く方向はおなじ。

 左にお母さん、右にお父さん。

 真ん中に居るのはカッパを来た幼稚園くらいの女の子。


 お母さんの右手とお父さんの左手を一生懸命に握っている女の子を見て、私は急に寂しいような羨ましいような気持ちになる。

 なんだろう、この気持ち。感情の種類が良く解らない。

 家に帰った私は、荷物を放り出してシャワールームに直行する。

 服を着たままシャワーを全開にして、ワンワンと泣いた。


 30分も泣いていたら段々と馬鹿らしく思えてきて、服を脱いでそのままシャワーを浴びた。

 シャワーを終えると、泣きはらした目元を隠すように、慣れない化粧に取り掛かる。


 化粧と言っても持っている化粧品は最低限。

 目元にコンシーラーを重ねて、境界を馴染ませる。

 アイラインは黒ではなくダークブラウン、マスカラは上にだけ。

 チークはいつもより高い位置にふんわりと、リップもパレットの中で一度も使ってない色を選んだ。


 何を着ようかちょっと悩んだけど、服はあまり持ってないからそもそも選択肢が限られていた。

 ロングめの黒いスカートに首周りのゆったりとしたベージュのトップスを合わせた。

 姿見なんて物は我が家にはない。

 代わりに、スマートフォンで全身を写しておかしなところはないかチェックした。


 行きたいところがある訳じゃなかった。

 隣の駅でも、そのまた隣の駅でも良い。

 普段とは違う場所に、私は行きたい。


 改札を抜け、各駅の電車に乗りこむ。

 ぼーっと外を眺めていて、ふと気が付いた。

 このまま乗っていれば、かつて憧れたあの場所へ行けるという事に。


----- 


 「今夜は、たっくんの特製ラーメンですよ~!」

 部屋に入るなり、タクヤは酔っぱらいのハイテンションで叫んでいた。 

 年齢も人種も職業もてんでバラバラな人で賑わう、深夜のディスカウントストアで購入した食材が入った袋を無造作に放り投げる。


 「まぁまぁユカリちゃんはぁ、ここに座ってぇ!」

 あの頃と同じ汚い部屋。

 そして、相変わらずの女の影。

 隠そうともしないこの人の神経がちょっぴり信じられない。


 ビールの缶を開け、乾杯する。

 職場では"ドリンク"と言う名のノンアルドリンクが主たる飲料の私は、今日初めて口にするアルコールだ。

 対するタクヤは、まだまともに受け答えが出来ているとは言え、それなりに飲んでいるはずである。

 「まさか『トンコツヤ』が火事で閉まってるとはなぁ・・・」 


 あの街は、欲する者には誘惑が多い。

 職を欲していた私にも、たった一時間の間に10人もの人間がスカウトと称して声を掛けてきた。

 最初は無表情で断っていた私も、代わる代わる現れては私の行く手を阻む男たちの、値踏みするような視線と執拗な声掛けにイライラが募っていった。


 11人目に声を掛けてきた人間が、この"たっくん"こと、かつての先輩だったタクヤだった。

 いい加減にしてよ!と怒鳴ったら、ちょっと困った顔をしたタクヤが『あれ、やっぱりユカリちゃんだ』と笑っていた。


 私は今、ちょっとした気分転換のつもりで訪れたあの場所で働いている。

 この人がスカウトそのものだった訳ではない。

 ただ、タクヤ先輩のそのまた先輩が最近新しく始めたお店がある、と働き口を紹介してもらった。

    

 「でも、おかげで"たっくんラーメン"食べれるんでしょ?」

 「ちょっと、ユカリちゃんまでその呼び方すんの、やめてよ~」

 ケタケタと笑いながら、タクヤは鍋を二つ取り出しその両方に水を張った。

 

 "たっくん"はこの街での通り名らしい。

 仕事は何をしているか、正直よく解らない。

 週に2度か3度、職場に飲みに来るけど、一人の時もあるし後輩を何人か連れてくる事もある。

 その度に、一人当たり数万円を使って行くのだから、普通にサラリーマンしていますと言う事も無いと思う。


 最近はようやくビールと言う飲み物を普通に飲めるようになった。

 最初に飲んだ時はアルコールの匂いと深くて苦い味がとても苦手だったけど、タクヤから「息をせず飲み込んでみ?」と言われて試してからは旨いとさえ感じるようになってしまった。

 それでも男の人が飲むようなハイペースで飲む事はないが、今は一本目の勢いのまま二本目を開けて飲みつつ料理をするタクヤの動向を見守っている。


 「ユカリちゃんの為に、ちょっとちゃんと作るから、ちょっと待ってろよ!」

 ちょっとちゃんとって何よって笑いながら、ビールを一口含んだ。

 

