第39章―過去までの距離その14―
そして金曜日が来た。私は朝から胃が痛くてしかたなかった。今日、志生が帰ってくる。多分、全く逢わない訳にはいかないだろう。結局昨日も1日考えたけど、答えなんか出なかった。どうしていいのかわからない。よほど、あの人の勤め先の病院に様子を見に行こうかとも思ったが、そんなことをしても仕方ないと思いなおした。その一方で奥さんから連絡が来るんじゃないかとか、あの人の所持品に私の携帯の番号がどこかに残ってないか(結局後で携帯は変えたんだったと気づいたが。)とか、そういうさもしい気持ちもあった。あの人だけじゃない。ずるい、ずるい私。
潤哉は昨日の夜もメールをくれた。答えを急いで出すなと言ってくれていた。私もそうしたい。時間が欲しいと言えればどんなにいいだろう。でも、仮に富田さんのことだけ理由にしたとしても、私にとって問題はすでにあの人のことだけに絞られつつある。そしてあの人はいない。死というものは、つまりそこで時間も止まると言うこと。そして私の時間も、あの人が死んだ日から止まってしまったのかもしれない。止まっているからこそ、時間があってもなくても答えが出ない。どんなに時が過ぎようとも、あの人が死んだという事実から逃げられないからだ。時間が経てば納得できるわけではないからだ。
勤務中もついため息をついてしまう。たぶん私は自分でも気づかないうちに何度もため息をついてたのだろう、主任に声をかけられた。
「暁星さん、どうしたの?体調でも悪い?」
「いえ?何ともありませんが。」
「ため息ばかりついてるわよ。」
「(やば。)え、本当ですか。気付かなかった、すいません。」
「この頃何となく元気ないし。大丈夫なの?」
「本当に何ともないんです。給料前なのでため息出ちゃったんですかね。」
私が冗談で流そうとするのを主任は気付いて、そのまま笑顔を見せた。
「ま、いいわ。でも、患者さんの前では気をつけてね。プロなんだから。」
「はい、すみませんでした。」
ああ嫌だ嫌だ。看護婦になって2年目なのにこんなこと注意されるなんて。仕事にプライベートを持ち込まないのが信条だったくらいなのに。不倫してる時だってこんなに追い詰められなかった気がする。・・・私は本当に志生に別れを切り出せるんだろうか。というより、切り出さなければだめなんだろうか。いっそ志生から“別れよう。”と言ってくれたらいいのに。またあの時のように、私から傷つけなきゃならないのかな。私は傷つけるより傷つく方がいいのに。また大好きな人を傷つけるのかな。どうして?私も志生も、何もしてない。志生はこの件で何も悪いことしてない。なのに・・・。ダメだ。考えようとすればするほど頭が混乱する。
午後になり、私はある患者さんの検査結果を持って医局に向かっていた。医局というのは、ドクターたちの控室(他の意味もあるがここでは控室とします:作者)のような部屋である。
「失礼します。Y先生、いらっしゃいますか。」
「いるよ。」
外来を終えて一息しているドクターが結構いた。
「あ、先生、Mさんの採決の結果出ました。」
「おう。見せて。」
私がそれをドクターに見せている間、奥の方から若手のドクターたちの声が聞こえてきた。
「でもさあ、なんで自殺なんかしたんだろうな。これから稼げるようになるっつー頃に。」
!・・あの人のこと?
「遺書もなかったから大変だったらしいよ。」
!!
「ええ?そうなんすか。」
何が?何が大変だったの?背中に汗が流れる。
「いや、僕の知り合いの医者がW大にいるんだけど。確かによく休んでたけど、自殺までするほどじゃなかったらしくて。院内でなんかあったんじゃないかとか、看護婦と不倫はなかったかとか。医局からナース、検査、レントゲン、とにかく職員全体をいろいろ調査したようですよ。」
!!!
「人間関係ってことね。で?何か出た?」
「いいや。何も。」
「家庭は?」
「奥さんも全く原因がわからないらしくて。結局大学に迷惑かけたって、謝りまわってたって。」
!!!!
私は、会ったこともない彼の奥さんが一生懸命頭を下げている姿を、想像力全開で頭に描いた。心臓が凍る。涙が出そうだ。私が自分のことだけで精一杯だった時、奥さんはあの人の尻拭いをしていたのだ。私は・・。私は・・。なのにどこかでホッとしている。私のことがバレなかったことを。私ってそういうレベルだったんだ。どうしよう、どうしよう・・・。
「暁星さん、暁星さん?あかぼ・・・」
いたっ!
「あ、気がついた。」
・・ここどこ?
「大丈夫?やっぱり調子悪かったんじゃないの。」
「主任・・。」
私は処置室のベッドにいた。痛かったのは点滴のために針を刺したからだった。・・そうだ、医局で・・、私・・。
「先生方がびっくりしてたわよ。医局でナースが倒れるなんて聞いたこと無いって。貧血みたいね。生理?」
「す、すみません。私・・・。」
「明日の夜勤、どうする?」
「大丈夫です、できます。申し訳ありません。」
「今交代しなかったらもう無理よ。」
「大丈夫です。」
「じゃあ、今日はこの点滴がすんだら帰っていいわ。と言ってももう3時だから終わったころには業務も終わるけど。」
「本当にご迷惑かけました。」
主任がしょうがないわね、とでも言いたげに微笑んで処置室から出て行った。情けない・・。あれくらいで倒れるとは。こんなにやわだったかなあ・・。ああ・・何も考えたくない。
点滴が終わり、タイムカードを打って更衣室に行く。着替えて、職員駐車場へ向かう。何も考えたくない私。でも世の中そんなに甘くない。過去からも逃げられず、現実からも逃げられない。そこには予期せぬことが待っていた。訂正。予期せぬ人が待っていた。
「俺に2度とこんな真似させないでくれ。萌。」
・・・志生。世の中そんなに甘くない。