第102章―志生と呼べないその1―
まぼろしのあとを読んで下さる皆さんへ 実は最近パソコンの調子が悪くて、本日メンテナンスに出すことになりました。しばらく小説が書けない可能性がありますので、まだ途中ですが102章を更新いたします。でも通常よりずっと短い文章です。パソコンが戻り次第また書きますので、ご了承ください。申し訳ありません。樹歩
「ねえ、穂村君。もういいよ。」
日課の散歩から病室に戻った途端知紗さんがそう言ったので、何を言ってるのか最初わからなかった。
俺はいつも昼前には病院に入る。そして消灯時間まで知沙さんと過ごす。会社を退職してからずっとそういう生活になった。
仕事を辞める時、ずいぶん色んな人から色んなことを言われた。結婚すると言ってたのが結婚も中止、仕事も退職することになったので、まあ仕方ないことだが。しかも俺自身が何も語らなかった。こういう時は何を言っても言わなくても噂は止められない。噂のおヒレはもっと。もともと俺はプライベートな事を周りに話さない方だったから憶測が飛び交うのも無理なかった。でも俺を長い間面倒見て来てくれた高峰さんは、詳しく話すことを躊躇ってる俺を本気で怒った。
「他の人間は知らないが、俺はお前から仲人まで頼まれた上司だ。いや、上司風を吹かせるのは嫌いだ。でも俺はお前を可愛がってきたつもりなんだよ。お前も俺を慕ってくれてた。仲人の話が出た時も嬉しかった。」
「・・すみません。」
「謝ることはない。言いたいこと言う奴には言わせておけばいい。でも俺にはせめて納得いく話をしてほしい。」
こんな時にまで親身になってくれる上司に、俺は目頭が熱くなる思いだった。
「・・わかりました。じつは・・。」
俺は今までのいきさつをざっと話した。あまり細かい話をしなくてもこの人ならわかってくれる。俺が話している間、彼はずっと黙って下を向いていた。真剣に話を聞いてる時はいつもそのポーズだった。だから彼が本当に真剣に俺の話を聞いてくれているのは確かだった。大まかに話をして俺が黙ると、彼はこう言った。
「不器用な奴だ、いつまでたっても。」
そして俺は長く(10年?)勤めた会社を後にした。
「もういいって何が?」
知紗さんの“もういい”の意味はわからなかったけど、いい話じゃないだろうとは思った。でも俺はあえて意識して穏やかな顔で彼女に向いた。
「本当に、もういい。ありがとう、穂村君。」
「また穂村君て呼ぶ。違うよ。名前、呼び捨てにしようって言ったじゃんか。」
萌と別れる決心をして知紗さんのもとを訪れた日、ひたすら涙を流す彼女に俺は言った。「これからはお互い“さん”づけや“君”づけをやめよう。世界で誰よりも夫婦になろう。」と。実際俺は婚姻届の用紙も持って行ってた。それくらいの覚悟だった。知紗さんの親に頼まれたからだけじゃない。萌と一緒にいた時、俺は努めて萌のことだけ見るようにしていた。萌を愛していた。でもどこかで知沙さんの存在を完全に否定できなかった部分があった。萌と一緒にいたまま知沙さんを無視してしまう事は多分出来た。そうすれば俺は傷ついた萌を時間がかかっても癒す自信があった。でもどこかで知紗さんの存在を完全に否定できない部分があった。
俺が萌と生きていくより知紗さんを選んだ理由は、そんな風に漠然としていた。漠然としていたけど覚悟はあった。彼女に、この世に生を受けてよかったと思わせるような時間を与えること。萌から恋人だった人の自殺を聞いた時、俺は萌のことしか考えてなくて死んだ人間のことは全く無関心だった。萌が可哀想だった。でも可哀想と思いながらもどこかで他人事だった。知紗さんが癌の末期で手の尽くしようがないと知った時、最初は本当に戸惑った。“だからどうした?俺にどうしろっていうんだ?”それが本音だった。萌に見舞いに行くよう言われた時も一人で知紗さんに会うのが躊躇われた。どんな顔をしていいのか。どんな顔でなんて言えばいいのか。