 少々イカつい見た目からは想像が出来ない程、その動きは細々しい。

 そして、酔っ払いの割にスムーズにも感じられた。


 「ふんふんふーん」

 ご機嫌な様子で何の曲か良く解らない鼻歌を鳴らしながら、調味料を準備している。

 チューブのニンニクに、ごま油、ラー油、コショウに片栗粉。

 それと、ここからは良く見えないけど、赤い文字でなんとか一番って書いてある白い粉末。 

 

 インスタントラーメンの袋を開ける。

 タクヤはそこから付属の粉末スープを取り出し左側の鍋に入れた。

 続けてニンニクをたっぷり。袋に入った片栗粉もなんとか一番も、計量スプーンなど使う事なく目分量で入れている。

 そのまま、今度はさっき買ってきた材料が入った袋からもやしを取り出して、洗う事もせず鍋に投入している。


 私は普段インスタントラーメンもカップラーメンも食べない。

 目の前で繰り広げられている光景がどんな味に繋がるのか、純粋に興味が出てきた。

 

 右の鍋には袋から取り出した麺を入れた。全部で3つ。普段小食な私から見れば、結構な量だ。

 どこにあったのか、キッチンタイマーのスイッチを入れた。

 タクヤとキッチンタイマーの組み合わせが酷くミスマッチに思えて、ついうっかりニヤリとした顔をしてしまう。


 「お、そんなに楽しみなん?もうちょっとだから。」

 私の顔を見たタクヤが何かを勘違いしたようだけど、訂正しないでそのままニコニコしていた。

 勘違いや勝手な思い込みと言うのは、女にとって時として有効な武器になる事を、この人はきっと知らない。    


 タイマーが鳴る直前に麺をざるにあげた。

 シンクの下の収納スペースから中華料理店で見るような本格的なラーメンどんぶりを二つ取り出し、そこに麺を分ける。

 すかさず、もやしの入った鍋を器用に傾けて二つのどんぶりにスープを注ぎ入れ、空手で鍛えた拳で細くて長い菜箸を器用に使い、もやしを山盛りにした。


 "ラーメンセット"と書かれた、チャーシューと煮卵とメンマがセットになったチルド食品をディスカウントストアの派手派手しい袋から出す。

 それを開封し、山盛りのもやしの上に一種類ずつ丁寧に載せて行く。


 「仕上げはテーブルの上でいきまぁす!」

 シンクの脇に置いたビールをぐっと一口のむと、おちゃらけた調子で叫んだ。

 いい加減、近所迷惑になりそうでちょっと心配だけど、本人は意に介さずと言った様子だ。

 

 使う物と使わない物がごちゃごちゃになって、物で溢れているミニテーブル。

 そこに、どんっどんっ!と着丼したラーメンは、インスタントラーメンとは思えないビジュアルだ。


 「はいりますっ!」

 ラー油を1回し。

 ごま油を3回し。

 コショウはこれでもか、と言うくらいに振られた。

 舞い上がったコショウでクシュンと言うくしゃみをしたタクヤは、照れ臭そうに笑っている。


 「はい、どうぞ、ユカリちゃん」

 ホストかと思うような、大仰な素振りでコンビニの割り箸を手渡される。 

 たかがインスタントラーメンでこれだけ自信満々でいられる男もそうそういないだろうけど、そんな態度も気にならない位に良い香りが漂っている。


 いただきます、を言い終わらないうちにタクヤは箸をつける。

 その様子を横目に私もどこを一口目にしようかと悩んで、スープに浸っているもやしから食べる事にした。


 「・・・え!?うそ、美味しい!?」

 シャキシャキとした、もやしの食感。

 無意識のうちに"トンコツヤのラーメンの味"を想定していた舌に当たったのは、インスタントのチープな味噌ラーメンの味。

 とは言え、本来の味を知らないけど。

 元々は薄っぺらい味であっただろうこの味噌風味も、ごま油とニンニクの風味でだいぶふくよかな物に感じられた。


 「入れすぎって思ったけど、これなら大丈夫だわ」

 タクヤ曰く、赤い文字の白い粉末は入れれば入れる程旨くなるらしい。

 さすがにお店のラーメンと比較するような物ではないけど、これはこれで本当に美味しかった。


 ずるずると麺をすする。

 片栗粉のせいなのか、少しだけとろみが付いたスープがインスタント麺の縮れに良く絡み、程よい量のスープを口に運んでくれる。

 塩辛いジャンクな味は、一口また一口と箸を動かす動力として十分に機能していた。


 突然、タクヤはガタっと席を立ち冷蔵庫へ向かった。

 何事かと思って黙ってみていたら、その手にはチューブ型のマーガリンと、どこから手に入れて来たのか牛丼チェーンのロゴ入りの袋に入った海苔が握られている。

 「忘れてた。これ・・・足したら飛ぶぜ?」

 タクヤはこちらの返事を待たず海苔の封を切り、手で小さくちぎって二つのどんぶりへ入れる。

 チューブ型のマーガリンは自分の所にたっぷり絞って、蓋を開けたまま私に手渡してきた。


 好きなだけ入れろ、と言う事なのね。

 口をもぐもぐと動かしながら受け取ると、タクヤが入れた量の1/5程を入れてみた。

 まだ熱を持っているスープが容赦なくマーガリンを溶かす。

 蓋を締めテーブルに置いた頃には、スープに浸った海苔とマーガリンの香りが鼻に届いた。

 

