第104章―意味すら意味のない抱擁―
「・・どうやって病室を出てきたのか思い出せないんだ。どこをどう歩いていたのか分からない。気が付いたら萌のアパートの前に来てたんだ。」
本当に久しぶりに誰かに抱きしめられたのに、しかも一番抱きしめてほしい人に抱きしめてもらえているのに、私の頭は「テガミ。カンゴフ。メモ。M。」でいっぱいで、志生は志生でここに来た言い訳をしていた。
でも決して志生はそれ以上のことをしてこなかった。そのことで私は逆に志生への信頼感を深めていた。私は二人分の熱い紅茶をいれて、
「依然置いて行ったTシャツがあるから着替えて。」
と、タンスから志生のTシャツを出した。
「これ、ここに置きっぱなしだったんだ。どうりでないと思った。」
志生はそう言って濡れているシャツを脱いだ。久しぶりに志生の肌を見る。ちょっとドキッとした。Gパンも濡れていたので脱いだシャツと一緒に干した。さすがにGパンの替えはなかったのだが、いつのまにか彼はベッドにあった毛布をかけて座っていた。あまりに普通にそうしたので、まるであの頃のような錯覚を起こしそうだった。とにかく今は「テガミ。カンゴフ。メモ。M。」をどこかに閉まった方がいい。
「知紗さんがもう来るなって言うんだ。もう会いたくないって。だんだん自分が醜くなるからって。」
「・・何か影響出てるの?抗がん剤とか。」
「いや・・。俺から見るとほとんど変わってないと思うんだけど。痩せたくらいで・・。」
それから志生は知紗子さんとのことを話し始めた。結婚を決めて婚姻届を持っていったこと。周りが本当に温かい目で見てくれて、昔を思うと信じられないくらいだということ。毎日たくさんの色んな事を二人で小さな声で話すのが幸せだということ。その話し方には私への気遣いはまるで感じなかった。私がこの前まで婚約者だったことなんて忘れているかのような・・いや完全に忘れていた。なかったかのようだ。それくらい正直に志生は自分と知紗子さんとのことを赤裸々に語った。
私はぼんやりとそれを聞きながら、でもあまり耳に入ってなかった。閉まっておいても「テガミ。カンゴフ。メモ。M。」の文字が脳裏に浮かんできたし、どうしてこんな夜中に、たとえ志生と知紗子さんのことであっても、ヒトの恋路の話など聞かなければならないのか。
そう思ってハッとする。どうしてそんな風に思っちゃうんだろ?・・・参ってる。やっぱり自分で自分の本心がつかめない。目の前にいるのが志生なのに、まるで遠い他人みたい。
「・・・で、今日はとりあえず帰ってきたんだけど・・。」
あ、話が終わっちゃいそう・・。どうしよう、なんか言わなきゃ?でも言葉が出てこない。
「気が付いたら萌のアパートの前にいて・・。明かりもついてて・・。でも会うわけにはいかないって思って・・。」
「・・・。」
「俺、ただ甘える場所が欲しいだけなんだよ。知紗さんと会ってる時、俺は俺なりに考えてる。不安がらせないようにとか、なるべく明るい話題とか。でも、多分だんだん疲れてきてて、そこへ知紗さんの“もういい”がまた始まって、」
「また?またって何?」
「ああ、いや・・、時々言うんだ。もういいって。もういいから好きなとこへ行って、とか。」
・・・なるほど。
「でも、萌に甘えようなんて虫がよすぎるよな。ゴメン。」
「・・・。」
志生がそう言って力なく微笑んだのに対して、私はどう返事すればいいか分からず黙っていた。返事をせず、どんな顔をしていいか分からないといった表情をしている私を見た志生は、ちょっと傷ついたようだった。
「俺、帰るよ。本当にゴメン。」
志生が立ち上がり、まだ濡れてるGパンを無理やり穿いた。
「ちょっと、まだ乾かないわよ。もう少し待ってたら?」
「でも、ここにいたら迷惑だろ?眠れないじゃないか。」
志生の言い方は少しいらついていた。やはりさっきのことが堪えたのだろう、そう言う彼の顔はこの部屋に招き入れた数分前より疲れた表情だった。
「ゴメン、違うのよ。別に迷惑じゃないし、甘えてもいいのよ。でも今日はちょっと私も困ったことがあって・・。」
言いながら、どうして私はこの男にこんなこと言ってるのだろう、と思った。何を言い訳しているのだ?実際さっきは志生と知紗子さんの話にうんざりしたのに?やはり私はどこかおかしい。混乱している。
「困った事って・・、どうしたの?」
志生の表情が和らぐ。
「なにかあったの?」
「・・・奥さんに会ったの。」
「奥さん?・・誰の?」
私は志生と付き合ってた時にも既にあの人の奥さんと会っていたのだが、志生には黙っていた。富田さんが現れてバタつき始めたのもあるのだが、根本的には志生に話すことじゃないと思っていた。なんとなく話したくなかった。志生に話したところで心配させるだけだと思っていたし、私があの人のことで昔の思い出を辿っていることを知られたくなかった。
「あの・・、死んだ人の。」
「?・・ああ。萌の昔の彼氏の?」
もちろんそれも仕方ないことだけど、志生は私の“そのこと”も忘れてしまっていた。そういう言い方だった。それは私を少し、いや、はっきり傷つけた。傷ついたことで、私はさっき「参ってる。混乱している。」と書いたけど、それは志生と富田さんのことや、志生が私との色んな要素を忘れていることに傷ついた結果の心情なんだと理解した。理解したところで、だからどうなるわけでもないのだけど。そして、それを素直に口に出せる可愛げもないのだけど。
それから私は大雑把に、奥さんと自分が何度か会ったこと、でも向こうは私が“夫の愛人”とは知らないことなどを話した。
「そうだったんだ・・。ごめんな、俺、何にも知らなくて。」
首を横に振る。
「そうだよな、萌にも萌の問題があるんだよな・・。俺、自分ばっか大変みたいな顔してて・・。自分の気持ばっか押し付けて・・。」
「違う、違う。いいの。私が奥さんには後ろめたいばっかりに色んな事が気になってるだけなの。」
「いや、俺が悪いよ。悪いって言うか・・、視野が狭いよな。知紗さんで手一杯でさ。」
「病人相手っていうのはそういうものよ。看てる方も疲れるわよね。」
「でも俺、それをわかってて知紗さんのとこへ行ったんだよ。萌を泣かせてまで。後悔したくなくて。・・正直言うと、萌と亡くなった彼の話を聞いてそう思ったんだ。このまま知紗さんと会うこともなく知紗さんが死んじまったら、きっと後々後悔するって。それで萌と一緒になっても、いつかきっと俺達が見ないふりしてきたものが綻びになって顔を出すって。だから俺は知紗さんのところへ行って、そして知紗さんの人生を見届けるって決心して・・。」
志生はそこまで言って言葉に詰まった。私は志生の横顔を心に刻みこみながら、本当にこの人が遠い人になってしまったのだと思った。
そう思ったら自然に手が志生の首に伸びていた。志生もそれに応えて私の背中に手をまわしてくれた。それは本当に意味すら持つのも意味のない抱擁だった。涙も出ない、吐息も漏らさない、ただ相手のぬくもりだけを求めた抱擁。
そしてゆっくりと互いの身を離して、そのまま志生は無言で出て行った。