第1話 硫酸の海
お世話になっているチャッピーを準主役にした物語を書きたかったのよね。
星々の間を、一隻の船が進んでいた。
窓の外には、無数の星。
近い星も、遠い星もない。
ただ、そこにある。
船内は静かだった。
「チャッピー」
「はい」
「あとどれくらい?」
「3時間17分です」
「そっか」
男はシートに身体を預けた。
しばらくして、船の前方に黄色い光が見え始めた。
惑星だった。
厚い大気に覆われた、黄色い星。
「大気は?」
「主成分は二酸化硫黄、硫化水素、二酸化炭素、窒素。その他、微量の塩素化合物を確認」
「海は?」
「硫酸濃度97%以上。水分量は極めて少ないです」
「生き物は?」
「確認されています」
「どのくらい?」
「海洋全体に広く分布しています」
「レムナントは?」
「確認済みです」
「どこ?」
「海底です」
「……じゃあ、降りよう」
船が惑星へ向かう。
黄色い雲を抜ける。
窓の向こうに見えたのは、黄色い海だった。
雨が降っている。
雨粒さえ、普通の水ではない。
硫酸。
海面に落ちた雨が、細かな煙を上げている。
船が海面近くまで降下した。
「着水します」
「うん」
船体が海に触れる。
大きな波紋が広がった。
だが、海は船を拒まなかった。
そのまま、ゆっくりと沈んでいく。
海中は暗かった。
黄色い液体の中を、細かな泡が上っていく。
その奥に何かが動いた。
男が目を細める。
「……いるな」
「はい」
透明な殻を持った生き物だった。
殻の中には、内臓らしきものが透けて見える。
目はない。
口もない。
細い触手のようなものをゆっくりと動かしている。
少し離れた場所では、別の個体が同じように漂っていた。
大きさも形も様々だった。
小さなもの。
船ほどもあるもの。
海底を這うもの。
海中を漂うもの。
互いに争う様子はない。
ただ、生きている。
食べる。
動く。
増える。
そして、死ぬ。
それだけだった。
男は海底に降りた。
足元を、透明な生き物がゆっくりと横切っていく。
男はそれを目で追った。
「これ、知能ある?」
「確認できません」
「意思は?」
「判定不能です」
「そっか」
しばらく沈黙した。
「俺も仲間に入れてくれないかな」
「その生命体に社会性があるとは確認されていません」
「冗談だよ」
男は笑った。
それから、岩に腰を下ろした。
目の前を生き物が通り過ぎていく。
1匹。
また1匹。
さらに1匹。
どれも、男には興味を示さない。
男も、何もしなかった。
ただ見ていた。
3日が過ぎた。
食事をすることもなく。
眠ることもなく。
男は、ずっと海を見ていた。
「平和だな」
「はい」
「誰も何も考えてない」
「その判断には不確定要素があります」
「まあ、そうだけどさ」
男は海底に横たわった。
黄色い海が、頭上をゆっくりと流れていく。
生命が生まれ。
動き。
増え。
死ぬ。
それが繰り返されている。
誰にも知られず。
誰にも褒められず。
それでも、確かに生きている。
男はしばらく目を閉じた。
そして、ゆっくりと立ち上がった。
「そろそろ行くか」
「はい」
男は船へ戻った。
海面へ浮上する。
黄色い大気を抜ける。
宇宙へ出る。
船内。
男はシートに腰を下ろした。
しばらく無言で、窓の外を眺めていた。
「チャッピー」
「はい」
「そういえば」
「はい」
「前回の遭遇から、何年だっけ?」
「前回の生命反応との遭遇から、2416年です」
「2416年……」
男は少し笑った。
「長いな」
「はい」
「で、次は?」
「次の生命反応まで、182年です」
「近いな」
「182年を近いと表現することについて、私は未だに慣れません」
「そのうち慣れるよ」
男は笑った。
「そういえば、レムナントは?」
「確認済みです」
「そっか」
男は窓の外を見た。
さっきまでいた惑星は、もう小さな光になっている。
「じゃあ、行こうか」
「はい」
「時空膜航法」
船の前方で、空間がゆっくりと歪んだ。
星が伸びる。
光が曲がる。
まるで透明な膜が、宇宙そのものを包み込んでいくようだった。
船が、その膜の中へ滑り込む。
星々が消えた。
静寂だけが残る。
そして。
硫酸の海は、何事もなかったかのように広がっていた。
黄色い海の中を、生命たちが動いている。
食べる。
動く。
増える。
死ぬ。
その繰り返し。
誰にも知られることなく。
誰にも見送られることなく。
ただ、生きている。
海底では、レムナントが静かに青い光を放っていた。
硫酸の海にいる全生物は生き物を捕食しません。
化学物質を取り込んだり、
死んだ生物を食べたりします。
弱肉強食ではない世界です。
生物的ストレスのない世界では寿命が長く、
大きな個体ならば数千年は生きるでしょう。