 これは、食べてはいけない。

 少なくとも、今までの生活の中に無かった食べ物だ。

 インスタント食品も、化学調味料も、マーガリンも、食卓では見たことがない。


 「旨いだろ?」

 私の人生そのものが、タクヤに彩られてしまった事がちょっと悔しい。


-----


 仕事終わりにラーメンを食べに行こうと誘われたあの夜から、私は週に1度か2度、いつの間にかたっくんと呼ぶようになった彼の家に顔を出すようになった。

 付かず離れずのあいまいな関係だったが、勤め先の『入店1年記念パーティ』と称されたイベント終わりの帰路で再度の交際を申し込まれ、私は承諾した。


 どうして承諾する気になったのか、その理由は今でも良く解らない。

 もしかしたら、恋に恋をしていたと表現しても差し支えないかもしれない。


 常に女の影は絶えなかったし、相変わらずどんな仕事をしているのかすら知らなかった。

 それでも、たっくんは私を私として、彼の中のルールに則って大切にされていた。


 「なぁ、ユカリ。今夜、後輩達と飲むからさ。」

 遅くなる、に続いて私も知ってる人の名前が出てくるんでしょ?


 「帰りは遅いから。ほら、ユーキとかヒロとか、この間ユカリも会ったじゃん?」

 で、次にお金の無心だよね。

 

 「だからさ、な?3万で良いからさ。」

 ほらね。


 「じゃ、念の為5万円渡しておくね。後輩にはちゃんと良い顔しないとね!」

 遅いなんて通り越して、昼まで帰ってこないじゃん。 

 

 「私、今夜は自分の家に帰るから、気にしないで。」

 連れて帰ってくる髪の毛だってさ、長い人と短い人と金色の人とちょっとパーマっぽい人と・・・沢山いるよね。


 「おぉぉぉぉ!サンキュな、いつも。」

 知ってる?香水の匂いってね、結構残っちゃうんだよ?


 「いいのいいの。だってたっくん、彼氏なのにいつもお店に来てくれるじゃん。」

 あんだけお金使ってたら、そりゃ足りなくなる時あるよね。

 

 「だって、ユカリに会いたいし、他のクソ男に口説かれないようにさ。」

 お陰で私のお給料も上がってるし、5万10万は"行って来い"くらいの感覚だから。


 でもね、たっくん。

 私は私。一人の人間。あなたの為に生きている訳じゃないよ。

 

 「たっくん、ありがとう。いってらっしゃい。」

 ・・・そして、さようなら。


-----


 あの日、たっくんの背中を見送った私は、すぐに勤め先のマネージャーに電話をかけた。

 兼ねてから相談を重ねていたこともあり、その電話だけで退店を了承してもらった。


 日本一の歓楽街。

 ある日ぱったり連絡が来なくなったと思ったら、数日後にニュースでその顔を見るなんてことも少なくない世界だ。

 当時、街の顔になりつつあったたっくんを介して入店し、その男から逃げる為に退店をする。

 それはお店にとっても、たっくんの顔に泥を塗るリスクでしかなかったはずだ。


 ともすれば、ただの使い捨てのコマとして処理されてもおかしくない世界。

 けれどマネージャーはたっくんの“女”としてではなく、私を一人の人間として、そして共に店を創る仲間として扱ってくれた。


 「もし戻りたくなったら、迷わず俺の所に電話をかけてこい。いいか?堕ちるなよ。」

 今までの人生の中で、たっくんの次に長い時間を共にした男性。

 堕ちるなよ、の一言なのに、マネージャーが意図する事のほとんどが理解できた。

 決して口数が多い方ではなかったけれど、この業界どころか世の中の決まり事もよく解らない私が、私のままで居られたのはきっとこの人のお陰だ。

 

