第40章―過去までの距離その15―
駐車場に志生がいるのが理解できるまで一瞬間があった。そうだった。今日金曜日だった。
「どうして俺がこんなストーカーみたいなことをしなきゃならないんだ。」
「何故いきなり携帯がつながらないんだ。」
志生の言葉に返事が出来ない。
「アパートにいるのかわからないし、今日の君の勤務も知らない。」
・・・・。
「ここに来るのが確実かと思った。」
スーツケースを持っている。駅からじかに来たのだと思った。
「・・・何とか言ったら?」
ああそうか。何か言われたら返事をしなければならなかったか。それさえ私はわからなくなるほど参っているのかな。
「萌。」
どう言えばいいのだろう。どう言えば伝わるのだろう。事実を伝えることはできる。でも、真実を伝えることはなんて難しいことだろう。難しいことだろう。何も言えずに私は、それでも車の助手席のドアを開け、志生に乗るように促した。
車を出したものの、どこへ行ったらいいのやら。志生も黙っている。困った私はとうとう口をきく。
「どこへ行ったらいいの?」
志生は返事を返さず黙っている。私は仕方なく、あてもないまま適当に車を走らせていた。しばらくすると急に志生が
「明日勤務何なの?」
と訊いた。
「夜勤。」
と答える。これで今夜時間が取れることはわかってしまった。かといって今さら嘘を言っても仕方ない。
「そこのコンビニで停めて。」
私は志生の言うことに従った。コンビニで車を停める。志生が車を降りてコンビニに入っていくのをただ呆然と見ていた。しばらくすると両手に袋を持って志生が出てきた。
「何をそんなに買ってきたの?」
つい、今の状態を忘れて普通に声が出てしまう。
「飲むものと食べもの。」
「こんなに。」
コンビニで買うには目立つくらいの量だった。最も袋のひとつはアルコールであったが。スポーツドリンクの2リットルペットボトルも見えた。
「萌んちいって。」
「・・・うち。」
私は何となく気が進まなかったが、結局そのまま私のアパートに向かった。
彼が降りる時あの大きなスーツケースも降ろしたので、今夜帰る気がないんだなと思った。長期戦になるのも仕方ないか・・。半ばあきらめてコンビニの飲み物のいっぱい詰まったビニール袋を持とうとすると志生が手を出した。
「萌はこっち持って。」
と私に食べ物の入った軽い方のビニールを出した。
「え、でも、志生重たいんじゃ・・」
という間もなく志生はスーツケースと重いビニール袋を持って階段を上がりだした。その後ろ姿を見て、私は改めて”この人は男なんだ。”と思った。立派な大人の男なんだ。私には重たい荷物もこの人にはそうでもないんだ・・。その姿は今の私の心情を妙に刺した。
部屋に入り、電気をつけるため照明のスイッチを入れようとした時、後ろから急に暖かいものが覆った。
「・・逢いたかった。」
志生が私を抱きしめている。首の後ろに温かい志生の息がかかる。それはずいぶん懐かしい匂いだった。この数日間、私が恋い焦がれていた匂いだ。志生の匂い。自然に涙があふれてくる。何も言えない。言葉が出てこない。
「今週の仕事が今までで1番辛くて長かった。こんなに早く帰りたいと思ったこと無いよ。」
・・・。ずいぶん長く志生は私を離さなかった。私もそのままそのぬくもりに身をゆだねた。・・・恍惚。多分こういうのを恍惚を言うのだろう。今私は、世界中を飛んでゆく渡り鳥のように自由だ。砂漠を沈んでゆく太陽のように何も怖くない。私の心は・・心はどこまでも飛んでゆく。心はどこまでも太陽や月のように無限だ。そんな幸福感が私を包んだ。やがて志生はゆっくりと私の前に移ってくる。その間も私の身体から手を離さずに。そしてゆっくりとゆっくりと唇を重ねた。その唇が私の唇に重なるまでの時間が、私にはまるで永遠のように永く感じた。すべてがスローモーションだった。私は志生の背中に手を回そうとしたけれど、彼が私の身体全体を包んでいるため何も動けなかった。このまま時間が止まってしまえばいい。今、地震が起きて二人朽ちてしまっても私はいとわない。何も望まない。この人さえいればいい。そんな幻想が去来した。
「失くしてからじゃ遅い。」
潤哉の言葉がリアルによみがえる。わかってるよ。わかりすぎるくらいわかってる。私はどうしたらいいのだろう。私が守りたいものは何なのだろう。貫くべきは何なのだろう。誰への心なのだろう。誰への愛なのだろう。この人を失いたくない・・。その為に私は何を失うのだろう。何を捨てなければならないのだろう。何も告げずにこの人を手に入れるためには、方法は一つ。私が、私の心を捨てるしかない。真実の心を。人間らしい敬いの心を。人ひとりの命より、自分の欲しいものを取ったという蔑むべき懺悔の心を。




