6 ようこそ、妖の世界へ(2回目)
四月、桜子に桜鬼として力を貸すよう要求した黒猫は、頼みごとをしているとは思えない高慢な態度で、というか頼みというより命令という方が近く、いやそれより恐喝という方が適切かもしれないが、とにかく、常に上から目線で横暴で、そもそも最初に取った行動が拉致という、非常識極まりない奴だった。
それに引き換え、今目の前にいる男はどうだろう。般若面という問題はあるが、それ以外はいたって常識的。人に頼みをするときの態度というのを解っている。どこぞのばか猫と違って非常に理性的、信頼感のある男だった。
しかし、そうはいっても、頼みごとの内容も知らないままおいそれと引き受けるわけにはいかないし、そもそも桜子は、桜鬼の血を引いているといっても、今まで人間として生きてきた半妖。妖怪としての力など何も使えない。もしも緋桜のような強大な力を期待されているなら、安請け合いはできない。
「あの、とりあえず頭をあげて。それと、私は桜鬼なんていっても、なんの力もない半妖よ。私にできることなんてないわ。妖怪の世界で何が起こっているか知らないけれど、助けが必要なら他を当たってくれると……」
「いいえ、桜子様にしかできないことなのです。なにとぞ、力をお貸しください」
「だから、私は何もできないし……せめて、まず事情を説明してほしいのだけれど」
「申し訳ありませんが、急ぎの案件ゆえ、桜子様にはすぐに妖怪の世界に来ていただきたく存じます」
「いやそれはさすがに」
「失礼をば」
男はさっと立ち上がると、戸惑う桜子を流れるように抱き上げる。俗にいうお姫様抱っこである。
「え? は? ちょっとあんた!」
「参ります!」
「参るな! 勝手に参るなあああ!!」
少しは常識的な奴かも、などと思ったのが間違いだった。桜子の苦情をさらりと無視し、男は桜子を担いで一歩を踏み出した。
そして、目の前の世界ががらりと変わる。
じりじりと照りつける陽光に、手で庇を作って目を眇める。妖の世界でも夏の暑さは健在らしい。だが、アスファルトの照り返しがない分、もしかしたら暑さは和らいでいるかもしれない。
お姫様抱っこは「門」を越えるほんの一瞬だけで、桜子はすぐに地面に降ろされた。あたりを観察してみると、現代日本のようなコンクリートジャングルが存在しないのは同じなのだが、クロに連れられてきたときに見た風景とは少し違うようだった。
見たことのない民家の並び、見たことのない遠くの山。
「ここは……」
「こちらは鬼の住まう郷、鬼津那の郷でございます」
「鬼の……って、結局私、妖怪の世界に連れてこられた! また拉致られた! 事情の説明もナシにこんなのってアリ? 妖怪とは縁を切って人としてフツーに生きようという私の決意がぁぁ」
「申し訳ありません。火急の案件でしたゆえ。ご無礼をお許しください」
「ねえ、今からでもいいから家に帰してくれない? ほんと、私にできることなんか皆無だって」
「詳しい話をいたしますゆえ、こちらへどうぞ」
「人の話聞けよッ!」
クロと違って物腰は丁寧なのだが、都合の悪いことは当たり前のように聞き流す奴らしい。般若男はすたすたと歩き出す。
結局、四月と殆ど同じ状況だ。帰り方が解らない。帰してもらうにはこの男についていくほかないようだ。
もしかしたら、クロを探して頼めば帰れるのかもしれないけれど。
一瞬よぎったその考えを、桜子は頭を振って追い払う。
――あんな薄情者に頼ってたまるものか。
そんな選択肢、鼻かんだティッシュにくるんでポイだ。桜子は般若男に黙ってついて行った。
四月に最初に訪れたのは、野牙里の郷の、たくさんの店々が立ち並び、往来を多くの妖たちが行き交う、華やかで賑やかな目抜き通りだった。対してここは、民家が疎らに立ち並んでいるが、人通りはなく、あたりはしんと静まり返っている。
「ねえ、鬼の郷ってどういうところなの?」
前を行く般若面に問いかける。男は前を向いたまま話す。
「この郷には鬼が住まいます。他の郷に比べて閉鎖的な郷ゆえ、鬼以外の妖が住まうことはほとんどありません。そしてここで生まれた鬼たちも、外の地に出ていくことはほとんどなく、多くの者がこの地に骨を埋めます」
どうやら、野牙里の郷とは比べ物にならない、典型的閉鎖社会らしい。猫や狗たちも、一族同士の結束は強かったが、閉鎖社会に生きる鬼たちは、おそらくそれ以上だろう、と桜子は想像する。
ここでふと思うのは、ということは妖の世界を津々浦々と行脚していた桜鬼・緋桜は、鬼の中では異端中の異端だったのでは、ということだ。
「この郷を取り仕切るのは、赤鬼家と青鬼家の二つの家です。古来より二つの家の鬼が、郷の神事や祭事を行って参りました。――桜子様、こちらです」
般若面が立ち止まり、目の前の屋敷を示した。
「でかっ……」
