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一皿の記憶 -ダレカ と ナニカ-  作者: ユ・サド・クアザ


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1/3

1皿目『マスター と ローストビーフ』

 ねぇ。

 わたし、アレが食べたいの。

 マスターが前に作ってくれたアレ、なんて言ったっけ。

 外は焼けてるんだけど、中は生みたいに柔らかいお肉。


 ───したたかに酔った私が独り言のようにつぶやくと、彼は手にした缶ビールの残りを喉に流し込んでから「…ローストビーフ?」と応えた。


 私が『マスター』と呼ぶ彼は市内で何軒かの飲食店を経営している。

 仕事仲間との女子会が早く終わってしまったある日、なんとなくまだ一人暮らしの家には帰りたくないなぁ、と帰路を外れて路地裏を散策しているうちに、ちょっと入りにくいが小洒落た雰囲気のお店を見つけた。

 素面だったらきっと入れないなぁと思いつつも、酔った勢いもあり、勇気をもってふらっと立ち寄ったお店に彼が立っていたのが知り合ったきっかけだ。


 初めて訪れたお店なのに、この手のお店にありがちな極端なよそよそしさや馴れ馴れしさとも縁遠い印象。

 彼もスタッフさんたちも、程よく話しかけてくれるし、程よく放っておいてくれる。

 絶妙な距離感を筆頭に不思議と居心地が良く、所謂個人のお店が苦手な私も気付けばすっかり常連ポジションにハマってしまっていた。


 どうしてこんなに足が向いてしまうのか。

 自分でも良く解らなかったけれど、マスターを始めとする"人"の醸し出す雰囲気が好きだからと言う事に気付くまではそう時間はかからなかった。


 ローストビーフが食べたいと言った翌々日、彼は近所のお肉屋さんのロゴが入った袋と共に我が家を訪ねてきた。

 10歳近く年の離れた彼とのこうした時間は本当に心地良い。

 私はそろそろ将来の事を真剣に考えねばならない年齢だけれども、彼にはあまりその気はないらしい。

  

 「こういう肉はね、やっぱスーパーで買ったらダメだよな。」

 少し鼻にかかるような独特な低音ボイスで彼はそう言う。

 彼の手の平の上では、かなり大きめの”肉の塊“がその色と艶を持ってその存在感を示している。

 

 彼は鮮やかな手つきで不格好な塊の肉を四角形に成形する。

 「家のフライパンでやるから、真四角な方がやりやすいじゃん?」

 独り言のように話しながらほんのり桜色をした塩を刷り込む彼の後ろで、私はそっと体を寄せて作業を見守る。

 

 切れた凧のような自由奔放な彼。

 幾度か束縛を試みたが、私には彼をコントロールする事は難しいみたいだ。

 でも、こうしてそっと寄り添えるこの時間は、他の誰のものでもない。

 私たちだけの貴重な空間。これで良いのかと言う疑問を抱く時間も勿体なく感じてしまう。


 少しだけ動きにくそうな彼が、塊から切り出した牛脂をフライパンで温める。

 それが小さくジュゥッと音を立て始めると、何とも言えない良い香りがキッチンに立ち込めた。


 私は体を離し、アルコールのストックを物色する。

 ローストビーフに合わせるなら、やっぱり定番で赤ワイン?さっぱりとハイボール?それとも・・・

 典型的な酒飲みのような思考回路に我ながら参ってしまう。

 

 「あ、合わせるお酒も用意してあるよ」

 四角い塊肉を一面一面丁寧に焼きながら、彼は肉の入っていた袋に視線を送る。

 そこには、深い藍色に白抜きで酒の銘柄と<純米>の文字が入ったラベルが見えた。

 

