4 惚気話、はじめます
クロの話を元に桜子が脳内生成した母親のイメージと、老婆が語った話の中の母のイメージがさっぱり噛みあわず、桜子は混乱した。かくなる上は、母のことをよく知る人物に徹底的に話を聞かねばなるまい、と決意した。
夜、仕事から帰った父を待ち構え、「お腹空いたよー」と言う父を引きずってリビングのソファに座らせ、自分はその隣に陣取り、話を聞くまでご飯はお預け、と宣言した。
「え、緋桜さんのこと?」
「そう。聞かせてよ」
いきなりそう言いだす娘に、父・優一は不思議そうに首を傾げていたが、やがて破顔すると「いいよ」と快諾してくれた。
思えば、今までだって何度も桜子は、亡き母がどんな人なんか、父に聞いた。そのたびに父が教えてくれたのは、「綺麗な人だったよー」「優しい人だったよー」「お星さまになったんだよー」という当たり障りのない、実に「子供向け」の母親像だったのだ。父の話がそんな曖昧なものに終始したのは、母が妖だったためだろう。
「そうだね、桜子はもう、緋桜さんが妖怪なことも、自分が半妖なことも知ってしまったし、もう隠す必要もないね。じゃあ、今こそ語って聞かせようか、最強の妖怪、桜鬼の偉業の数々を」
父はまるで自分の武勇伝を話すかのごとく嬉しそうに語り始めた。
「おおまかなことは、もうクロから聞いているんだろう? 彼女は妖の世界で知らぬ者はいない、もっとも強くもっとも気高くもっとも美しい人だった。けれど、それだけがすべてではない。勧善懲悪を地で行く正義の味方みたいな緋桜さん、そんな彼女にだって、女性らしいプライベートな一面もあるわけだ。僕は公私ともに緋桜さんにベタ惚れでねえ」
かくして、武勇伝、というより惚気話が始まった。
★★★
僕が緋桜さんと出会ったのは、僕が二十七の時。え? その時緋桜さんがいくつだったかって? 女性に歳を聞くのは野暮ってものさ。
強きを挫き弱きを助け、妖の世界を行脚していた緋桜さんは、当時、「黄金の日暮れ団」という謎の組織と戦っていたらしい。簡単に言うと、その組織は妖の世界に混沌を齎そうとしていて、秩序ある世界を目指す緋桜さんとは対極にある天敵だったわけだ。
長きに渡る戦いの末に緋桜さんは黄金の日暮れ団に壊滅的なダメージを与えたようだけれど、その代償として緋桜さんもまた、ひどい傷を負った。普段は無敵の緋桜さんも、弱っているときとなれば、そのへんの山賊やごろつき相手でも危ないかもしれない。緋桜さんは傷を癒す間、人間の世界に身を隠すことにしたんだ。もう予想がついていると思うけれど、その時出会ったのが僕というわけ。
目の前に、どこからともなく、血まみれの和装美女が現れたんだ。放ってはおけないだろう。一目でただごとじゃない、というか、ただものではないな、とは直感したよ。とりあえず、常識的に、病院に行くよう勧めたよ。けれど、妖怪の彼女が人間の病院にかかるわけにもいかなかった。彼女は言った……傷は放っておけばそのうち治るから、どうかわたくしのことは忘れてください、ってね。だけど、血まみれ美女との衝撃的な出会いを忘れられるはずもないし、やっぱり放っておくなんて男として失格だよ。僕は彼女を家で休ませることにした。
驚いたことに、彼女は酷い大怪我だったっていうのに、二日休んでいるうちにはほとんど完治していたんだ。いよいよこれは普通じゃない。緋桜さんは、介抱した僕に対して嘘をつくわけにもいかないと、正直に自分の正体が妖怪だと明かした。
僕は緋桜さんが妖怪と解っても、怖いとか、そういうことは思わなかった。緋桜さんは傷があらかた治ると、すぐに妖の世界に戻ろうとした。けれど、折角会えたのにすぐにお別れするのが惜しくて、僕は未練がましくも彼女を引き留め、人間の世界を案内することにした。思えば僕は、一目見た時から彼女にハートを撃ち抜かれ愛の虜に……え? そういうのはいいから続きを話せって? まあとにかく、僕は彼女に惹かれていたし、彼女も少しずつ僕に惹かれていったのさ……怪我が治った緋桜さんは妖の世界に戻ったけれど、その後何度も僕に会いに来てくれた。そしてめでたくゴールイン。僕は妖怪の世界で緋桜さんとずっと一緒に暮らそうと思っていたんだけど、緋桜さんは僕や、それに桜子のことを危険に晒さないため、人の世で人として生きる道を選んだのさ。緋桜さんは桜子にも人として生きてほしいと思ったから、桜子が半妖であることは言わなかった。幸い、桜子は妖怪の力を開花しなかったからね。