眼前には立派な門、その向こうには広い庭、大きな屋敷が鎮座している。武家屋敷、という呼称が相応しいかもしれない。野牙里の郷の風景はぎりぎり昭和の町並みのように見えたが、ここは江戸時代にでも飛んできたような気分にさせられる。といっても、桜子の昭和だの江戸だののイメージは高校教科書レベル止まりなので、実際のところがどうなのかは謎である。
広い屋敷の割に、人は他にいないのか、それとも家人は私語を慎む決まりでもあるのか、あたりは静まり返っていた。中に入ると、真新しい畳の匂い。桜子は八畳間の座敷に通された。集会場で狗猫の面々を前にした時とは別の緊張に襲われる。前回は、大勢の人の前で矢面に立たされた時の緊張、今回はどうにも場違いなところに放り込まれた時の緊張。どちらも胃が痛くなるという点では共通している。
正座して体を固くしていると、相対する般若面は小さく笑った。
「どうか、そうかしこまらず」
「はあ」
慣れない場所で、般若面と二人きり。これで緊張できずにいられるのは超絶楽天家だけだろう、と桜子は思う。
桜子の不安を感じ取ったのか、男はようやく般若面を外して顔を見せた。黒い髪に、青藤色の瞳をしていて、年の頃はクロと同じ、二十代くらいに見える若者だった。ただし、「見える」というだけで実年齢は例によって不明である。
「私は青鬼家当主、忍と申します。桜子様、あなたにはどうか、三日後に行われる神事、『鬼貴降』に出ていただきたいのです」
「ききくだり?」
初めて聞く言葉に首を傾げる。
「百年に一度、鬼津那の郷で行われる神事です。北西の方角に山があるのをご覧になりましたか」
「来る途中に見えた山のこと?」
「あれは霊鬼山といい、山の中腹にある社には、現鬼神がおわします」
「あらおに……ああ、現人神の鬼版ってこと」
現人神は、人の姿となって現れた神をいう。日本では普通、天皇のことを指す。現鬼神ということは、ここでは神は鬼の姿をしていることになる。つまりあの山には、普通の鬼とは別格の、神として崇められる鬼がいるのだ。
「鬼貴降は、郷の鬼が巫女として現鬼神と盃を交わし、この先百年の平和を願う儀式です。本来ならば、赤鬼家と青鬼家が持ち回りで神事を行っていたのですが、今回神事を行う予定だった赤鬼家の者が病で倒れ、巫女を務められなくなったようなのです。神事を行う巫女は、まず女性でなければなりませんし、貴い鬼の血を持ち、清廉で美しい処女でなければなりません。この鬼の郷には、他に巫女の資格を持つ者がいないのです。そこで、代わりに、貴き桜鬼の血を引くあなたに、神事を行っていただきたいのです」
「ちょっと待って、私、処女だなんて一言も言ってないけど」
「違うのですか?」
「…………」
真顔で聞き返されたら嘘もつけない。
「……すみません見栄張りました」
屈辱だ。どうせ処女だろ、と思われていたのも癪だし、実際そうなのも癪だ。
「けど、私は半妖よ。半分は人間なの」
「存じ上げております。ですが、半分人間の血が交じろうとも、桜鬼の血の高貴さに変わりはありません」
そこで忍は深々と頭を下げて懇願する。
「どうか、お願いします、桜子様。鬼貴降の巫女を務められるのはあなただけなのです。今後百年の鬼津那の郷の平穏のために、力をお貸しください」
上から目線で酷い命令をしてきたどこぞの猫とは大違い。忍は真摯に頼んでくるし、どうやらとても困っている様子だ。鬼たちが困っているのを知りながら放っておくのも気分が悪い。この窮状を、自分が協力すれば打破できるというなら、手伝ってあげたいと思う。
話を聞く限り、さほど難しい要望ではない。今回は桜鬼としての特別な力を求められているわけでもないし、半妖でも構わないと認めてもらっている。警察でも探偵でもないのに、争いを収めろだの事件の犯人を捕まえろだの言われるよりは、分相応の仕事だ。桜子にとって、大きな障害はなさそうだ。
「……ちなみに、私が引き受けないっていったら、どうするの。私のことは帰してくれるの」
「なにとぞお願いします、桜子様」
「……」
相変わらず、都合の悪いことは耳に入らない都合のいい野郎である。涼しい顔をして存外狸かもしれない、鬼なのに。
桜子は逡巡する。もしも引き受けたら――少々面倒ではあるが、鬼の郷は助かるし、桜子もおそらく無事に家に帰してもらえる。
もしも引き受けなければ――桜子の問いかけをまるっと無視したということは、引き受けなければ帰さないぞと暗に脅迫しているようなものだ。だとすれば、逆らうのはあまり得策ではない。
結局、退くことはできそうにないようだ――桜子はひっそりと溜息をついた。
我ながらお人よしだとは思うが、困ってる人を放っておけない、頼まれると断れない性分は、そう簡単には治りそうにない。
「……解ったわ。神事で巫女役をやる、それだけでいいのね?」
忍はぱっと顔を上げ満面の笑みを浮かべて喜ぶ。
「ありがとうございます、桜子様!」
都合のいいことはばっちり聞こえている。真面目に見えて実は調子のいい野郎だな、桜子は思った。