 なるほど、日本酒を合わせるのね・・・となれば、グラスはフルートグラスが良いわよね。

 女の一人暮らしにしては幾分大きめの食器棚から、薄口の縦に長いグラスを二つ取り出して、先ほどと同じように後ろから彼にひっつく。


 これで良い?と確認すると、彼はにっこりと笑ってうなずく。

 そろそろ中年に差し掛かる彼に対して、屈託のない笑顔と言うのは少々気が引けるが、私はその顔がたまらなく好きだ。

 無精ひげで唇がチクチクする事も厭わず、頬にキスをする。

 うふふ、と笑う彼の手元からはとても良い香りが立ち上がっていた。


 お肉が焼かれていく音は、降り続く雨音のように絶え間ない。

 六面ある細長い肉塊は二つの面を残してきれいな焼き色が入っている。

 熱せられて身から出た肉汁がフライパンに落ち、ジュっと少し大きめの音を立てて煙を上げた。

 その香ばしさが肉につくから美味しくなるんだ、と言うのは彼の弁だ。


 彼は淀みない手つきで最後の一面の焼きに入る。

 焼き上がりが近い事が悟った私は、グラスとお酒をソファーの前のローテーブルにセッティングする。

 カトラリーはいつもお箸と箸置きだけ。

 彼が我が家で初めてローストビーフを作ってくれた時に『これは和食だ!』と豪語していたのに倣っている。


 冷蔵庫から作り置きのおつまみを出す。

 今日の為に、数種類のキノコを軽く炒めてポン酢と醤油を合わせたタレに漬け込んであった。

 グラスに常温のままの日本酒をトクトクトクと注ぐ。

 立ち上がった日本酒の香りが鼻腔に残っていたローストビーフの香りと混ざり合う。 

 幸せの香りだ。


 肉を焼く音が止まり、彼がリビングに入ってきて私の隣に座る。

 彼が座るとぐっと沈むソファー。

 ちょっとだけ座りにくくなるけれど、これも普段は味わえない感覚。

 互いに互いへの感謝の気持ちをそれぞれ言葉にしつつグラスを合わせる。


 現実は映画やドラマとは違う。

 グラスを合わせても小さく無機質なコツンと言う音がするだけ。

 でも、これもまた、私たちにしか聞くことが出来ない音だ。

 もしかしたら、こうした事の積み重ねを人は幸せと呼ぶのかもしれない。


 日本酒の一口目。

 アルコールが渇いた喉をじわじわと伝い食道まで温める。

 鼻に戻ってくる日本酒の香りが消えないうちに、もう一口、ゆっくりと口に含み酒の味を堪能する。

 ふと彼を見ると、漬け込まれた椎茸を食べつつウンウンと頷いている。

 おいしい物を食べた時の彼のクセを見て、心の中で小さくガッツポーズを決める。


 会話のギアが上がる前に、と彼が立ち上がる。

 支えるお尻がなくなったことで形を変えたソファーがまたしても私の居心地を悪くする。

 私もグラスを置き、彼の左後ろ───ひそかに定位置と呼んでいる───に身を置く。

  

 どうしたらこの家にある包丁で、そんなに薄くそして綺麗にスライスできるのか分からないが、彼は焼けた塊肉から丁寧にスライスした花弁のような肉を一枚一枚皿に並べていく。

 自分でやると何度も包丁を前後させてしまうが、彼は手前から奥へ向かって一回動かしただけでスゥっと切っていく。

 素人考えでは、どうせ食べちゃうんだからただ並べれば良いのにと思うが、彼は一枚一枚が微妙に重なるように几帳面に並べる。


 職人と言うと謙遜してしまう彼の手は、ゴツゴツとがさついていてまさに職人の手だ。

 一般的には手荒れが酷いと言われそうなその手で、今宵の主役を産み出している光景は見ていて飽きる事がない。

 

 もっと見ていたいのにと言う心の叫びは彼には届かない。

 届いたところで、切るべき対象がなくなってしまえばその願いも叶わない。

 「はい、おしまい!お待たせ~」

 そう言いながら、彼はちょっと背伸びして私のおでこにキスをする。

 この不意打ちは、頭の中を見透かされたみたいでちょっと恥ずかしい。

 