 ありがとうございました。

 そう伝えただけなのに、私は泣いていた。


-----


 気が付けば30歳を迎えていた。

 引っ越す気になればいつでも引っ越せたこの部屋に住み続けている。 


 「・・・で、いつご両親に挨拶に行く?」

 ブランチに"ユカリちゃん特製ラーメン"をすすりながら、彼はこう言った。


 仕事を辞めてから10日後、たまたま通りかかったカフェの壁にスタッフ募集の張り紙を見つけてお店に飛び込んだ。

 以前はあれだけ難渋した職探しも、今回はいともあっさりと決まってしまった。


 時給は半分以下になったけど、生活費がまかなえればそれでよかった。

 将来を考えれば当然不安はあったが、僅かながらも蓄えと言う安心感もあり、普通の一人の女性としてごくありふれた日々を送っていた。


 不思議なもので、ごくありふれた生活の中には素敵な発見が沢山あった。

 季節の移ろいや可愛い雑貨、美味しい食べ物、夕暮れの散歩道。

 そして、男性。


 カフェの常連だった彼は、近所の設計事務所に勤務していた。

 仕事で煮詰まった時だけではなく、失敗した時や成功した時、昇進した時にもお店に顔を出してくれていた。

 たまたま勤務時間が終了するタイミングで彼が入店し、ちょっとした挨拶を交わした後、実に自然な流れで私は客として彼の隣に座る。

 今までにも幾度となく聞いてきた上司の悪口を聞きながら彼に不思議な心地良さを感じていた私は、ついうっかりと彼の手を握ってしまっていた。


 「え・・・あの・・・ユカリさん?」

 顔を真っ赤にした彼の顔を見て自分のしでかした事に気付いた私は、少々パニックに陥る。

 そうなると、長年染み付いてきた思考回路が無意識のうちにつながり、事もあろうに食事に誘う発言をしてしまっていた。


 今まで、それは大人のたしなみとして、社交辞令として処理されていたが、彼にとってはそうではなかった。

 そうではなかった事に戸惑いつつも、自分の職場で発言した内容については責任を取ろうと、後日近所の居酒屋で食事をする事に決まる。

 

 そこでも先日感じた不思議な心地良さが私を包み込んだ。

 たっくんやマネージャーの良いところだけを取り出し、そこに幼少期の父との思い出がプラスされたような感覚だ。

 その後も、二度三度と食事を重ねその心地良さが不思議な物としての認識から確信に変わったところで、私から交際を申し込んだ。


 見た目は悪くない。

 悪くないどころかイケメンの部類に位置していると思う。

 今までにお付き合いした経験が無い訳ではないみたいだけど、食事の席で所謂草食系男子で自分に自信を持てない人生を歩んできたと聞いた。


 そんな彼とのお付き合いもそれなりの期間が続き、結婚の二文字を意識し始めた頃、私は両親と和解した。

 和解したと言っても、何年も音信不通だった人生のレールを外れた娘に対して歓迎ムードは皆無だ。

 付き合いを深めていく中で私の人生の歩みを少しずつ把握し、今では一切合切を承知している彼も

 「ご両親の立場を考えれば無理からぬ事だよね」

 と言っていた。


 「そうは言ってもさ。だからこそ、このタイミングで挨拶しておいた方が良いと思うんだ。」

 正直に言えば私の気は重い。

 最後は彼の提案に従う事になるのも解っていたし、私自身もその方が良い、そうしたいという気持ちもあった。

 それでも、私はもう少しだけ抗いたかった。

 

 「あ!そうだ!忘れてた!」

 私は話をはぐらかそうと、冷蔵庫へ向かう。


 「これこれ!これ入れてみて!」

 手に、チューブタイプのマーガリンと刻み海苔の袋を持ち彼の隣に座る。

 私はあの汚い部屋を思い出しながら、ユカリちゃん特製ラーメンに海苔とマーガリンを入れる。


 今日は彼にもう一つ話をしなければならない事があった。

 バッグの中に入っている、付録付きの分厚いピンク色の雑誌と一枚の写真。


 彼は喜んでくれるかな。


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 式は挙げていない。

 店主の好意に甘え職場を借り切った簡単なパーティを、両家の両親と彼の友人やカフェの常連だけを招いて開いただけだった。


 その席で、酒に酔いながらめでたいめでたいと連呼している店主が言う。

 「いやぁ、ユカリちゃんって、大人しい子かと思ってたらさ。実は肉食女子だったんだねぇ」


 彼とのお付き合いの発端である、あの日。

 そこで起こった出来事を一部始終見ていた店主の、驚いた顔をはっきりと覚えている私としては

 「やめてくださいよ、今の時代その発言は立派なセクハラですよ!」

 といなしつつ、あの居心地の良さを手に入れた今は、そう思われても誇らしいくらいだった。

 

 色々あった。

 そして、これからも色々あると思う。

 でも、ここまで来たらきっと大丈夫という想いもあった。


 だから、私は日々大きくなっていくお腹を少し強調するようなポーズをとって言った。

 「違いますよ、私は肉食なんじゃなくて"メンクイ"なんです!」 


 今までの私を彩ってきた全てが、これからの人生を彩ってくれると信じて。

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