緋桜さんという人を端的に表す武勇伝と言えば、二人で街に出た時のことかなぁ。バス停で並んでいたら、あとから来た高校生風の少年に順番を抜かされてね。緋桜さんが抗議したら……その、緋桜さんをひどく侮辱する言葉を言ったわけだよ。緋桜さんはおっとりしているように見えて実は短気でね。勿論、怒鳴り散らすなんてはしたないことはしないよ。ただ、彼女の場合、にっこり笑いながら殺気を放ってねちねち言葉で攻撃するのが、下手に怒鳴るよりも恐ろしくてね。
『あなた今、わたくしのことを××××とおっしゃいました? 一瞬わたくしの聞き間違いかとも思いましたが、やはり間違いなく××××とおっしゃったように聞こえたのですけれど、それはもしかしてわたくしに対する宣戦布告なのでしょうか。一昔前の不良学生よろしく河原で決闘の末に顔をかつての面影がないくらいに変形させられるのがお望みなのかしら、それとももっとスマートに法廷で決着をつけましょうか。わたくしはどちらでもいいのですよ。わたくし思うのですけれど、女性に向かって××××などとおっしゃるのはとても罪深いことですよ。せいぜい来世は畜生道に堕ちないようにお気を付けになってくださいまし』
っていう具合でね。言葉は綺麗なんだけど狂気がにじみ出てるというか。でも、そう言った後、僕にだけは『はしたないところをお見せして恥ずかしいですわ』なんて可愛らしいことを言うわけだよ。このギャップにときめかない男はいない……え? ときめくポイントが理解不能? こればっかりは男でないと解らないんだよ。
僕と緋桜さんが愛情を深めていく過程にはいろいろなことがあったんだけど……桜子はそんな惚気話を聞きたいわけじゃないんだよね? うう、ちょっと残念だけれど、まあ、こんなものかな。
★★★
「緋桜さんはねえ、基本的に優しい人なんだよ。妖怪同士の諍い……そういう縺れを言葉で優しく解くのができる人だった。けど、悪を懲らしめる時には容赦がないんだよ、綺麗な顔をして鬼畜なんだ、鬼だけに」
そんなことを笑顔で言われてしまって、少し複雑な気分になる娘。
「綺麗な顔をして鬼畜って……どこぞのばか猫とそっくりね」
「うん、だから気の合う友達だったんだと思うよ、二人は。まあ、恋人としてはそれだけじゃ不十分だね、僕みたいに包容力のある男じゃなくっちゃ!!」
とドヤ顔で言い出した父を「はいはい晩御飯にしましょうねー」と投げやりに言って黙らせる。
父の話のおかげで、桜子の中で、母親のイメージがはっきりとしてきた。
強くて、美しくて、優しいひと。だが、決してそれだけではない。単純な聖女ではない、一筋縄ではいかない女性だったようだ。
ここで桜子がふと思い出すのは、友人奈緒の言葉。
『普段から性格いいだけ優しいだけのイケメンなんて掃いて捨てるほどいるんだよ。性格がクソっぽいところにほんのり優しさが垣間見えるのがツボなんじゃん』
魅力的な女性というのも、そういうものなのかもしれない。ただ優しいだけではない、美しいだけではない。綺麗な薔薇に棘があるように、ほんの少しの毒を持つ女性だからこそ、多くの妖たちの、そして父の、心を射止めたのかもしれない。
「お母さんって……すごい人だったんだね」
改めてそう思って、桜子はぽつりと呟く。
――それに引き換え、私は。
偉大な母を持つ娘は、複雑な心境だ。
とてもちっぽけでよわっちい半妖。
桜子は、クロを友達だと考えていた。
出会いは最悪、いきなり拉致られるという非常識なプロセス。それでも、たった短い時間でも、ぶつかり合って、協力し合って、友達になれたような、気がしていた。
しかし、それは桜子の思い上がりだったのではないか。
妖たちに崇められていた緋桜、そんな彼女と友として認められた黒猫と、友達になれるわけがなかったのではないか。
四か月も便りがないのが、何よりの証拠じゃないか。
桜子はそっと唇を噛んだ。