 ローテーブルは二皿のお料理とお酒で彩られた。

 シックなトーンのテーブルに肉の赤みがとても映え、グラスの高さとメインの器の高低差がご馳走感に拍車をかける。


 「じゃ、改めて乾杯。」

 ここからが本番ですとでも言いたげな表情をする彼と、もう一度無機質な音を奏でる。


 こんな付き合いを一年程続けているが、彼はいつ見ても彼だ。

 お店で見ている彼と私の隣にいる彼との間に大きな乖離はない。

 表裏が無いと言えば聞こえは良いが、もう少し位私にしか見せない一面があっても良い気がする。

 彼を慕う色々な人がきっと同じことを思っているに違いないし、こういう所に魅力を感じているのもきっと私だけではないはずだ。


 ほんのりとした悔しさを抱えていると、彼は少し大げさに『あ~ん』と言いながら私の口の前にローストビーフを一枚持ってきた。 

 もちろん私は満面の笑みで大きく口を開け、それを迎え入れる。

 ほどなく口の中に放り込まれたローストビーフは、日本酒で少し甘ったるくなった舌に程よい塩気と肉々しい旨味をもたらす。


 薄くスライスされたローストビーフは噛み締めるほどにその旨味を口内へ弾き出す。

 彼に言わせれば『全然高級じゃない、並みの肉』であり、調理も至ってシンプル、調味は塩だけでソースすら作らない。

 旨いには旨いが、この料理を正確に表現するのならばローストビーフではなく牛肉のたたきにならないか、と言う話題で盛り上がった事があった。


 表面にはしっかり焼き目が付き、中心に向かっていくにつれ綺麗なグラデーションで肉本来の色味になっていく。

 中心部は極々低温で火が入り完全に生ではないものの、実際他のお店で食べるローストビーフとは異なる代物だ。


 それでも彼はこれをきっぱりローストビーフと呼ぶ。

 そのちょっとした頑固さが味にまで移っている気がするが、このしっとりとした舌ざわりと冷めても崩れない旨さを他で味わった経験がない。


 飲み込んでしまうのがもったいない。

 お世辞の類やシチュエーションがそうさせるのではなく、素直にそう感じる。

 しかしながら、噛んで解けた肉はこちらの意思に反して、自然と胃に滑り落ちていく。


 あぁ・・・残念。でも、残念がってばかりもいられない。

 口の中にその余韻が残っている間に、グラスの日本酒を口に含む。

 

 肉には赤ワインと言う固定観念があった私は、当初日本酒と合わせる事に抵抗があった。

 ところが、彼に言われるがまま試してみると、赤ワインのきゅっとした渋みよりも日本酒のやわらかな旨味の方が、肉の甘さをそっと底から支えてくれる気がした。

  

 「どう?美味しい?」

 まったく。

 どうしてこの人はこんなに澄んだ目で私の事を見るのか。

 美味しいし旨いし最高に幸せに決まっているじゃないか。

 

 一旦は薄らいだ先ほどの悔しさを思い出し、言葉の代わりに頬へのキスで応える。

 ご満足いただいたようで、と言いながら彼もローストビーフと日本酒のマリアージュを楽しんでいる。

 

 酒が進み、話は弾む。

 彼は、お店の事、お料理の事、普段の生活の事。

 私は、仕事の事、最近観た映画の事、値段が上がった化粧品の事。

 割としょっちゅう顔を合わせているのに、話題は尽きない。


 会話のテーマが旅行で行ってみたい場所に切り替わって間もなく、彼はトイレに行く為に席を立った。

 勢いよく立ち上がる彼とそれにつられるように挙動するソファーのせいで、私はバランスを崩す。


 酔いが回って心地が良い。

 崩したバランスに抗う事なくソファーに横になる。

 彼が収まっていたソファーのくぼみが暖かい。


 見るともなしにローテーブルの脇に置いてある自分のカバンが視界に入る。

 カバンの中に無造作にしまい込んでいるスマートフォンの通知ランプが、誰かからのメッセージがあるという事を知らせていた。


 手を伸ばしてカバンを引き寄せ、スマートフォンを取り出す。

 ロック画面を表示させると、メッセージの主が誰だか解った。

 親指がメッセージを開きかけたところで止まる。

 画面をオフにして、そのままカバンに戻した。


 程なくして、トイレの水が流れる音が聞こえる。

 彼の帰りを待ち構えるため立ち上がる。


 リビングのドアが開き彼が入って来た瞬間を狙って勢いよく抱き着く。

 おうおうおう、と言葉にならない声を上げる彼から一旦身を離し、もう一度、さっきよりも強くぎゅっと抱きしめる。


 ほんのりと彼に残る肉を焼いていた時の香りが鼻孔をくすぐる。

 彼の腕に包まれ、私はもう一度だけ、ゆっくりと深く息を吸い込んだ。

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