第103章―志生と呼べないその2―
「まぼろしの跡」をお読みくださる全ての方、本当に大変長く更新できなくて済みませんでした。パソコンが戻ってきて、なんとか更新できることになりました。でも前回の102章と合わせて1章分としたかったのでやや短いです。ご了承ください。これからもよろしくお願いいたします。樹歩
「やあ、今回は気の毒だったね。」とでも言えばいいのか。正直逃げたい気分だった。
でも萌に一人で会いに行った方がいいと言われ、逃げ道を断たれた。結局俺は半分迷いながら知紗さんの病院へ行き、彼女の涙を見ることになった。
「もういいから。もういい。今までのことは忘れて。」
と、音もなくとめどなく流す涙を。
俺は納得して知紗さんと生きることを選んだ。たとえ短い時間でも誰にも負けないほどの深い愛情を彼女と育んでいこうと思った。実のある人生だと思った。
幸せは時間じゃない。幸せを図る物差しなどこの世の何処にもない。少なくとも俺はそう思っていたし、今も思っている。きっと知紗さんも同じだろう。
あんなに誰からも反対され中傷されていた俺たちが、こうしてわずかな人たち(まあ、そんなに公にもしなかったので。)でも祝福してもらえる二人になれたのだ。幸せ以外になんて表現すればいい?
俺が婚姻届を見せたとき、彼女は本当に心の底から驚いていた。彼女の両親もだ。すでに俺の名前は書いてあった。彼女は
「この用紙は私の宝ものよ。市役所になんて出せない。」
と言って婚姻届を小さく折りたたみ、パジャマのポケットに入れた。そしてそれは俺が知る限りそのままだった。
知紗さんの「もういい」は今までも何度もあった。時々ふっと出てくる。不安と死と向き合う恐怖の中で、多分時々ふっと暗い穴に堕ちてしまうのだろう。自分でも気づかないまま、すとんと。でも今日の知紗さんの「もういい。」は違った。いつもの散歩だったのに、病室に戻った途端とても不機嫌な声を出した。
「どうした?何が“もういい”の?」
俺は内心、また始まったと思っただけだった。彼女は「もういい」とは言うものの、その後言葉が続くことはなかった。ただ黙って俯いた。俺はその度に彼女を抱きしめた。
抱きしめると、本当に彼女は軽くて、薄くて、小さかった。昔抱きしめた感触のそれとはまったく違っていた。俺が抱きしめたままでいると、彼女は泣くこともあった。でも決して泣き声をたてなかった。静かにただ涙を流していた。抱きしめる腕にかすかに伝わる震えさえなかったら、彼女が泣いてることなんてわからないと思う。それくらいの静かさだった。
今日も俺は彼女の肩に手を伸ばした。「もういい」のが何かはわからないが、何か不安になったなら抱きしめた方がいいと思った。でも知紗さんは俺の手をそっと止めて、その上に自分の手をのせて言った。
「穂村君、本当にもういいの。もういい。」
「知紗。」
「・・・私幸せだった。とっても。感謝してる。」
「・・俺も感謝してるよ。」
「うちの両親もあなたには本当に感謝してもしきれないって。あんなに酷い仕打ちをしたのに。」
「・・昔のことだよ。」
「・・・・・。」
俺たちはお互いの手のひらを合わせながら、その後何も言わなかった。何か上手い言葉はないかと思ったが、もともと口が回るほうじゃない。それに、大切なのは“上手い”ことじゃない。本心を伝えること。それが無ければ意味がない。
知紗さんはその涙と同じくらい静かに言った。
「・・これ以上一緒にいたくないの。」
「なぜ?」
「・・・酷いね、穂村君。」
「俺、何かした?」
「・・・こうして一緒にいることが苦しいって言ってるのよ。」
「なぜ?」
「・・・・あなたが私を想ってくれてることはわかってるの。本当よ。結婚しようって言ってくれたことも嬉しかった。・・でも、私の体はそろそろ限界に近付いている。毎朝目が覚めると、安心と恐怖が同時に襲ってくる。今日も生きてるという安心と、いつかは目を覚まさなくなるという恐怖。」
「・・・・。」
俺はどう返事したらいいか分からずに言葉に詰まった。今までそういう話はなかったから今更ながら動転した。いつかこういう日が来ることは十分予想がついたことなのだから、もっと早く心の準備をするべきだった。
「これからだんだん薬の後遺症も出てくるでしょう。私が私じゃなくなってゆくでしょう。・・・醜く、あと先無く恐怖で声を荒げるでしょう・・。そんな姿をあなたに見せたくない。この世で一番愛してる人に見せたくないの。・・わかるでしょう?」
「ねえ、知紗、俺は・・。」
「穂村君。・・・やっぱり私は志生って呼べそうにない・・。」
彼女はそう言って、俺が知ってる彼女の顔の中で最も美しい笑顔を見せた。涙でぐしょぐしょで、決してにっこりなんて笑顔じゃなかったけど、とても凛とした笑顔だった。




