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第87話 クエトの言葉

 地下八階へ向かう階段に、静かな足音だけが響いていた。


 先頭を歩くエリューシアの背を見ながら、終司は周囲へ注意を向ける。


 襲撃者は現れない。


 だが、だからといって安心出来る状況でもなかった。


 むしろ静か過ぎる。


 何かが待ち構えているような気配だけが、地下施設全体に漂っている。


「……先程の話なのですが」


 不意にエリューシアが口を開いた。


 終司は視線だけ向ける。


「クエトのことか?」


「はい」


 エリューシアは小さく頷く。


 しばらく沈黙が続いた。


 階段を上る音だけが響く。


「終司さんは」


 やがて、彼女は言った。


「どう思いますか」


「何についてだ」


「私が原因だという話です」


 終司は答えない。


 エリューシアもすぐには続けなかった。


 何かを整理するように数秒黙り込み、それから静かに口を開く。


「私には昔の記憶がありません」


「ああ」


「皆さんは、私をエリューシア・フラウレスだと言います」


 その声音には、僅かな迷いが混じっていた。


「ですが、私にはその実感はありません」


 階段の踊り場へ出る。


 白い照明が二人を照らした。


「以前にも話しましたね。私は、偽物なんです」


 終司は黙った。


「記憶を失う前の私こそが本物で、今の私は身体だけを受け継いだ別人で……」


 その言葉を聞いても、終司は否定しない。


 エリューシアは少しだけ寂しそうに笑った。


 沈黙が続く。


 そして、その沈黙を終司は破った。


「俺は」


 終司が口を開く。


「君に過去の話をすることを拒んだ」


「はい」


「不満だっただろ?」


 少しだけ考えて、エリューシアは答える。


「少しだけ。本当に少しだけですけど、そう感じていました」


 正直な返答だった。


 終司は小さく息を吐いた。


「そうだろうな」


 そして続ける。


「でも俺は、どうしても話す気になれなかった」


 エリューシアが振り返る。


 その水色の瞳が終司を見つめる。


「どうしてですか?」


 終司は少しだけ考えた。


 言葉を選ぶ。


「君は記憶喪失じゃないからだ」


 エリューシアの足が止まる。


「……え?」


「ただ記憶を失っただけなら話している」


 終司は静かに言った。


「でも、君の場合は違う」


 地下施設の照明が白く反射する。


 エリューシアは黙る。


「過去のエリューシアは死んだ」


 終司は真っ直ぐ言った。


「それは肉体の話じゃない」


 少しだけ間を置く。


「精神の……魂の話だ」


 エリューシアの瞳が揺れる。


「俺はその瞬間を見ている」


 静かな声だった。


「魔力を全て失った魔法使いがどうなるのかも知っている」


 終司は続ける。


「だから俺は、君を昔のエリューシアだと思ったことは一度もない」


 残酷な言葉だった。


 だが、終司は誤魔化さない。


 それは探偵だからではない。


 ただ、事実を捻じ曲げたくなかった。


「クエトの一件で、財前やラスティに起きた魔力損失も見た」


「……はい」


「あれは似ているようで別物だ」


 終司は静かに言う。


「君に起きたのは、もっと完全な魔力喪失だった」


 記憶に人格。


 価値観。


 積み重ねてきた人生。


 それらが全て失われた。


「だから、俺にとって君は別人なんだ」


 エリューシアは何も言わない。


 ただ黙って聞いている。


「過去のエリューシアがどんな人間だったのか」


 終司は肩をすくめた。


「確かに俺は知ってる」


 強くて真面目で不器用で、だけど優しい誰よりも自分を後回しにする人間だった。


 だが、その言葉は飲み込む。


「話そうと思えば話せる」


 終司は続ける。


「でも、それを君に押し付ける気にはなれなかった」


「押し付ける……」


「今の君は今の君だ」


 終司は言う。


「過去のエリューシアの人生を知ったところで、それは君の記憶にはならない」


 エリューシアは俯く。


「だから話さなかった」


 終司は続ける。


「話すべきじゃないと思ってた」


 しばらく沈黙が続く。


 やがてエリューシアは小さく息を吐いた。


「……そうですか」


 その声に悲しみは無かった。


 むしろ、どこか納得しているような響きだった。


「終司さんらしいですね」


「そうか?」


「はい」


 小さく笑う。


 少しだけ空気が和らぐ。


 そしてエリューシアは前を向く。


「ですが」


 彼女は静かに言った。


「私はそれでも知りたいです」


 終司は黙る。


「過去の私が……エリューシア・フラウレスがどんな人間だったのか」


 その声には確かな意志があった。


 知りたいからではない。


 向き合いたいからだ。


 クエトの言葉。


 魔女狩り事件。


 自分が原因だという真実。


 その全てから逃げないために。


「終司さん」


 エリューシアが振り返る。


「もし、クエト先生の言った真実に辿り着けたら」


 少しだけ迷ってから、彼女は言った。


「その時は、私の過去を聞かせてください」


 終司はすぐには答えなかった。


 本当は今でも迷っている。


 話すことが正しいのか。


 今の彼女のためになるのか。


 答えは出ていない。


 だが――少なくとも。


 今の彼女は、自分の意志で真実へ向かおうとしている。


 過去に縋るためではなく、今の自分として。


 その意味は大きかった。


「……ああ」


 終司は短く答える。


「その時が来たら、な」


 エリューシアは目を見開く。


 それから、本当に少しだけ嬉しそうに笑った。


「約束ですよ?」


「約束はしてない」


「ひどいですね」


「期待はしないでくれ」


「善処します」


 そう言って笑う彼女の表情からは、先程までの陰りが少しだけ薄れていた。


 今のエリューシア。


 過去のエリューシアではなく、今ここにいる少女自身の笑顔だった。


 終司は何も言わない。


 ただ静かに前を向く。


 そして二人は再び階段を上り始めた。


 地下七階へ向かって。

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